加藤清正と慶長伏見地震。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





【決断の日本史】(76)

1596年閏7月13日

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110607/art11060707450002-n1.htm






太閤を助け「謹慎」解かれる


 


 地震が、ある人物のその後の生涯を変えた話をもうひとつ。歌舞伎「地震加藤」のエピソードである。

 

 加藤清正(1562~1611年)は豊臣秀吉に仕え、肥後(熊本県)の大名にのぼりつめた。しかし「文禄・慶長の役」で朝鮮に出兵したおり、石田三成と諍(いさか)いを起こし、太閤の怒りを買って謹慎を命じられた。

 

 清正は秀吉と同じ尾張の出身で、母親同士が縁続きだったといわれる。実子がなかった北政所(おね)は彼の名前の虎之助から「お虎、お虎」と呼んでかわいがった。そして清正も秀吉夫妻の恩を終生、忘れなかった。

 

 三成と清正の不和は、秀吉子飼いの武将中の「文治派」と「武断派」の対立である。優秀なリーダーの下には多くの人材が集まるが、彼ら同士の間で派閥が生じて険悪な関係になるのはよくあることである。

 

 清正が伏見城下で謹慎していた慶長元(1596)年閏(うるう)7月13日、京を大地震(慶長伏見地震)が襲った。マグニチュード(M)は7.5で、完成したばかりの伏見城は倒壊した。

 

 清正は他のだれよりも早くかけつけ、秀吉を救い出した。秀吉はこの働きを賞し、清正への勘気を解いたという。明治6年、河竹黙阿弥はこれをもとに歌舞伎の脚本(「増補桃山譚(ものがたり)」)を書き、評判となった。

この話が史実かどうかは、はっきりしない。清正の復権には、三成と対立する徳川家康らの口添えが大きかったともいわれる。とはいえ、清正なら何をおいても駆けつける、という人物評があったことだけは間違いない。

 

 清正は秀吉亡き後、嫡男・秀頼の後見をもって任じた。秀頼が徳川家康と会見したとき、清正は懐に短剣をしのばせて見守った。その直後、急死したときには家康による「暗殺説」もささやかれたほどである。(渡部裕明)