『へうげもの』第26話『呪われし夜』感想(ネタバレ有) | ~ Literacy Bar ~

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ノ貫「人の欲の達成にはかぎりがあるのじゃ」

千利休「私では皆に『侘び』を伝えられぬと申されますか」

ノ貫「かぎりを知らずば災いを招きかねん。おまえさんは己が業を御しているつもりなのじゃろうが、しかしな、今の田中与四郎……いや、利休居士は……業火に呑まれとるよ」


先回は織部の蹉跌が描かれましたが、今回は宗匠の落胆がメインのお話。

己の奉ずる侘び数寄の思想が広まれば天下は治まると考える宗匠に対して、全ての事象が遷ろう現世に不変の思想を築くことはムリだし、そのために政に関わった宗匠には、何らかの竹箆返しがくると諭すノ貫。このあたり……というか、今回は全般を通して影の多い画が目につきました。半分は宗匠、秀吉、秀長の業を表しているのでしょうが、もう半分は製作の現場がピンチなのかなとも思ったり。

実際、このあとで宗匠が『演出されたもてなし』に落胆する場面がありましたが、どうも、やっつけ感が鼻につきました。ここは宗匠がノ貫のいう『業』に呑まれてまでなしてきたことが、世間には形骸しか伝わっていなかったとして、己の人生は何であったのかと自らを省みる重要な場面なのですが、尺は短いし、カット割りも微妙だし、喜びの頂点から失望の奈落に突き落とされた宗匠の感情がぬぺぇっとしか伝わってこなかった。ここ数回、調子のいい話が続きましたので、このへんで一休みなのかも知れませんが、休む場所を間違えています。ここはもう一踏ん張りして欲しかった。そうすれば、


千利休「私の為してきたことは似非侘び茶人を生んだのみ、なのか……寒い……」


この台詞が孕む失望感、心の寒さが伝わってきた筈です。ちなみに、このカマボコの一件も宗匠にまつわる有名な逸話の一つですが、それを宗匠が己が行いを省みる契機にした原作者の才幹は素晴らしいです。


さて、師匠が落胆の最中にある一方、弟子は再起に向けて動き出していました。

上田佐太郎を連れて『おもろいもの巡り』を敢行する織部。創作活動で煮詰まった時は、自分が何をやりたかったのか、何を面白いと感じていたのかを振り返るのが一番です。その意味で今回の織部の行動は完全に正しいです……が、高山寺の『鳥獣戯画』を見て、


古田織部「この鳥獣の『鳥滸絵』。思うたよりつまらん。このいでたちからして、当時の世への風刺を含んでおるらしい。筆も達者で描き手の賢さが滲み出ておる……が、それが鼻について、それがしの如き阿房の丹田には緩みは生じぬ」


とケチをつける一方、興福寺の金剛力士像を見て、


古田織部「ボヒヒヒ、丹田が~~~(笑)! 人の身体は斯様ななりにはなり得ぬ。それを心得てはいても、仏師は凄まじさを求むるあまり、写実に加え、これでもかと曲げたり捻ったりしておるのよ。像も必死なれば仏師も必死」


と大爆笑。


おまえら、表出ろ。


それ、二つとも現代では国宝ですから。だいたい、


「人の身体は斯様ななりにはなり得ぬ。それを心得てはいても、凄まじさを求むるあまり、写実に加え、これでもかと曲げたり捻ったりしておる」


って、それは原作者の山田芳裕の画のことじゃん。『デカスロン』とか、まさにそれじゃん。まぁ、このあたりは山田先生も自覚して描いていると思います。もの凄いメタな発言。それと同時に山田先生が古田織部を主人公にした物語を描こうとした動機も判ります。ハッキリいって、この二人は似た者同士です。歪みや力みや緩みを基調とした器を尊び、日本版バロック芸術の開祖となった古田織部と、純粋な画力ではなく、ありえないパースから滲み出る勢いを利用して、作者の意図を読者に伝えようとする山田芳裕氏。もともと、山田先生は宗匠を主人公に据えた話を描くつもりだったらしいですが、その過程で織部の存在を知り、そちらにシフトチェンジしたとか。類は友を呼ぶのです。純粋に物語としては、鳥獣戯画や宗匠の趣味のように高尚なる知性を感じさせるものよりも、力みや緩みに歪んだ存在こそが織部の求める美であることが明確に描かれた場面でした。ここもかなり重要です。


豊臣秀吉「利休! 助けろ、利休! 利休! 利休!」


千利休「この先、私は誰と語らえばよいのですか」


今回のラスト。

信長の亡霊に魘される秀吉。ノ貫の死を契機に己の来し方行く末に思いを巡らす宗匠。ここは関係ないようでいて、かなり、密接にリンクする場面です。秀吉としては煙たい存在ながらも、嘗ては(或いは今も)父と慕った宗匠の精神面での支えを必要としている。しかし、宗匠はノ貫の警告じみた遺言の影響で秀吉から距離をおこうとするようになります。嗚呼、すれ違い。このすれ違いがのちのちの宗匠の悲劇に繋がってゆくのですが、それは物語の推移に任せます。

なお、今回、石田三成が『小田原からの荷駄は全て検品する』と家康と北条氏の関係に釘を刺す場面がありましたが、この台詞が山上宗二の命運を左右する伏線になります。これ、原作を読んでいた時には、よくもまぁ、こんな細かい布石をうつものだと感心しましたよ。


ところで、劇中では『常日頃から心構えがあれば、突然の客にも慌てることなくおもてなしができる』と説いた宗匠ですが、実際には結構、穴があったようでして……ある冬の日の朝、宗匠は高弟の細川ヤンデレ忠興を茶会に招いたのですが、この日にかぎって、宗匠はなかなかヤンデレを屋内に招き入れようとしませんでした。もともと、血の気の多いヤンデレですから、相手が宗匠でも容赦しません。茶会が終わったあとで、


ヤンデレ「いやー、今朝は寒かったっすわー。こんな寒い朝に屋外に客を待たせるのには、宗匠なりのもてなしの一環なんですよねー? 是非、ご教授頂きたいっすわー」


とやってしまいます。宗匠が仰ることには『庭の手水鉢の手前の捨石の配置が気に入らなかったので、それを直していた』とのこと。これにキレたヤンデレは、


ヤンデレ「宗匠は普段から客をもてなす心構えが必要と説いていたじゃないっスかー。捨石なんて前の日にチェックしておけばいいものを、そんなんで客を待たせるなんて、それでも御茶道さまっスかー?」


珍しく正論を主張。しかし、宗匠も負けてはいません、


千利休「いいえ、例え、前の日のチェックではOKでも、当日の天候や空気で景が悪しきふうに変わることがあります。そんな状態でお客さまを招くことこそ、もてなしの道に反します。例え、お客さまを待たせてでも、己の納得のゆくものを用意することが茶道なのです」


私のような俗物には本末転倒の言い訳にしか聞こえないのですが、宗匠としては多少の礼儀よりも心を尽くしたもてなしのほうが大事ということなのでしょうか。ちなみに宗匠の茶道の本には『手水鉢の手前の捨石は周りに転がり出たものを片付けるだけでいい。たいして気にすることはない』と書いてあったりします。


どっちだっ!?


今回のタイトルの元ネタはこちら。♯12『呪われた夜』です。このアルバムは大学時代の友人から紹介され、私がイーグルスファンになった契機の一枚ですので、強くお勧めします。

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