【from Editor】3.11大地震
3月11日は忘れられない日となった。仙台市中心部の総局から車で20分も行けば、200人以上が犠牲となった場所がある。すぐそこに過酷すぎる現場がある限り、不便はあっても、五体満足の自分が「私も被災者」とはとても言えない心境だが、生かされたことには感謝したい。私事だが、あの日は誕生日。何かの縁(えにし)も感じた。
あのとき、総局に4人いた。非常灯だけの薄暗い部屋でかすかに通じる電話に飛びついた。総局員全員の無事を確認したのは15分後だった。その後、停電でビルは閉鎖され、徒歩10分の県庁記者クラブに避難した(2日後に復帰)。
問題は通信事情。頼みの綱は携帯電話でのショートメール。本社、総支局からの応援態勢の調整、記者の配置、紙面の検討、宿の確保、食料の調達、販売・製作関係者との調整、県庁、県警本部、市役所などとのさまざまな交渉…。業務は膨れ上がった。
取材も困難を極めた。太平洋側への道路は各地で寸断され、現場にはなかなか近づけない。大雪で車は思うように進まない。津波の恐怖との戦いもあった。余震の度に記者に情報を伝えることも「前線基地」の役目となった。
取材陣は早朝から夜遅くまで現場を歩き、被災地の「今」を伝えている。家族の絆の強さ、避難所での助け合う気持ち、前を向こうとする懸命な姿、何も手につかず、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす人…。さまざまな場面を紹介した。80歳の祖母と16歳の孫の「奇跡の救出劇」はすさんだ心を明るくさせた。
だが、肉親を亡くし、家を失い、期限がない避難所生活を強いられている事実はあまりにも重い。応援組には経験の浅い若手記者が多い。被災者からの思いを受け止めながら、「生と死」、もっと言えば人間の根幹をも感じる取材となっている。
東北の持ち味まで失われかねない。日本を支えてきた漁業やあふれる自然。松島や三陸が誇る美しいリアス式海岸は大きなダメージを受けた。東北に対するイメージダウン、それがとてつもないものになってはならないと思う。
今年、東北はがんばる年になるはずだった。東北新幹線の全線開業で6県の県庁所在地が新幹線で一つにつながった。観光面での発展をめざして連携した「オール東北」態勢を築く矢先だった。
「がんばろう、東北!」。そんな言葉が聞かれる。ならば今、まずは東北こそが一つになる時。それもまたしっかりと伝えたい。(東北総局長 工藤均)