宮中からみる日本近代史/茶谷誠一 | れぽれろのブログ

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明治憲法体制は権力が分散しています。
中心に君主たる天皇がいますが、基本的には英国風の立憲君主であるため、
政治力の直接行使は行いません。
天皇の下には、議会(立法府)と内閣(行政府)がありますが、
それ以外にも枢密院があったりしますし、統帥権の名のもとに
陸軍参謀本部・海軍軍令部は行政府から独立する形になっています。
これらの分散する権力を、ある時期までは元老と呼ばれる人たちが
直接コントロールしていましたが、西園寺公望を残して元老たちが
いなくなってしまった大正後期以降、分散する権力の一角である軍が
単独で直接行動を起こすようになります。
そんな時代、多元的政治構造を何とかコントロールしようとした組織とは・・・。

茶谷誠一「宮中からみる日本近代史」(ちくま新書)を読みました。
この本は明治から終戦直後までの政治の中で、
宮中(内大臣、侍従長、宮内大臣など)がどのような役割を果たしたかについて
描かれています。
叙述されるのは明治期からですが、この著者のご専門は戦前昭和期のようで、
とくにこの時期に力を入れて書かれています。
明治憲法体制では、そのシステムの都合上、天皇に奏上したり、
(天皇が主権を行使しなくても)天皇のお伺いを立てる必要があります。
この役割を担うのが宮中。
とくに内大臣は天皇を直接輔弼する役職として、
権力を行使することが可能な立場となります。
このことを認識しながら近代史、主に戦前昭和史を振り返るのがこの本。
近代史が好きな方は意外な発見があったりして、きっと面白いと思います。

この本の昭和期の大きな主人公は2人。
牧野伸顕と木戸幸一です。
ともに宮中での内大臣経験者。
元老なき時代に、この2人が権力の調停役として
かなり大きな役割を果たしていることが分かります。
このあたり、あまり知らなかった事実が多く、驚きました。

まずは昭和1ケタ代、政党内閣の時代。
この時代に活躍するのが、牧野伸顕(内大臣)と西園寺公望(最後の元老)。
この2人の思想は対英米協調。
おもに憲政会(民政党)と強調しながら、また、海軍の穏健派:斎藤実、岡田啓介、
鈴木貫太郎(後に宮中にて侍従長になります)らを取り込む形で、
対中強硬論の田中義一内閣や、満州で単独行動を取る陸軍を抑えようとし、
なんとか対英米協調路線を継続していきます。
しかし、2.26事件が発生。
斎藤実は殺され、鈴木貫太郎は重傷を負い、
岡田啓介も牧野伸顕自身も危うく命を落としかけます。
その後、牧野グループは一掃され、対英米協調路線は崩れます。

その後に登場するのが木戸幸一(のち内大臣)と近衛文麿(首相)。
彼らは対英米協調からアジアモンロー主義へと舵を切り、
日中戦争へ突入します。
日中戦争の開始は偶発的ですが、その後の方針として、
陸軍参謀本部・海軍軍令部がむしろ不拡大方針で、
木戸・近衛らがむしろ戦争を推進していく形になります。
この頃になると、元老西園寺公望の首班指名は形式的なものになり、
実質は木戸幸一が首班指名を行うようになります。
そして1940年に西園寺が亡くなり、木戸・近衛は完全に対英米協調を見限り、
日独伊三国軍事同盟を締結します。
重臣会議においても主導権を握る木戸幸一。そして太平洋戦争へ・・・。

その後、1945年。
「もう一度戦果を挙げてから」などという人たちを差し置いて
戦争を終結させようとしたのも、木戸&近衛。
木戸幸一は、2.26事件の生き残りでかつての牧野グループの一人である
鈴木貫太郎を首相に指名します。
鈴木貫太郎の働きかけにより、昭和天皇は最後の最後で立憲君主の枠を超え、
戦争終結の聖断を下します。

そして戦後。
GHQと交渉し新憲法草案の作成に着手したのも、木戸&近衛です。
しかし、彼らは日中戦争と太平洋戦争に大きく関わった人間。
当然戦犯として指名されます。
近衛は自殺します。
木戸はA級戦犯で逮捕され終身刑となります。(後釈放)
ここで再登場するのがかつての牧野グループ。
昭和初期の対英米協調外交時代の外務大臣、幣原喜重郎が
突然首相になったように、同時代に活躍した牧野伸顕や鈴木貫太郎らは
新憲法体制確立のために尽力します。
そして彼らは仕事を終えたあと、鈴木貫太郎は1948年に、牧野伸顕は1949年に、
それぞれ亡くなります。

・・・というように、ざっくりとストーリーを追いかけるだけでも面白いです。
牧野伸顕にせよ木戸幸一にせよ、自分の記憶によると高校日本史の教科書にも
出て来なかったような人物ですが、たいへんに重要な役割を演じていたようで、
面白いですね。

その他感じたこと。
内大臣は天皇を補弼するという権限により権力を行使することができる
役職のように見えますが、必ず何事かを成さなければならない責任は
ないような役職にも見えます。
現に牧野・木戸は権限を利用しましたが、その他の人、例えば湯浅倉平など、
必要以上の権限の行使は行わなかったようです。
一番初めに書いたように、明治憲法体制には権力が分散する性質がありますが、
分散する権力取りまとめの役割に(良きにせよ悪しきにせよ)積極的に
コミットしようとしたのが、牧野・木戸であると言える気がします。
一般に、システムに欠陥があると問題が起きる、システムが重要、などと
思いがちですが、結局はやはり人の問題なんでしょうか・・・?
人とシステム、より重要なのはどっち?
そんなことを考えたりもしました。