「空気」の研究/山本七平 | れぽれろのブログ

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ある会話の流れで文春文庫の紙質が悪くなったとの話になり、
また別の会話の流れで、職場の空気支配の非合理さの話になりました。
そこで思い出したのがこの本。
「空気」の研究/山本七平(文春文庫)です。
例によって、積ん読書籍の中の一冊なのですが、
この話の流れの偶然の重なりは、「今こそこの本を読め」との
メッセージと受け取り(笑)、読むことにしました。

著者の山本七平は、山本書店の店主であり、
クリスチャンの家系に生まれ、聖書に関する造詣が深く、
さらに数々の社会批評を残された方とのこと。
戦前は陸軍に入隊し、フィリピンで終戦を迎えたとのことです。
1991年に既に亡くなられています。

この『「空気」の研究』は1977年の本で、文庫化が1983年。
実に30年以上も前の本ですが、日本人の行動パターンの研究として
現在でも有名な分析であるとされている本です。

この本はタイトルのとおり、日本社会を取り巻く「空気」の正体について
分析した本です。
著者はキリスト教などに詳しい方ですので、
宗教的な背景から「空気」を分析されています。
77年の本ですので、挿話や例証の中には「少し古いな」と思うものもありますが、
今読んでもそんなに大きな違和感はなく、現在でも通用する考え方だと思います。


この本の概要。

組織や社会に蔓延する非合理な空気支配が、
往々にして非合理な決定を生みだす。
この本ではいくつもの空気支配による非合理な決定の例が挙げられていますが、
その典型例かつ最悪の例が、日中戦争から太平洋戦争にかけての
非合理な決定による敗戦です。
そして、その「空気」が醸成される原因として、ものに神が宿るとする
アニミズムが挙げられています。
アニミズム的心性の結果対象に強く感情移入し、
対象と一体化することが思考の源泉になる。
髑髏は髑髏(ただの物質)でしかないのですが、
その髑髏の存在に物質以上の何かを見出す。
天皇陛下の御身影に、単なる絵画以上の意味が宿る。
イタイイタイ病の原因とされているカドミウムは単なる一金属にすぎないのですが
イタイイタイ病の発生以降、カドミウムという言葉に一金属以上の意味が宿る。
(このあたり、カドミウムをセシウムと置き換えてみると、
現代的で分かりやすいかも知れません。)
このような、原初的宗教形態であるアニミズム的なメンタリティが、
対象の分析よりも対象への感情移入を促進し、
論理的な議論や熟考の結果よりも、情緒的なキャッチコピーや、
扇情的な写真や映像に心を動かされやすいメンタリティに繋がり、
このことが結果として「空気」醸成に繋がるのだとされます。

一方でこの「空気」は「水を差す」ことにより、否定される構造を持ちます。
しかしこれで社会が変わるわけではなく、水を差されたあとは空気が変わり、
別の空気が醸成される結果となります。
分かりやすいのがやはり敗戦の例です。
一学期に「大和魂」を教えていた教師が、
敗戦を経て二学期には「民主主義」を教える。
「鬼畜米英」が「アメリカさんありがとう」に代わる。
空気の内容は時々によって変わりますが、空気支配の構造は変わりません。
そして、「なぜ天皇陛下万歳だったのか」と問われると、
「あのときはそういう空気だったから・・・」となります。

そして、日本のアニミズム的空気社会と異なる社会として
キリスト教的根本主義(ファンダメンタリズム、現在では原理主義という
言い方のほうが一般的かもしれません)の考え方について述べられています。
キリスト教(及びそれ以前のユダヤ教)は一神教です。
ものに神が偏在するアニミズムではなく、唯一絶対神ヤハウェが存在するのみ。
とくに宗教改革以降の過激なプロテスタンティズムは万人司祭主義をとり、
個々人が直接聖書を通して神と向き合う。
個人-神の直接契約が重視されるため、結果として個人の思想の自由が
何よりも重要視され、国家や組織が人間の内面にまで踏み込んでは
いけないという考え方になる。
この本ではドイツ農民戦争のミュンツァーの例について述べられ、
この根本主義の考え方が、現在でもアメリカに根強く
受け継がれていることについて説明されます。

以上のような議論より、空気支配を否定するためには、
キリスト教から派生した自由な思考を尊重する態度が必要であり、
一神教的伝統ではなくアニミズム的伝統を生きる日本では、
このことが非常に難しい、とされています。

以上がこの本の物凄くおおざっぱな内容です。
難しいこともあれこれと書かれていますが、割とすんなりと理解できる内容です。
この本が出版された1977年時点では画期的な分析だったのかもしれませんが、
現在からみた場合、この『「空気」の研究』的な視点がもはや、
日本を分析する際の当たり前の前提になっているのかもしれません。


感じたこと。

この本は30年以上前の本なのですが、現在では30年前より社会はかなり変化し、
空気に対する考え方も変わっている気がします。

この本が出版された1977年はちょうど一億総中流社会と言われていた時期です。
中間層が分厚く、多くの男性は企業の正社員となり、多くの女性は専業主婦、
郊外に一戸建ての家を持ち、アメリカ的マイホーム生活が多くの人にとっての
目標とされてきた時代。
均質的な社会、高度成長から安定成長に切り替わったといっても、まだ
比較的似たような生き方の目標が多くの人に共有されていた時代だと思います。
こういう時代はまさに空気に従っていれば、
幸福になれた時代であったのかもしれません。

時は流れ、グローバル化を背景に経済体制が完全に変化した現在、
中間層は徐々に解体し、かつての企業も自らの「企業コミュニティ」を
維持することが難しくなりました。
経営難に陥った企業はリストラを断行。
この本が出版された時代よりも若い世代(自分も含まれます)は、
正社員になる人とそうでない人に分かれるようになりました。
郊外に家を買う人は少なくなり、人口は再び都市に流入するようになりました。
均質的な社会が良かれ悪しかれ、多様な社会になりました。

この本をよく読んでみると、「空気を読む」というような言い回しは、
(自分の見落としがなければ)出てきていません。
1977年の比較的均質的な社会では、空気は単にそこにあるもの、
誰もが感じるものであった。
単一の分かりやすい空気が強く支配的であった。
しかし、複雑で多様化した現在の社会、都市に多様な階層の人間が
(一見平等的に)偏在するような社会においては、誰もが同じ空気を共有する
ということが、難しくなったと言って良いかもしれません。
社会を覆う「同じ空気」なるものは薄くなりましたが
それでも立場が異なるもの同士がコミュニケーションをする場合、
何らかの前提が必要です。
文化的に慣れ親しんだ「空気を参照する」という所作は、
世代が変わっても簡単には変わらない。
そこで、複雑で多様な社会である現在でも、コミュニケーションを円滑に
行うために、ますます人工的に空気が醸成されるという結果に
なっているように思います。
そして「空気を読む」という行為が重要となり、
「空気が読めない」人が阻害されるという結果になる・・・。
KYという言葉がう生まれたのが2007年。
複雑で多様な社会であるからこそ、人々は「空気」を求めるのしれません。


もうひとつ。

1977年当時は、一神教的バックボーンがない国で経済的な近代化を遂げたのは、
日本だけでした。
このことが当時は「日本特殊論」などとして論じられていたようですが、
30年以上時を経た現在、近代化はどこの国にも起こりうることが
明確になりました。
日本以外の後発近代化国(中国・イスラム圏以外の東南アジア・インドなどの
非一神教的社会)に「空気」のようなものがあるのか、なんとなく気になります。
こういう分析も読んでみたい気がします。