カツァリス-CD・演奏・思い出など (その3) | れぽれろのブログ

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カツァリスについての思い出・考えなどをまとめてみようシリーズ、第3回です。
(第1回はこちら→
(第2回はこちら→

<前回までのお話>
00年代前半にピアノ音楽、とりわけショパンの音楽に
ハマったきっかけの一つがカツァリスのCD。
その後、2006年に初めてカツァリスの演奏会を鑑賞し、
自分は大変感銘を受けたのでした。


本日のテーマ。
・・・カツァリスとはどういうピアニストなのでしょうか?

自分は、自分が好きなものが歴史的にどのように位置づけられるのか、
といったことに割と興味があります。
例えば、最近出版された「現代のピアニスト30-アリアと変奏」
(講談社現代新書)、という本。
20世紀後半以降の著名なピアニストについてまとめられた本のようですが、
本屋さんでこの本をパラパラとめくってみても、索引にある人名を調べてみても、
カツァリスという名前は登場しません。
この手の本は過去何度も出版されていますが、
カツァが取り上げられることは非常に少ないように思います。
ピアニスト数百人を集めた辞書的な本になってようやくカツァが登場するような、
そんな傾向がみられます。
つまり、カツァは(少なくとも現時点で)一般的な意味での
「歴史的なピアニスト」ではありません。


カツァリスの演奏の特徴とは・・・?
よく言われるのは、「超絶技巧」と「抒情性」ではないでしょうか。
とくに若いころの録音など、指がコロコロと回るということなのか、
ものすごく速いパッセージでも音がつぶれず、1音1音が綺麗に聴こえ、
素人目にもすごいなあと思います。
そしてとくに実演を聴くと、音色の表現の幅が広く、音が綺麗で気持ちいいなと、
感じることが多いです。

もうひとつ有名な特徴として、内声処理があります。
今まで聴こえなかった音、普通に演奏ていたら浮かび上がってこない音を
浮かび上がらせる技術。
違うメロディが聴こえてくることもしばしばです。

さらに、作品に独自解釈を加えることも多いように思います。
独自解釈は多かれ少なかれどのピアニストもやっていることだと思いますが、
カツァの場合はその程度が割と甚だしいというか(笑)、そんな気がします。
しかし決してメチャクチャに弾いているわけではなく、
スコアを大きく逸脱することのない範囲で音を足したりしているレベルですので、
好き勝手に弾いているのとは少し訳が違います。


あと2つ特徴をあげるなら、「編曲」と「発掘」です。

たとえば、2009年の神戸新聞松方ホールでの演奏会のラインナップは
以下のようなものでした。

○前半
・悲しみの響きによるシューベルトへの追悼/ヒュッテンブレンナー
・6つの変奏曲/ヒュッテンブレンナー
・「魔王」のワルツ/ヒュッテンブレンナー
・ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲/シューベルト
・交響曲8番「未完成」/シューベルト (ピアノ編曲)

○後半
・和声によるベートーベンへの追悼/ヒュッテンブレンナー
・交響曲7番より2楽章/ベートーヴェン (ピアノ編曲)
・ピアノソナタ8番「悲愴」/ベートーヴェン


初期ロマン派の特集・・・なのですが、
有名なピアノ独奏曲は最後の悲愴ソナタのみです。

ヒュッテンブレンナーという作曲家の曲が4曲あります。
ヒュッテンブレンナー・・・誰やねん(笑)。
この作曲家、ウィキペディアにも(少なくとも日本語版では)名前は出て来ません。
シューベルトと交友のあった作曲家らしいですが、
どうも歴史に埋もれてしまった作曲家のようです。
カツァのセリフ
「19世紀に書かれた作品のうち、我々はたった2%ほどしか演奏していない。
あまり知られていないレパートリーほど素晴らしい。」
こういった作品を突然「発掘」してくるのもカツァの特徴です。
ショパンやリストでも、カツァは通常はあまり演奏されない楽曲を
取り上げたりすることもありますね。
さらには世界のいろんな国・地域の音楽を取り上げたりもします。

そして編曲が2曲あります。
シューベルトとベートーヴェンの超有名な交響曲のピアノ版。
カツァはこういったオーケストラ曲のピアノへのトランスレーションを
頻繁に取り上げますし、自身でも編曲したりします。
とくにここ数年は、ショパンの協奏曲2番、リストの協奏曲2番、
ベートーヴェンの協奏曲5番「皇帝」など、協奏曲→ピアノ独奏曲への編曲を
頻繁に取り上げています。

