THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ | れぽれろのブログ

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10月29日の土曜日、国立国際美術館に行ってきました。
国立国際美術館は主として戦後以降の現代美術を蒐集・展示する美術館なのですが、今年度はどういうわけか現代美術の展示が少ないです。
その中の数少ない現代美術展の1つ、「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」と題された展示を鑑賞しましたので、感想などを書き留めておきます。

 


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THE PLAYは主として関西で活躍する美術家集団。
本展のタイトルの通り1967年から活動を続けており、活動は本年で49年目になるようです。
メンバーは時代によって都度入れ替わり、現在は5人で活動されておられるのだとか。
活動内容はいわゆるパフォーマンスアート、乃至はハプニングの一種といえるもので、造形作品を形作るのではなく、都度何らかの行為を計画・実行していくというものです。
なので本展は造形作品を展示するという形ではなく、彼らの過去の「作品」(行為)の記録を展示するという形式になります。


活動の内容は様々ですが、どちらかといえば計画性と手間暇がかかる、下手をすると危険な目に合いかねないような、そんなパフォーマンスが多いです。
活動例をいくつか挙げると・・・
発泡スチロールの筏で川を下る。
同じく家のような張りぼてで川を下る。
山の上に巨大な白い十字を設置する(山の下の街から見えるくらい巨大なもの)。
人間の身長の何倍もあるような巨大な旗を立てる。
羊の群れを連れて街を移動する。
山上に木組みのピラミッドを立て、その上に避雷針を据え付け雷を待つ。この雷を待つ行為を10年間(←!)、初夏から初秋の間毎年続ける。
風の向くまま移する。本当に風向きの方向に移動し風向きが変わると移動方向を変える。これを北海道の大自然の中で継続する。
沖縄県南大東島の周囲を囲む使用されなくなった線路をトロッコで移動する。
巨大な黄色いパイプの数々を山上に運び込みパイプを山上で接続する。
口永良部島のくぼ地を見に行く。
などなど。


パフォーマンス自体が作品ですので、我々鑑賞者はそのパフォーマンスの記録を確認しながら、パフォーマンスの在り様を想像するという形になります。
会場にはこれらのパフォーマンスの詳細、ちらしなどの印刷物、メンバーの手記、写真、映像、パフォーマンスで使用した筏などの現物、パフォーマンスを計画するにあたって参照した書籍その他のものが展示されていました。
これらの展示からパフォーマンスの様子を想像するのが楽しいのと同時に、印刷物の内容・文章などがむやみに面白く、これらの情報だけで飽きさせず楽しませる展示になっていました。


THE PLAYに関しては5年前に国立国際美術館で開催された「風穴-もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから」と題された展示でも取り上げられており、一部そのときの展示と重複しているものありました。(この展示は東日本大震災の直後に鑑賞したことが印象深いです。)
こういった活動の記録や周辺情報、印刷物などの副次的な情報が主体の展示というのもなかなかに面白く、ここ数年の展示で言うと、「塩見允枝子とフルクサス」(国立国際美術館、2013年)、「実験工房展」(富山県立近代美術館、2013年)、「昭和モダン 絵画と文学」(兵庫県立美術館、2013年)などの副次情報の展示をなんとなく思い出したりもしました。
THE PLAYの場合は新聞・雑誌などの客観的な報道・批評による印刷物よりも、THE PLAY自身が準備した印刷物の展示が多く、これが詳細で分析的でありながら、どことなく緩さとある種のユーモアが漂っており、テクストを読むのがまた楽しかったです。

 


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いくつか考えたことなど。


THE PLAYのパフォーマンスの面白さは、「馬鹿馬鹿しいことを真剣にやる」というところにあると感じます。
上にあげたパフォーマンスの数々は、一見馬鹿馬鹿しいことばかりです。
木組みの巨大ピラミッドを夏ごとに山上に組み立てて10年間落雷を待ち続けるなど、想像はしてもまさか本当に実行するとは、という感じ。
想像するのは簡単ですが、このために周到に計画を練り、下準備を進め、メンバーを集め、日程を決めて実行に移すのはかなり大変。
これらのパフォーマンスは単に遊んでいるだけだと批判されかねないようなものですが、真剣に遊ぶのは実に大変で、場合によっては危険を伴うものでもあります。
危険や批判をも顧みず、馬鹿馬鹿しいことにトライするということは、実に面白いことだと思います。


