文春、アッパレ!この出版不況にもかかわらず文春は国内の雑誌発行部数ではトップを快走。「国民的雑誌」はますます存在感を増している。

「週刊文春」は首位(2016年 日本雑誌協会 659,208部)。月刊の「文藝春秋」は5位(同 408,667部)である。
今ドキ「文藝春秋」みたいなA5判400ページを超える分厚い本が平均40万部を超えていることに驚きを禁じ得ない。
 
文藝春秋はあの「父帰る」で有名な作家、菊池寛が大正12年(1923年)自費で始めた同人誌。そのタイトル「文藝春秋」とは意外にも、もともと菊池寛が「新潮」に連載していたコラム名なのであった。
まさか新潮社も身内みたいな作家から後にライバルとなる雑誌が生まれるとは夢にも思わなかったであろう。
 
「文藝」に「春秋」とは何とも格調高い響きだ。春秋とは歴史を意味するが、
日本を代表する芥川賞、直木賞の創設と授与を行っている同社は文字通り日本の文芸の歴史を作ってきたと言える。
 
何せ創刊号からして凄い。
菊池寛
芥川龍之介
今東光
川端康成
横光利一
佐佐木味津三
直木三十二
 
など文学界のレジェンド達が寄稿している。
また「文藝春秋」の代名詞となっている芥川賞。
第1回の受賞者、石川達三、以来、井上靖、五味康佑、松本清張、吉行淳之介、遠藤周作、石原慎太郎、開高健、大江健三郎、田辺聖子、丸谷才一
村上龍など、受賞作は時代を反映する作品であり、後に国民的作家となったお歴々がずらり。
2年前には又吉直樹の「火花」で話題を呼んだ。
 
最近では文春砲などと呼ばれ、政財官学から芸能人まで暴かれる数々のスキャンダルは他のメディアからも常時マークされているが、今に始まったことではない。
過去、「文藝春秋」と弟分「週刊文春」は、現職総理大臣のクビを取り、野球界の超スーパースターを引退させ、完全犯罪を企てたとされながら見過ごされた保険金殺人事件の容疑者を逮捕に追い込んでいる。(その後、無期懲役を経て高裁で無罪との逆転判決が降り、最高裁で確定)
 
圧巻だったのは1993年の細川連立政権樹立であろう。
「文藝春秋」1992年6月号誌上で元熊本県知事・細川護熙が「自由社会連合結党宣言」を発表。
すべてを記憶している訳ではないが、僕は名文だったと思う。

特にラストが
「私はこの論文を発表するにあたり、成功の見通しがあるわけではない。しかし、やがてこの呼びかけに賛同して日本全国から大きなムーブメントが
起こることを確信している」というカッコイイ締めくくり方であった。
バブル経済が破たん。自民党一党独裁政権が
制度疲労を起こしていた折、ドン・キホーテと揶揄されたこの論文が出発点となり、わずか1年後に、
38年続いた自民党から政権を奪うことになるとは誰もが思わなかった。
ところが、、、この論文も細川氏が発売直前、急に気が変わって「やっぱり取りやめにさせて欲しい」と懇願。にもかかわらず文春側はこれを拒否。
最後はやけくそでそのまま全文が掲載されたことが明らかになっている。
 
何となく、その後の細川殿様政権の末路が彷彿とされる。
 
「文春」はよく左派リベラルの代表誌「世界」と対極をなす保守系誌と言われることが多いが、僕、個人的感想としては、自民も共産もなく、従来あまりにも日本のメディア全体が左派系思想に侵されすぎていたことの警鐘を鳴らしていたにすぎず、基本は「悪いものは悪い」「面白いものは面白い」という発想から編集されており、偏向した政治的イデオロギーはないと感じる。
 
さて、10年ほど前のことだ。
僕は仕事で文藝春秋社を訪れ同社女性スタッフと打ち合わせをしていた。
350名の少数精鋭主義で出版界をリードする同社は当然ながら最高レベルの人材が集まり東大卒の社員も多いと聞く。
その女性社員もいかにも聡明でとても論理的な話し方をしていた。
打ち合わせの内容をいちいちメモを取らない。
速記者ごとくすべてメモらないと右から左に内容が抜けていく僕にとっては驚きだった。
 
さすがは文春の社員は違う!
 
打ち合わせが終わった。
僕「では取材日時は●●日の午後2時とうことで」
文春「わかりました。では当日よろしくお願いします」
取材日の数日前、
その女性から電話が掛かってきた。
 
文春「ところで取材時間は何時でしたっけ?すっかり忘れちゃってすみません」
 
僕「!」  コケそうになった。笑
 
そういえば文春もたまには勇み足の記事やお茶目なものもある。
 
こんな人間味のあるところも人気の理由なのかも知れない。