【祈り 両陛下と東日本大震災】(上)
お見舞い「1人でも多く」
3月11日午後2時46分。皇居がある東京都千代田区は震度5強を観測した。天皇、皇后両陛下は、宮殿にいらっしゃった。
陛下は揺れに驚きながらもすぐテレビをつけ、状況を確認しながら国民を心配された。被害が明らかになるにつれ、短時間業務を離れても支障がない災害の専門家らを人選し、皇居に呼んで話を聞かれてきた。
宮内庁によると、両陛下は当初から「一日も早く東北地方に入りたい」という意向を持たれていた。被災地に負担にならない時期を考えながら、3月30日に東京都内、今月8日に埼玉県加須市の避難所を訪問された。震災1カ月の節目が過ぎた14日には、被災地では初めてとなる千葉県旭市へ。22日も茨城県北茨城市を見舞っており、27日の宮城県訪問で、5週連続で避難所や被災地に足を運ばれたことになる。
「震災、津波に遭った人たち、原発におびえる人たちを思いやり、頭がいっぱいになって、たいへん気が張っていらっしゃる。この国の人たちの幸せも不幸もわがこととして受け止めて、実践していかれる姿が現れていると思います」
宮内庁の羽毛田信吾長官は、ハイペースで被災地訪問を続けられている陛下の様子をこう説明している。
27日に両陛下が訪問された、宮城県南三陸町の歌津中学校体育館。いつものように両ひざを床につけ、一人一人に言葉をかけた両陛下が立ち去られる際、手を振る両陛下に「ありがとうございました」とあちこちから自然に声が上がった。声は広がり、最後は大きな拍手となって両陛下を送った。
佐藤仁町長は「感激ですね。一人一人に声をかけることはなかなかできない。前に進まなければいけないと、自分も改めて感じた」とし、こう付け加えた。
「被災者のああいう笑顔を見られたのは初めてです」
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皇居では東日本大震災によって、祭祀を司る宮中三殿でも、耐震補強していない場所で一部、柱がずれるなどの被害が出た。
震災発生から10日後、3月21日の春分の日に行われた祭祀(さいし)「春季皇霊祭・春季神殿祭の儀」。余震が続いていたことから、宮内庁内では「今回は天皇陛下ではなく、儀式を司る掌典の代拝にすべきではないか」という声が出た。
だが、両陛下の希望があり、結局陛下はモーニング、皇后さまは洋装で祭祀に臨まれた。通常は着物で臨むが、万一緊急に避難する必要性が出た場合のことを考え、殿上には昇らずに拝礼される「異例の措置」(宮内庁)が取られた。「普段から祭祀にはご熱心だが、震災のこともあるので、ご自身で拝礼されたい思いが特に強かったのではないか」と祭祀関係者は語る。
宮中祭祀は主なものだけで年間20回余り。通常、祭祀の関係者以外はその場におらず、撮影された写真や映像が国民の目に触れることはない。両陛下は皇居の森の中で、ただ静かに祈られている。
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平成3年7月10日。両陛下は雲仙・普賢岳噴火の被災地見舞いに、長崎・島原を訪問された。両陛下にとり即位後、初めてとなる災害被災地への訪問だった。
島原の最高気温は33・2度。過去の被災地訪問で両陛下に同行した宮内庁関係者は、厳しい条件の中で行われた、両陛下の被災地訪問の「原点」を語る。
通常、両陛下が地方を視察される前には、宮内庁職員が綿密な下見や打ち合わせを行うが、この時は被災地の負担を増やすことを懸念した両陛下のご意向を受け、「特別な対応はしないで、そのままにしてほしい」と県に伝えていた。避難所での予定は「ここから入り、ここから出る」程度のぶっつけ本番。「入り口に入り乱れて置かれた靴の中から、陛下の靴を探して出口に持っていくのも苦労した」という。
「平成の天皇陛下を象徴するスタイル」といわれる、ひざをついて被災者と懇談される姿は、このとき初めてみられた。この元側近は「びっくりした。立って、座っての繰り返しは、お体にこたえるはず」。
長崎空港では、飛び乗るように帰りの民間機へ。元側近は「乗り込む際、皇后さまの首筋は日に焼け、真っ赤に腫れていらした。女官長が、冷たいタオルを首に巻いていた」と振り返る。そして、今回もすべて日帰り訪問を続けられている陛下と皇后さまをこう案じた。
「雲仙を見舞われた当時でさえ、お疲れになったのではないかと心配した。両陛下は『一人でも多くの人に』という思いでお見舞いされる。無理をなさらないように。本当に心配しています」。雲仙への見舞いから20年。陛下は77歳、皇后さまは76歳になられている。
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各地の避難所、被災地への「祈りの旅」を続けられている両陛下。災害のたびに国民の精神的支柱となってきた皇室の歴史や、側近らのエピソードを交え、そのお姿を伝えたい。