19世紀では、こういったオーケストラ曲のピアノへのトランスレーションは
割と頻繁に行われていたようです。
とくにオペラからの編曲が多く、オペラを頻繁に鑑賞する当時の
新興プルジョワジーたちが、舞台以外でもサロンなどででオペラ編曲の
ピアノを楽しむ、といったことがよく行われていたという歴史があります。
リストなど、たくさんの編曲作品を残しています。


自分の持っているカツァのCDから2枚。

・交響曲9番/ベートーヴェン (リスト編曲)

カツァ_ベト9


・交響曲7番/ベートーヴェン (リスト編曲)

カツァ_ベト7


80年代のカツァの有名な録音です。
カツァはリストが「編曲」したベートーヴェンの交響曲を「発掘」し、
全9曲を録音しています。
上記はそのうちの自分が持っている2枚。
自分はベートーヴェンの交響曲では9番、そして7番の2楽章が好きなので、
とりあえずこの2枚を持っています。
(6番も好きなのですが、カツァ版は買わず仕舞いなのですが・・・。)
カツァはリスト編曲のこの交響曲にさらに音を足して演奏しているのだとか。


さて、冒頭の問いに対する答え。
カツァリスとは、19世紀的なヴィルトゥオーソの正統な伝承者である・・・と
位置づけるのが妥当なのではないかと自分は思います。

ごく簡単に音楽・演奏の歴史をまとめてみると・・・。

18世紀の音楽会は、多くは単に貴族たちの社交の場でした。
19世紀になると、貴族の時代からブルジョワジーの時代へと変わります。
富裕層がサロンなどでヴィルトゥオーソに喝采を送る時代です。
この時代、超絶的な技巧を要する音楽がたくさん作曲されます。
ショパンやリストが活躍した時代、彼らは作曲家兼ピアニストです。
そしてピアニストはサロンで即興演奏をしたり、
上に挙げたような人気オペラの編曲物を取り上げたりするようになります。

19世紀終盤から20世紀になると、音楽はより大衆化し、
過去のバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった人たちが神格化され、
人々は現在の音楽家の作品より過去の音楽家の作品を鑑賞するようになります。
音楽は崇高なものだとか、心して聴くものであるとか、
そういう雰囲気が出てきます。
そして、暗い会場で静かに座った聴衆が音を立てずに音楽に耳を傾ける・・・
といった現在の演奏会のスタイルが定着します。
現在まで続く、いわゆる「クラシック音楽」のスタイルが成立した時代。
そして、より広範な大衆は、堅苦しいクラシックではなく、
ジャズやポップスの方に流れていきいます。

20世紀後半になると、高度消費社会の発展・録音技術の発達により、
たくさんのレコード・CDが流通するようになります。
クラシックの愛好家たちは、こぞって名曲・名盤を収集し、
この演奏家のこの録音が最高だとか、そういう議論が愛好家たちの話題になる。
そして、「録音で聴いたピアニストの演奏を、生演奏で追体験する」という
鑑賞スタイルが定着、この傾向が顕在まで続いています。

20世紀の優れた演奏家とは、
過去の偉大な作曲家の「名作」に取り組み、、
作曲家の考えに想いを寄せながら楽譜に忠実に音を再現し、
求道的で常に研鑽に励み、技巧的にも優れ、音響を完璧にコントロールし、
聴衆に深い感動と感銘を与え、すぐれた録音を残し、
さらに人徳・人格が備わっており、社会的にも承認され・・・
大げさに書きすぎかも知れませんが(笑)、
こういった人が「巨匠」と呼ばれる、そんな気します。

楽譜にない音を出したり、改変したり、本来抑制的であるはずの音を強調したり、
「歴史的名曲」に取り組まずに変わったレパートリーを引っ張ってきたり、
ピアノ独奏曲以外の編曲物をやたらと取り上げたり、
即興演奏をしたりと、こういう演奏家(←カツァのことです 笑)は、
20世紀後半からの音楽史的傾向からすると、非常に評価しにくい、
歴史的に位置づけにくいピアニストなのだと思います。

しかし、おそらくですが、このようなことを真剣に行う方がよっぽど難しい。
できる演奏家は、そう簡単には出てこない、そんな気がします。
カツァの取り組みは、20世紀的な堅苦しさから離れ、
おそらく19世紀のフランツ・リストが活躍した時代のような
自由な演奏・選曲のスタイルを、21世紀現在の舞台上に蘇らせる試みである・・・、
というように自分なんかは思うのです。
そのようなカツァの取り組み・佇まいを見て、自分などは演奏会のたびに、
やたらと感銘を受けてしまうのです・・・笑。


続きます。