黄土の巨人 | ~ Literacy Bar ~

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ここはイマイチ社会性のない自称・のんぽりマスターの管理人が、
時事、徒然、歴史、ドラマ、アニメ、映画、小説、漫画の感想などをスナック感覚の気軽さで書き綴るブログです。
※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。

先月の日記で高仙芝 に触れましたが、彼の功績を見て判るように、歴代の中華帝国の地続きの地域に対する領土欲は貪婪という言葉では表現し尽くせないものがあります。漢の武帝、唐の太宗、明の永楽帝、清の乾隆帝といった皇帝たちは地の果てまでも兵を遣わして、帝国の領土の拡大と周辺国の服属を欲しました。国内には文治主義を掲げていても、外征においては覇権主義であったことに疑いの余地はありません。

しかし、一方で海を隔てた領域への進出には意外に不熱心、というよりは明らかに無関心でした。例えば三国時代、自国の人口不足に苦慮した孫呉の孫権は夷州・亶州(台湾~琉球)へのマンハントを企図しましたが、重臣の張昭に『そんな無益なマネはおよしなさい』と諌止されています。孫権は制止を無視して夷州・亶州に手を伸ばしましたが、結局は失敗しました。自らの威信に傷がつくのを恐れた孫権は現場責任者の首級を刎ねて、一切を有耶無耶にしてしまいます。まさにDQN。それは兎も角、以前、歴史記事で記したように南方異民族に対するマンハントは孫呉の日常茶飯事でした から、張昭の苦言は人道主義から発したものでないのは明らかですね。海を越えることに対する禁忌に近い感覚が、当時の人々にはあったのかも知れません。

明の洪武十年(一三七七年)、明帝国がスマトラに向けて送った使者を、スマトラと敵対していたジャワが捕えてぶった斬ったことがありました。時の皇帝は中国史上最大のラスボスとして名高い太祖洪武帝・朱元璋です。


朱元璋「ジャワの奴ら、人間じゃねぇ! 思い知らせてやる!」

家臣「……そ、それで如何ような処分を?」gkbl

朱元璋「在明ジャワ大使を追放する」キリッ

家臣「えっ?」

ジャワ「えっ?」

朱元璋「えっ?」


明帝国はジャワ大使の国外追放と国交断絶を申し渡しただけでした。有名な胡惟庸の獄の前後で外国の問題に関わっている暇がなかったといえばそれまでですが、あの朱元璋とは思えない温い対応と評さざるを得ません。尚、この三十年後に明が安南(ヴェトナム)の権力闘争に介入した際、安南の一部勢力が駐屯中の明兵を皆殺しにする事件が起きました。ジャワへの処置を鑑みた安南が事態を楽観視していたのかも知れません。しかし、時の皇帝である成祖永楽帝・朱棣が下した結論は、


朱棣「八十万の軍勢で安南を攻め滅ぼす」キリッ

安南「えっ?」

朱棣「攻め滅ぼす」キリッ

安南「エエエエエー(;゚Д゚)?」


でした。結果、安南は明帝国に完全併呑されてしまいます。安南にしてみれば、ジャワとの対応の違いに唖然としたのではないでしょうか。海を隔てた相手と地続きの相手では、中華帝国の対応は各も異なるものでした。

同様のことは日本にもいえるでしょう。歴史上の日中の国交問題で最も有名なのは聖徳太子と隋の煬帝のアレですが、あのような決然(或いは傲然)とした文言を他の国が用いたとしたら、確実に滅亡の憂き目に遭ったに違いありません。勿論、二度の元寇という事実を忘れるわけにはいきませんが、元王朝は中華帝国というよりも世界帝国を夢見たモンゴル帝国の色彩が濃厚で、どうにも歴代の王朝と並べるのはフェアではないと思います。実際、中華帝国の正規兵が海を越えて日本に攻め込んだ事例は元寇の二回だけですしね。捕縛された捕虜のうち、元に編入された亡宋の軍兵は日本で優遇されていますので、当時の鎌倉幕府も元と中国は別物と考えていたフシがあります。まぁ、単純な分断処理で元軍に内紛の火種を紛れ込ませようとしたのかも知れませんがね。


このように歴代の中華帝国は海を隔てた領土には殆ど無関心でした。少なくとも、地続きの領域に対するそれとは比べものにならないほどに希薄であったと評してよいでしょう。漢の黄土で塑像された中華帝国という巨人が、波に洗われた足元が溶け崩れるのを恐れて海に近づけずにいる。そんな光景を思い浮かべると何処か微笑ましい気分になりますが、しかし、この巨人は決してカナヅチではありませんでした。隋の煬帝による高句麗遠征には三百艘もの軍船が動員されていますし、宋代には欧州に先駆けて『密水構造』の船体を完成させています。有名な話としては明の鄭和の大艦隊がありますね。彼の率いた艦隊は大航海時代に喜望峰を回って『こちら側』に到達した欧州の如何なる艦船よりも巨大でした。これらの事例を鑑みるに、中華帝国は意思さえあれば、万里の波濤を越えた島国に自らの旗をたてることなど造作もなかったといえます。でも、それをやらなかった。


