今回の記事は平易な記述を心掛けたけれど、哲学的な概念の解説なので、やっぱり分かり辛い所があると思う。

だから、めんどくさかったら画像があるところまで飛ばして読んでも良いと思う。


(4巻p.189)

以前、なるたるのサブタイトルを解説した時に、ホモ・デメンスに向けての解説もしていた。

していたのだけれど、ある日友人から、「ホモ・デメンスに向けて」って鶴丸に対してではないのか?と問われた。

で、考え直してみたのだけれど、会話のやり取り的に以前に僕が書いた解説だとよろしくない事を認識した。

よって、改めてホモ・デメンスという概念を調べた直したのだけれど、ネットじゃ一切書いてない。

なので、ホモ・デメンスという概念の初出を探して、『失われた範列』という本にたどりつく。

いろいろ大変だった…。

現状、この本のちょうどホモ・デメンスという概念が出てくる三部の一章まで読んでいる。

本来的に全て読んでから解説などは書くべきなのだけれど、『失われた範列』という本自体がそびえ立つクソなので、そんなの全部読んでからだといつまで経っても解説なんて出来はしない。

よって、現状の理解でホモ・デメンスという概念をまず解説してから、なるたるにおけるホモ・デメンスに向けてと言うサブタイトルの解説をすることにする。

そもそもホモ・デメンスとは何かを説明しなければならない。

要するに一つの人間の定義ですね。

人間をどのように定義すべきかということが時々問題になる。

「ホモ」は人間を表すラテン語で、その次に続く言葉がその人間を定義づける。

ホモ・サピエンスだったら知恵のある人、だっけ?

とにかく、道具を使う人、遊ぶ人、苦悩する人などの定義がある。(ホモ・ファーベル、ホモ・ルーデンス、ホモ・パティエンス)

で、その中で錯乱する人というものがあるらしい。(ホモ・デメンス)

じゃあ、錯乱する人ってなんだよ、って所が問題だと思う。

僕も当然ググったけれど出てこなかった。

もう分かんないから当時の哲学科の学科長に直接聞きに行ったこともあった。

哲学科長は「(ホモ・デメンスとは)あんまり言わないなぁ…」と仰ってた。

要するに哲学科長は知らなかったのであって、その時以来僕は哲学的な概念ではないと思っていた。

けれども、今回の出来事により、ホモ・デメンスという概念はE・モランという哲学者の言葉で、彼の著書『失われた範列』が初出だと分かった。

普通にさぁ、哲学科長が知らなかったのに僕が知ってるわけないじゃん。

哲学科長は東大の院卒なんですよ?

博士持ちですよ?

その人が知らないのにどうして僕が知っている道理があるんですか。(以前の間違っていた自分の記述に対する自己弁護)

まぁ、それはさておいて、これまでちまちまと解説書いてきたのだから、ここも解説しましょうね、ということで大っ嫌いな哲学のおべんきょうをまたすることになった。

哲学何て嫌いなんだよ。

何で僕がこんなクソみたいな本を読まなければならないんですかねぇ…?

じゃあ、ホモ・デメンスという概念を解説をまずしていくことにする。

まず、人間というものは文化を持っている。

文化ってなんだろう。(哲学)

まぁ、ここでは芸術や呪術といったモノですね。

人間より前の類人猿の時点で、そのようなものは存在する。

あるニホンザルが掘ったサツマイモを海水で洗った。

それまでは土は手で払っていたのだけれど、海水で洗えば簡単に土は落ちるし塩味もつく。

その行動は若いサルを中心にその一帯の猿群に伝わって行った。

それからその地域のサルはサツマイモを海水で洗うようになった。

このような文化の走りというものが類人猿の時点で存在する。

ホモ・デメンスの記述が初めて登場する三部の一章では、類人猿から進化していって、ネアンデルタール人にまで至っていて、ネアンデルタール人の文化の話になる。

ネアンデルタール人は埋葬をする。

埋葬をするということは死という概念を認識したということになる。

死という概念は、今ある生を越えた状態なのであって、それを認識するということは想像力を獲得しているという証左になる。

要するに、現実に目の前に起こっている事、獲物が前に居るとか危険が迫っているとか、そういうことだけではなくて、実際に起きていない事を想像することが出来るようになってきてしまった。

