大本山永平寺別院 長谷寺(ちょうこくじ)へ行ってみることにしました。

 

 

表参道駅の改札を出て、地上へ出る階段あたりで、強い意識を感じたのです。

 

 

●8/3 大松稲荷神社

(見渡しましたら、階段の上にお稲荷さんがあるのを見つけたのでした。

こんにちは!)

この稲荷に気づいてくれたこと礼を言うぞ。

ここも変わって久しい。

この意識を持つものもいなかろう。

よい。ここで何ものにもできない技を授ける。拝殿へ来い。

(ここで参拝者が来て、拝殿の前に行けない。

しばらく待って、再び手を合わせました)

意識のないものには授けられぬ。いいか?

(はい。

体の中に何かが入ってきた)

光を授けた。その光を使い、これからの世を立て直して行け。

今までの浮き沈むような世ではない、今よりも、確実に意識が通る世にしてゆけ。

(わかりました)

行ってよい。

 

 

 

大本山永平寺別院 長谷寺へ

長谷寺というと、鎌倉の長谷寺の長谷観音を思い浮かべたので、何か関係があるのかと思いましたら、

ウキペディアによると…

起源:現在地は下渋谷村に属して渋谷ヶ原と呼ばれ、奈良の長谷寺と同一の木材で造られたと伝えられる観音像を祀った宇堂があった。

山口重政が天正19年(1591年)徳川家康に招聘され江戸に上った際、渋谷ヶ原に下屋敷を拝領し、慶長3年(1598年)、この渋谷ヶ原観音堂を基に補陀山長谷寺を創建し、菩提寺とした。開山は家康と親交があり、泉岳寺の開山でもある門庵宗関であった。その後、下野国大中寺末寺で天正12年(1584年)より溜池にあった普陀山瀧雲院と合寺し、寺格を高めた。

とありました。この時は、観音堂があることも知らず、行こうとも思わなかったのですが、ウキペディアによれば、奈良の長谷寺と同一木材で作られたという観音像はすでになかったようです。

 

 

長谷寺には、しゅんぽ先生(伊藤博文)のお友達の井上馨氏の墓があるというので、訪れたのでしたが、道に迷ってしまって、遠回りしてしまいました。

 

 

やっとたどり着いて、

 

 

ご本尊にご挨拶をし、

 

 

言葉を降ろそうとしましたが、降りてこず…

お墓の入り口には、井上馨氏のお墓の場所が書いてありません。

 

 

 

どこに目的のお墓があるのかわからず、ここではなかったのかなぁ~と受付へ行けば、

「ここで間違いはありません」。と、教えてもらったのでした。

 

 

お墓の中を案内されながら

「ここは、探されると、多くの有名人たちの墓があるのですよ。坂本九さんとか…。いたずらされると困るので、公表はしていません」

とおっしゃっていました。

 

後程、ウキペディアをみれば、たくさんの有名人のお名前がありました。

 

腕に信号が来て、あ、近い!と思ったとき、

 

 

「井上馨さんのお墓はここです。両隣も見て行ってください」と案内してくださった方はそれで行ってしまわれました。

そこには『従一位大勲位侯爵井上馨墓』と書いてある立派なお墓がありました。

伊藤博文は神式で鳥居が立っていましたが、井上馨氏は普通の仏式のお墓でした。

 

 

●8/3 従一位大勲位侯爵井上馨墓

(こんにちは!ここは聞多先生のお墓ですか?)

よく来てくれた!いつか話したことがあったな。

 

 

何も言わなくてよい。

言葉を聞いてくれ。

 

 

家の奥にある過去帳には伊藤家へ行った息子がいる。

なしのつぶてだが、伊藤の言葉通り、世界は変わる。

言葉を知ることが、どれだけ大事なことか、かつてニッポンに、いさぎよく負けた異国の地のことが、今回の大戦を戒めとして、苦しい世の中にしてしまった。

全世界を相手によく戦った!

何もかもが焼けただれ、骨も身も剥がれ落ち、意識までもを剥奪していった過去の大戦は、今のことのように実話として残っておろう。

しかし、この大戦において、伊藤をはじめとして、我々がニッポンを近代化しなかったら、大挙してやってくる外国船に太刀打ちできるだけの力はなかったであろう。

生きる残るものはみな、大国の奴隷となり、甲斐性もなく働かされ、身を切る思いだ。

…&%$$

(わかりません。泣いているのですか?)