大きな美術史の中で考えた場合、ロバート・スミッソンらの70年代のアースワークの諸作品や、クリスト夫妻による「包む」作品などに近いような印象を受けます。
これらの作品はまだしも美的な価値観を追及しているように見えますが、THE PLAYの場合はあまり美的価値を追及している感じはなく、もっと緩く、ユーモアと馬鹿馬鹿しさを感じさせるようなところが特徴的です。
(そういえば雷を待つ作品はウォルター・デ・マリアの「稲妻の原野」と類似性がありますが、THE PLAYの方がもっと緩くてユーモラスな感じがします。)


THE PLAYの場合、感覚的にはお祭りに近いかもしれません。
大規模な現代美術は少なからず祝祭的な雰囲気を帯びるものですが、THE PLAYが真剣に遊ぶ姿は、各地域のある種の危険なお祭り(例えば岸和田だんじり祭りのような)を実行するような感覚に近いと言えるかもしれません。
最もTHE PLAYの場合は身体が熱狂するような強度的なお祭りに比べると、ずっと緩くてのんびりしたものが多い印象ですが、ある種のお祭りとの近似性はあるように感じます。


社会史的・文化史的に考えてみると・・・。
社会学者見田宗介によると、60年代以前は「理想の時代」「夢の時代」と位置付けられ、70年代以降は「虚構の時代」と位置付けることができるのだそうです。
60年代以前は、高度成長による豊かな社会、社会運動による平等な社会を夢見ることができた時代です。

一方で70年代以降は、オイルショック・ニクソンショックにより高度成長から低成長へ移行、理想に燃えた学生運動も過激な内ゲバで崩壊、さらなる経済発展の夢も、平等な社会の実現への夢も、潰えてしまいます。
社会の方向性は、さらに豊かな理想的世界の待望を諦め、今ある現実をそれなりに享受する方向に切り替わっていきます。
現実を読み替え、虚構化し、楽しみを享受する虚構の時代。


THE PLAYは60年代の終わりから活動を続けており、今回諸作品を鑑賞して、まさに70年代的な虚構の時代を体現しているような作家であると感じました。
パフォーマンスの緩い雰囲気は、何かの理想や夢を追及しているわけでもなく、美や崇高や完全性を追い求めている感じもなく、ただ目の前にある現実を読み替えて、そこに虚構的な遊びを実行する。
目の前にある見慣れた淀川や六甲山が、いつもとは違った形で立ち現れてくる。
雷が落ちるという結末=理想的体験を必要とするのではなく、雷を待つそのプロセス自体を楽しむかのようなそのパフォーマンス作品の在り様は、高度成長的ではなく低成長的な、夢ではなく虚構的な作品であり、社会の変遷とどことなくリンクしているような印象を受けました。
今ここでは体験できない何かを求めるのではなく、今ここを読み替えて享受する・・・。


そして、これらのパフォーマンスを事後的に我々鑑賞者が追体験できるように、資料その他を残存させていることも、これまた重要なことであると感じました。
基本的にあらゆるアート作品は鑑賞者があって初めて成立します。
美術団体がパフォーマンスを実行しても、記録されなければ鑑賞する人はおらず、鑑賞する人がいないと作品として成立しません。
このような形で49年に渡る作品の記録を追うことができるのは、非常に幸福なことであると感じます。

 


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さて、この日はTHE PLAYの展示と同時に、「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」と題された、イタリアはアカデミア美術館の作品展も同時に開催されていました。
ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレット、バッサーノなどの重要作家の作品がたくさん並ぶ展覧会。
この展示の目玉はりやはティツィアーノの作品だと思いますが、個人的にはティントレットの作品が見れたのが良かったです。
自分は過去に、ティントレットの作品は大げさなところが面白いと書いたことがありますが、今回の展示でも、「アベルを殺害するカイン」のドラマティックな描写や、「動物の創造」のような大仰に動的な描写が楽しいです。
ご興味のある方はTHE PLAY展のついでにこちらもぜひに。