つまり、埋葬するということはその死の向こう側に対する一定の理解がなければあり得ない。

死者の魂の安らぎ、もしくはその死者が今生きている人々に悪い及ぼしをすることを防ぎたいと考えない限りにおいて、埋葬と言う行動はあり得ない。

僕の意見じゃない。モランがそう言っている。

まぁ、その時点に於いて想像力が存在していたという話で、つまりその想像力はその後続く現生人類にも存在する。

そして、その死を認識することは、その目の当たりにした死の客観の存在と、反対に死後の自身の永続という非現実的な発想の発端になる。

そしてそれは人間に非理性的なもの、神話的な情緒的なものが侵入したことを意味する。

 「実際、死者の個体が生きている者のそばで生き残るためには、強烈な個性的現存が存在する必要があり、生きていた者たちが死を越えて依然として生きたままでいるためには、強烈な主体相互間の情緒的な繋がりが存在する必要がある。つまり、致命的な割れ目(引用者注:ギャップ)の意識、死の客観的な確認と個体的死欠如性の主観的な確認と合流が存在するために、世界内での自己意識という、この新しい往診が必要なのだ。
 このように、ホモ・サピエンスにおける死の侵入は、真理の幻想の侵入であると同時に、問題の解明と神話の侵入、不安と確信の侵入、客観的認識と新しい主観性の侵入、そしてなかんずく、それらの曖昧なつながり、なのである。これは、個体性の新しい発達であるし、また、人類学的な割れ目の邂逅なのだ。(モランpp.127-128)」

これ読んでわかる?

こんな文章が延々と続いている上に、この引用ははっきり言って平易な記述な方。

後日、続き読んでたらどうやら割れ目ってギャップの翻訳らしい。くたばれ。

こんなものを読む人間の気持ちになってもらいたい。

さて、それに続く現生人類は壁画を残している。

この壁画こそが人類初めの芸術という文化と言える。

人間が認識したものをまた絵によって再現するという営みは、写真のようにはあり得ない。

つまり、見たものを一度脳内で構成し直す必要がある。

その芸術は現実的なものというより、はるかに想像的なものであって、その行動は呪術的な動機によるという。

呪術っていうのは自然を越えた想像力がもたらす。

先の埋葬の事例から既に人間に呪術が存在することはモランによると明らかであって、その上で行われる芸術は呪術的なそれになる。

人間は外的なものを絵画としてまた吐き出す際に、一度自分の中に取り入れている。

そこで取り入れているのは、物体の事実ではなくて精神的なものになる。

要するに写真の様に、というよりは遥かに情緒で、ということなんでしょうね。

何かを見た時に、人間は写真の様に記録することはできないので、自分の中にその写しを取り込む。

そしてその営みの繰り返しにより、そのような想像力に由来する認識が人間にとって当たり前のものになってくる。

ここではあくまで絵画という話であって、人間は動物的に反射で生きているのではなくて、知覚したものを自分の中で一度受け止めてから反応するということだと思う。

けれども、特に絵画などの芸術作品は、想像力の産物に過ぎないのだけれど、一度人間の外に出して現前させてしまったために、それをまた人間が観る事が出来てしまう様になる。

つまり、自分の外に非現実が表れてしまったことにより、その非現実をまた人間は摂取することが可能になった。

その事は何度も何度も繰り返されることにより、人間の想像力の世界の影響が現実の世界により色濃く影響を与えるようになってくる。

神話的な世界というものは、こうして形成される。

要するに、それまでの段階に於いてただの現実しか存在していなかったけれど、人間の想像力が作品として外に出されることにより、自分の想像と外部世界との事実との境界線が曖昧になってくる。

