ボランティアの理由。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【話の肖像画】(上)俳優・杉良太郎




■福祉は心がなければ…

 俳優の杉良太郎さんの社会奉仕歴は、今年で52年目になる。15歳での刑務所慰問に始まり、最近の東日本大震災の被災地での炊き出しまで、息が長い。今では「福祉の杉」と呼ばれるが、半世紀の間には芸能人ゆえの毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまとったという。(文 飯塚友子)

 --東日本大震災後、早々に現地入りし、カレーなどの炊き出しをしました

 杉 4月1日から車15台で宮城入りし、2泊3日でカレー計5700食を15カ所で炊き出しました。19日には福島でラーメン計5千食を配りました。阪神大震災や新潟中越地震でも現地で支援をしましたが、今回は被害の範囲が桁違いに広い。よく考えて現地入りしようと思ったんです。

 --宮城には医薬品や水、灯油も持っていった

 杉 でも持っていきたい物が一番買い占めにあっている時期でした。困ったのは下着。都内7~8軒に連絡して男女計4040人分をかき集めた。ストーブは北陸の知人に連絡し、32台がやっとでした。

 --カレーも全部、東京で調理して運んだとか

 杉 200人分入るカレー鍋を上げ下げして、ルーを回し続けたら、脊髄の炎症が起きて首が回らなくなっちゃった。ニンニク80キロむいたら、やけどするってことも今回、初めて知りました。カレーは冷凍して持っていきました。

 --現地に負担をかけない配慮ですね

 杉 当初、被災地は電気も水もなかった。だから水も、コンロも、LPガスも持っていきました。

 --当初、避難所によっては配給が1日おにぎり1個というつらい状況が伝えられました

 杉 僕らが行ったのはちょうどその時期です。最初に行ったのは、宮城県石巻市の旧水浜保育所でした。着いた夜、ここを拠点に炊き出しをして、さらに車を出して山の上の公園や、斎場に避難している人に食事を運んだんです。

 --それは現地で見つけた避難者ですか

 杉 現地です。支援の手が届いていない、規模の小さな避難所を見つけたかった。零下2度の中、35人ほどが薄いテントに避難されていました。

 --温かい食べ物は喜ばれたでしょう

 杉 午後5時半になると現地は真っ暗だったんですが、暗い中での食事は味気ないだろうと、発電機を持っていきました。みなさん、7時を過ぎてもゆうゆうと食事ができた。援助の仕方はいろいろあるけれども、振り込むのは一番楽。寄付する心は尊いけれども、僕は自分が作ったカレーを、一人一人に手渡したかった。日本のODA(政府開発援助)も、愛情を乗せて顔が見える支援をすればいい。でも心を乗せるのは、すごく大変です。

 --それは福祉を続ける理由に繋(つな)がるのでしょうか

 杉 友達にごちそうするにしても、出前を取るのと、前日から相手の好物を考えて料理して出すのでは意味が違う。福祉は心がなければいけないと思う。

 --顔が見える支援

 杉 顔が見えないと「あの人に励まされた」という心が伝わらない。今回、あらゆる人が現地入りし、被災者に物資を手渡していました。ボランティアも成長したと思います。

 --被災地での反応は

 杉 それを感じる暇は実はなかった。カレーを配り終わってから「みなさん、頑張らないでください。頑張るのは被災しなかった私たち。みなさんの仕事は健康を保つこと」って挨拶したの。石巻の漁業協同組合長さんがその後、「杉さんは最後まで自分で全員にカレーをついだ。感動した」って言いに来てくれました。

 --沿岸部では、被害を実感されたでしょう

 杉 大木に車が何台も引っかかり、1万トン級の船が民家の前まで来ていました。見たことのない光景でした。

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【プロフィル】杉良太郎

 すぎ・りょうたろう 昭和19(1944)年、神戸市生まれ。66歳。40年、コロムビア専属歌手としてデビュー。「文五捕物絵図」「遠山の金さん」など数々の時代劇に主演し、舞台でも活躍。福祉活動は52年目に入り、現在も日本ベトナム特別大使、法務省特別矯正監などを兼ねる。