理由は幾つか考えられます。

最も大きな事情は儒教的概念ですが、これは触れると恐ろしく長くなるので敢えて割愛しましょう。簡単にいえば海上交通は陸路よりも交易の要素が濃くなる必然がありますが、儒教の教えでは、そうした投機的思考は尊ばれません。投機で儲けるよりも、自らの身辺を整理して出費を抑える。これが儒教的な財政概念です。まぁ、こうした概念が生まれたのも、中国大陸という土地が恐ろしく肥えており、他国と貿易をしなくても必要な物資を自足できたからでしょうね。

さて、イデオロギーを廃した視点で鑑みると、まずは中華帝国にとって、東に浮かぶ島々を征服するメリットが見当たらなかったことでしょう。勿論、日本や琉球、台湾独自の特産物は多数存在しますが、軍兵を駐屯させるてもペイするかといえば答えは否でした。日本との交易がペイする可能性が出てきたのは奥州で金が産出されてからでしょうね。古来、中国では銀が貨幣として重用されましたが、オリエント諸国以西では金が基軸通貨です。交易に金は必要不可欠でしたが、あいにく、中国は国土の割に金の産出量が多くない。それゆえ、日本から産出された金は中国で珍重されました。平清盛の日宋貿易、奥州藤原氏の繁栄はこうした事情に基きます。じゃあ、何故、宋は日本を直接支配下に置こうとしなかったかといえば、上記の儒教的概念に加えて、遼や金や元に北方の領土を奪われて、遠方の島国に外征している余裕がなかったからでしょう。

次に考えられるのは海外の国々が軍事上の驚異になり得なかった点ですね。軍事とは時に守るために攻めることがあります。漢の武帝の西域進出も明の永楽帝の北伐も、共に強大な異民族から国土を守る側面がありました。武帝は初代皇帝の劉邦が生兵法の挙句に匈奴の虜になりかけた雪辱を濯ぐ目途が、永楽帝は漠北に逃れた元の残党を狩り尽くす必要があったのです。勿論、交易路の確保という経済上の欲求も同程度に存在しましたが、しかし、単に儲かるという口実では無名の帥になりかねませんし、大義名分を気に病む儒家の反発も必至です。


「向こうが先に手を出してきたから応戦する」

「辺境の情勢が不安定だ」

「危険の芽は早く摘まなくてはならない」


こうした名分があってこそ、内外の不満の口を噤ませることができるし、兵の士気も高めることができる。先述の孫権の一件は、この名分が判然としなかったことも重臣の反発を招いた&失敗した理由といえるでしょう。しかし、中世期における日本と中華帝国の国力差は比較にならないものがありました。向こうが手を出してこないうちは海を越えて刺激する必要もあるまい。そういう認識が歴代の王朝に共通していたものと思われます。唐入りのように日本側から手を出した際には大軍を擁して、これに当たっていますが、海を越えて追撃してくることはありませんでした(当時、斜陽期の明帝国に余力がなかったのも事実ですが)

更に細かい点に触れると外征は国内統一の際に生じた余剰兵員に仕事を与えるためでもあるんですね。天下が治まれば軍人の仕事は激減しますが、仕事がなくなったからといって、安易に余剰兵員をクビにしては就労問題や反乱の火種になりかねません。この辺は帝政ローマの植民、豊臣秀吉の唐入りにも同様の事情が働いています。そして、これが肝心なのですが中国統一に必要な兵科の多くは陸上戦力ということです。特に政治の中枢部にあたる中原を制するのに最も適しているのは騎兵ですね。経済の中枢部にあたる江南を攻める際には大規模な水軍が必要になりますが、全体の割合としては騎兵や歩兵に劣る。ついでにいえば、長江を渡るのに必要なのは水軍であって海軍じゃない。必然、余剰戦力を活用しようと思えば、万里波濤の彼方ではなく、大陸の果てに目が向くことになります。細かい点といいましたが、これが一番大きな理由じゃないかと私は考えています。


これら上記の事情と比較してみると、近年の日中のイザコザは、どうにも歴代の中華帝国の対応と様相を異にしていますね。中国の軍隊が海を越えて他国の領域を脅かすなど、今までの歴史では殆ど有り得ない事態です。中国は変わり、それを取り巻く環境も変わったということでしょうか。今回の記事も数年前のもの と同じく、徒然に思いを馳せた結果を書き綴ったものです。別段、結論らしいものもありません。ただし、私個人の感想を述べさせて頂けれると、


似あわないないことをしているなぁ


と思っています。黄土の巨人は波うち際で危険な水遊びをするよりも、大陸の中央に巍然と屹立する姿のほうが似つかわしい。そんな願望とも憧憬とも判らない思いを抱いています。