学習経験なんでしょうね。

まぁ、神話というものは想像力と現実とが入り混じった世界なのであって、その入り混じりの発端をモランは芸術作品の創造に求めている。

本来的に自分の中にしかなかった想像力を外部に実物として作り出してしまったために、現実との境界線が失われる。

「 ホモ・サピエンスにおいて突然決定的になったもの、それは、脳と環境との関係の不確実さと曖昧さである。この不確実性は、まず第一に、人間の行動における遺伝子的プログラムの退行、認識および決定の問題を解決するための様々な発見能力、戦略的能力(さまざまな権能)の進歩から由来する。爾来、脳に到達する曖昧な伝言(メッセージ)を解釈しなければならず、経験的―論理的な実行によってその不確実さを減少しなければならなくなる。同一問題についての様々な対立、あるいは同一の目的性の為のさまざまな行動の対立に面と向かわなくてはならない。選び、二者択一し、決定を下さなければならないのだ。この意味では、柔軟さと創意を可能にする働き自身が、誤りを犯す危険性をはらんでいると言える。ホモ・サピエンスは、彼が経験的―論理的に忠実であるとしても、いやむしろそうだからこそ、まさに正確な表現である《試行と錯誤》の方法を余儀なくされるのだ。(モランpp.137-138)」

ではその想像力に現実を犯された人間とはどのような状態だろう。

それは泣き、笑い、怒るような情緒的なそれと言える。

しかも人間に於いて笑いも怒りも、時にひきつけを起こすほどに激しいものであって、笑いながら泣くことすらあり得る。

ホモ・サピエンスは合理的な存在であると考えられているけれど、一方で確実に享楽、陶酔、他方では激怒、憤怒、憎悪といったものを、噴出するような激しい性質のものを持っている。

特に人間におけるオーガズムは他に類を見ないほどに激しい。

とにかく、ホモ・サピエンスと形容されるけれど、それにはそぐわない激しさを持っている。

理性的な人間にも拘らず、呪術的、それも激しい情緒の伴うそれが行われてきた。

「 古代社会においても、歴史社会においても、薬草および/あるいは飲料(リキュール)、舞踏および/あるいは儀式、聖なるもの、および/あるいは俗なるものによって、陶酔、激発、恍惚といった、時として痙攣ないし高徳に起きえる極度の無秩序と、他者、共同体、宇宙との合体の充溢における至高の秩序とを一つに合わせたかに思われるものの探求と期待が観られる。(モランpp.140-141)」

そのようなものはそれまでの人間科学では扱われなかったが、確実に存在する。

そしてそれを惹き起こしているのは何か。

それを過剰性とモランは形容する。

過剰とは何かといえば、猿に対して発達しすぎた脳の容量の事になる。

その過剰によって人間は激しく情緒的で激しくエクスタシーを覚える存在になっている。

この状態において人間は、夢幻状態、エロス、情緒、暴力の氾濫に晒され、霊長類に於いては発情期が限られていて性の分野が性という目的から外れることがないのにも拘らず、人間ではもっとも崇高な知的分野にそれを与えることもある。

霊長類では満ち溢れてこぼれ出る程度のそれであるけれど、人間では噴出的で、不安定で、強烈で、過度な性格を帯びている。

そのような状態にある存在こそが人間であるという発想が、ホモ・デメンスになる。

「この時以来、理性のヒト(サピエンス)という、人の心を安心させる優しい概念に隠された、人間の顔があらわれる。それは、微笑み、笑い、泣く、激しく不安定な情緒を備えた存在であり、想像力的なものに侵された存在であり、死を知りながらそれを信ずることのできない存在であり、神話と呪術を分泌する存在であり、精神と神々に憑かれた存在であり、幻想と空想で身を養う存在であり、客観的世界とのつながりが常に不確かな主観的な存在であり、錯誤と彷徨に繋がれた存在であり、無秩序を生み出す過剰的(ユブリック)存在なのだ。そうして、幻想、過度、不安定、現実的なものと創造的なものとの不確かさ、主観的なものと客観的なものとの混同、錯誤、無秩序、そうした諸々の接合を我々が狂気と名づけるように、われわれはいま、ホモ・サピエンス〔理性のヒト〕を、ホモ・デメンス〔錯乱のヒト〕と見ざるを得ないのである。(モランp.144)」

以上がホモ・デメンスという概念になる。

ふざけんな。

鶴丸の言葉を理解できたのり夫ってやっぱ頭良いんスね…。

これ以上説明をシェイプアップすることは果たして可能なのだろうか…?