 

 

…書いてくれ。

(はい…)

探しておったのだ。そなたのことを。

子供のころから井上家としての家柄を受け継いだ武士の出だ。

こともあろうに外国と戦うとは思うまい。

生きるか死ぬかの選択を迫られ、生きる道を切り開いた。

大国の文明に学び、それに倣った。

対等な国として認められるまで、そう、時間はかからなかったと思う。

今のことを思えば、そしておいたことが、今の繁栄につながったと思う。

伊藤は何と申していた?

 

 

(しゅんぽ先生はこの先、それぞれの国の利益を考えてゆかなければならないと言っていました。

資本という考え方をせず、各国が利益となるようにと)

なら、井上もそれに同感だ。

さすが、伊藤だけのことはある。

長い間の親友だ。(暗殺され)体はなくなってしまったが、いつも井上の心の内にいた。

かつての大戦のことを井上は知らぬ。だが、それがどのようなことかは知っている。

生きるか死ぬかの選択だった。

今の世がその大戦で負けた日本の思想をもとに立ち直ったことを知っておるか?

過去の苦し大戦で、世界が変わったのだ。

ニッポンは負けたが、井上たち、維新を担ったものの意識はこの世界を作り変えていった。

思想が覆ったのだ。生きるか死ぬかの大戦で多くの犠牲が出たことも知っている。

飲むに飲まれぬ水にあふれ、黒焦げになった人々の無残な思いは、無駄にはならなかったのだ。

(涙が出てくる…)

体は失ってしまったが、意識はこうして残っている。

井上馨としての仕事は尽き果てたが、これからの世を立て直す意地はある。

伊藤の意識も感じて、伊藤とともに力を貸そう!

妻のところへも行ってくれ。

 

 

▽侯爵夫人井上武子之墓

(井上馨氏の右側に武子さんのお墓がありました。

こんには。初めまして…)

武子です。なしのつぶての今の世にこうして、訪ねてくれる人がいてくれて、うれしく思います。

(しゅんぽ先生の奥様、梅子さんのことを話してくださいませんか?)

命知らずと言われた伊藤さんをよく支えておりました。

賢い方で、仲の良かったものどうしで、衣装を作り、宮中の装いを手際よく進めていきました。

子供が女子しかいなく、我が子を養子に送りました。

(実際は、井上馨のお兄さんの子で伊藤博邦という方です)

その時も日本にはおらず、自身は満州にいました。

(実際は満州ではなくて、イギリスに行っていたと記憶します)

留守をよく守っていました。

武子も参加して、よく、物づくりをしました。

殿方は国を動かすのが精いっぱいの時代でしたから…。

梅子さんも自分の子だけでなく、多くの子を育てていました。

……。

(どうかしましたか?)

いえ…。

ただ、思い出だけです。

長い間、忘れていたことでしたから。

今の世の中はどうですか?

(今は、疫病がはやっていて、自粛自粛で、経済は一気に低迷しています。

この先どうなることやら…暗い世の中です。

でも、世界は違う道を歩み始めています。

ホーシーツク、ホーシーツク、ツクツクボウシが鳴いていました)

伊藤さんが働いておいでですか?

いつも忙しくしておいででしたから、自分が死んでいるのも気づかないんじゃないかと主人とはなしていました。

(はい。気が付いていらっしゃらなかったようです)

使いを出してもいつもいらっしゃらなくて、なんども使いを出しました。

世の中が維新一辺倒でしたので。

…千春さんとおっしゃるのかしら?

後ろの方が、そう呼んでいます。

(はい。申し遅れました。千春と申します)

よく、ここへ来てくださいました。

井上もさぞ喜んでいることでしょう。

今の世だから、ここに生きる意味を知ることは大切だと思います。

共存共栄弥栄です。

 

(最後にもう一度、井上馨氏のお墓によって、

聞多先生、有難うございました。これで帰ります)

この井上のことを覚えていてくれよ。

 

 

最後に1985年(昭和60年)8月12日に日本航空123便墜落事故で亡くなった坂本九さんのお墓へ寄ってみました。

 

 

こんにちは!と言ってみましたが、何も答えてくれませんでした。

坂本九さんはここにはいらっしゃらないのかしら?まだ御巣鷹山ですか?

生前は、私たちを楽しませてくださってありがとうございました。

 

おしまい