【消えた偉人・物語】吉田松陰
幕末を生きた吉田松陰には兄1人と弟妹5人(1人は早世)がいた。いちばん下が15歳も離れた弟の敏三郎、生まれながらに聴覚障害の身で正確に言葉を話すことがかなわなかった。しかし、敏三郎のことは生涯を通じて常に松陰の念頭にあった。その兄としての横顔を紹介しておきたい。
松陰が初めて他国へ足を踏み入れたのは1850年の平戸遊学。この時、王陽明の伝記を読み、5歳にして突然口を利けるようになった逸話を知る。感動に襲われた松陰はただちに兄を通じて藩当局に遊学日程の変更を願い出る。その理由にいわく、「肥後へ廻り、清正公へ参り、弟敏の為に物言ふ事ども祈り候て帰り候積りに御座候」と。
かくて、霊験あらたかと聞く加藤清正の廟所(びょうしょ)に詣でて、王陽明のごとく敏三郎も物を言うことができますようにと切々と祈願した。
ペリー来航直後の鎌倉からは、こんな手紙を兄に出している。--今こそ海防とともに、それを内に支える民政の基盤も固める時だ。とりわけ、社会の底辺に生きる人々への手厚い施策は優先すべきもの。西洋ではあまたの施設がある由、そうした福祉制度が我が国にないというのは一大欠陥の何物でもない。
安政2年、野山獄中で書いた『獄舎問答』にも「西洋夷さへ貧院、病院、幼院、聾唖(ろうあ)院を設け、匹夫匹婦も其の所を得ざる者なき如くす」と記している。松陰は平戸遊学中に、漢訳文献を通じて欧米における福祉の整備状況をすでに把握していたのである。
下田で試みた海外雄飛の壮図のうちには、弟のような境遇にある同胞を救うべく、福祉施設の導入を図ろうとする密(ひそ)かな意思もあったのではないか、というのが筆者の見解である。
安政6年5月、ついに江戸へ護送となった松陰は、今生の別れに敏三郎の手を握って「万事堪忍が第一」と万感の思いを込めて諭したという。
兄亡き後、両親に孝養を尽くし家庭を支えた敏三郎は、明治9年に享年32で病没。その遺影は兄松陰に生き写しの如く見えてならない。
(中村学園大学教授 占部賢志)