正直記述量が多すぎるけれど、理解できる範囲で言葉少なく三部の一章を説明するにはこれだけ必要だった。

まぁ、要するにホモ・デメンスは情緒的で錯乱している状態こそが人間であるという定義だという話です。


さて、なるたるにおける「ホモ・デメンスに向けて」の解説の作業に移る。






(4巻pp.190-198)

鶴丸さんパネッス、人間の屑過ぎてマジリスペクトッス。

この一連のやり取りの後に、ホモ・デメンスという言葉が出てくる。


(4巻p.199)

のり夫に最低だと言われて、鶴丸は「人間の定義の問題だろ ホモ・サピエンスか ホモ・デメンスか」と返す。

確認にはなるけれど、ホモ・サピエンスというのは理性立った人間であるという人間の定義であって、それに対して人間は情緒を持っていて激しく笑い激しく泣き、激しくエクスタシーを覚える存在であるという発想がホモ・デメンス。

つまり、理性的な人間ではそのような事はしてはいけない、したら最低だ、ということなのだけれど、そもそも人間というものが混沌としていて、情緒的で錯乱するような存在だという前提があれば、それが普通なのであって、何も問題がないだろ?と鶴丸は言っている。

それを聞いて、のり夫は「レトリックじゃないか 納得できないよ」と返す。

レトリックという言葉を説明しようとしたけれど、難しすぎるのでしないとして、まぁそういう風に言えるけどそれじゃ納得できないって話。

以上が、会話中に出てくる、ホモ・デメンスという言葉の用法についての解説になる。

問題が、この回のサブタイトル。


(同上)

向けてと言う以上、誰かが何かを働きかけなければならない。

つまりは誰かが情緒的で錯乱している人間に、何かを働きかけているということ。

一つに、もちろん鶴丸の可能性がある。

上の扉絵を見て分かるように、鶴丸に母子手帳を差し出しているのであって、ホモ・デメンスに対して幟田が働きかけているという可能性。

なんだけれど、「向けて」という言葉について考えて、この話が幟田が鶴丸に妊娠の報告をした話として終わるかといえば終わらないわけであって、この話は鶴丸が幟田とシイナに向けて、何かしらの示唆を与えている話になる。

幟田には責任についての示唆を与えているし、シイナには力が欲しいということはどういうことか、力を欲しいならそれは守りたいか作り出したいかしかなく、そのどちらにも人を好きになることは必要なのだから、人を好きになったことはあるかと聞いて、シイナのこれからに示唆を与えている。


(4巻pp.204-205)

つまり、「向けて」の動作の主語は鶴丸である可能性が高い。

その上で、ホモ・デメンスは情緒的で錯乱している人のことを言う。

幟田は上の引用から分かるように、論理的というより遥かに情緒的な話をしていて、それに対して鶴丸は諭すようなことを言っている。

シイナは、感情的に力が欲しいと鶴丸に言う。

(4巻p.203)

以上の事から、「ホモ・デメンスに向けて」は「(鶴丸が)ホモ・デメンス(である幟田とシイナ)に向けて」であるだろうということが一番蓋然性が高い。

どうっスかね?

この記事を書くのは凄く大変だった…

前半作業は殆ど論文を書く時と作業が同じだった。

こんなに苦労しても対価は存在しない。

どうせ労いの言葉もない。

あとそうそう、鬼頭先生はこの本を読んでいる可能性がある。

これはホモ・デメンスに向けての解説だから書かなかったけれど、『失われた範列』の記述内容で、なるたるに直結するかもしれないものが現時点で3か所以上見つかっている。

けれど、どうせ誰も期待してないだろうので、はい。

ということで「ホモ・デメンスに向けて」の解説でした。

疲れたから誤字脱字の修正は明日にしよう。

では。