ハッキリいって、今年の大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』の出来は極めて悪い。
去年も同じことを書いたかも知れないが、多分、気のせいだ。何処が如何、悪いのかといわれれば、それはもう、毎週の感想を読んで頂くしかないが、敢えてあげるとすると、
「歴史上の人物を現代の価値観に当てはめるのはやめて欲しい」
「江をムリヤリに御転婆万能ヒロインにするのはやめて欲しい」
といったところであろうか。
現代の価値観を云々したいのであれば、現代ものの脚本を描けばいい。
御転婆ヒロインを描きたいのであれば、そういう人物を取りあげればいい。
それなのに、今作では『平和』『家族』『愛』といった、戦国には馴染まない価値観で全ての事象を図り、あまつさえ、主人公の江を脚本家の都合でムリヤリに御転婆姫に仕立てあげている。いい加減、ブチギレそうになっているが、文句ばかりで具体性のある提案を出さないといわれるのも癪な話だ。そこで、今回は『歴史』カテゴリと『大河ドラマ』カテゴリのコラボレーション企画として、
『轟~たぶちんの知らない姫たちの戦国~』
という題材に挑んでみたい。
取りあげる女性は三人。『江』の主人公である浅井三姉妹と同じ数である。タイトルの通り、戦国の世に名を『轟』かせた女性たちの逸話だ。ただし、三国志DQN四天王では完訳の正史『三国志』、福沢諭吉では『福翁自伝』など、本来の歴史記事は一応、基本となる資料を読破してから手をつけているが、今回の話は殆どがネットで仕入れた情報に基いて書いている。私のようなアナログノンポリ人間でも、少しネットを探れば出てくる程度の情報をプロの脚本家であるたぶちんが認識していないということを証明したいのである……ホ、ホントだよ、決して金銭がないわけじゃあないよ(汗)。また、逸話の中には伝承や後世の創作臭い話も敢えて盛り込んだ。私の物語へのスタンスが史実至上主義ではなく、それらしい話をそれらしく視聴者に伝えることも重要だと思っているからである……ホ、ホントだよ、決して資料と比べるのが面倒くさいわけじゃあないよ(汗)。
それでは『轟~たぶちんの知らない姫たちの戦国~』をお届けします。
立花誾千代(1569~1602)
大友家の家臣で九州の雷神こと、立花道雪の初子にして長女。
誾(ぎん)とは『和らぎ、慎み』という意味である。道雪は可憐な娘になれという思いを込めて、誾の一文字をつけたといわれるが、蝶よ花よと育てられたにも拘わらず、当の誾千代は鉄砲を嗜むばかりか、侍女たちを集めて娘子軍を編成するなど、ジャイアンも顔負けのヤンチャ姫になってしまった。
「どうしてこうなった?」
と頭を抱えた道雪であるが、幸いというか何というか、彼は男子に恵まれなかったので、この男勝りの娘に家督を譲ることを決意した。実権は道雪が握ったままとはいえ、女性が一城の主になるなど、当時の常識では考えられない事態である。人々は誾千代のことを姫城督と呼ぶようになった。
ただし、道雪としても、いつまでも可愛い娘に一城の主という重荷を背負わせる気はなかったらしい。同じ大友家に仕える高橋紹運の嫡男・千熊丸に目をつけた道雪は自ら軍略を指南する一方、娘の誾千代と交流を持たせた。この千熊丸こそ、のちの立花宗茂である。宗茂は道雪の期待通りの勇将に育ったが、誾千代は自らが率いる娘子軍に鉄砲を配給するなど、相変わらずのヤンチャぶりであった。
1581年8月18日。
宗茂は立花家へ婿養子に入るという形で誾千代と結婚する。誾千代13歳、宗茂は二歳年上の15歳(当時は宗虎という名であったが、ここでは宗茂で統一する)。美人でヤンチャな幼馴染の御令嬢という、ソレ、ナンテ、エロゲ? といわれても仕方ないほどの良縁であったが、両名の仲はうまくいかなかった。宗茂としては、
「道雪殿の娘御と結婚した以上、俺が家督を継いだも同然だ! これからは俺が立花家を仕切ーる!」
というつもりであったらしいが、ヤンチャな誾千代がそれに納得する筈もない。
「ハァ? 何を寝ぼけてんのよ? 私はパパから正式に家督を継いだんだから、私が立花家の当主なの! 婿養子の分際で偉ぶるんじゃないわよ!」
と両名の意見は見事に衝突&決裂。誾千代と宗茂はカンチョクトも真っ青の仮面夫婦と化してしまった。
尤も、両名の仲がホントに悪かったかといえば疑問は残る。誾千代は宗茂が朝鮮出兵で渡海していた時期には、手駒の娘子軍を率いて領内の治安維持に奔走しているし、関ヶ原の戦いで宗茂の属していた西軍の敗報を聞いた際は数十名の家臣を派遣して、夫の身柄の保護に務めている。
「べ、別にアンタのために家臣たちを迎えに差し向けたわけじゃないんだからねッ! 勘違いしないでよねッ!」
というツンデレのケでもあったのか。それとも、自分こそが立花家の棟梁であり、その構成員を守るのは自らの義務であると思っていたのか。何れにせよ、誾千代は夫婦関係の不和という私事を理由に、立花家の当主という公人の責務を疎かにすることはなかった。
なお、この事件と前後して、誾千代には一つの武勲譚が伝えられている。
関ヶ原の勝ちに乗じた鍋島直茂と加藤清正の軍勢が立花家の領地である柳川に迫っていた。誾千代はまず、海路を封鎖することで鍋島軍の上陸を阻止し、次いで、自らは紫威の鎧と大薙刀というフル装備に身を固めると、手駒の娘子軍をはじめとする二百名を率いて、清正の進軍想定ルートである江之浦街道に陣取った。この報告を受けた清正は、
「左近将監(宗茂)の女房と戦うなんてムチャ過ぎるだろ、常識的に考えて……」
という家臣の進言を迷うことなく採用。激烈な抵抗が予想される誾千代軍との戦いを避けて、他の進軍ルートを選んだという。誾千代、恐ろしい子……!
先述のように西軍に属していた立花家は関ヶ原の戦いに伴う論功行賞で改易となり、宗茂と誾千代は加藤清正の庇護を受けることになった。宗茂は上方に居を移すが、誾千代は九州に留まり続ける。その若い晩年、誾千代は亡父・道雪が信奉していた稲荷社に、
「私の生命に代えても、夫・宗茂を再び、世に送り出して欲しい」
と願を掛け続けたという。
1607年10月17日。
立花誾千代死去。享年34。
その翌年、宗茂の涼やかな為人と抜群の才幹を惜しんだ徳川家康は彼を五千石で召し抱えた。そして、宗茂は幾度かの転封と加増を経て、再び、柳川十一万石の大名として復帰するのである。死ぬまでツンデレを貫いたヤンチャ姫の最期の願いが天に届いた瞬間であった……と思いたい。
志賀夫人(?~1587)
知名度こそ低いものの、志賀夫人に勝る衝撃度を誇る逸話の持ち主は男の武将でも少ないと思われる。
志賀夫人の夫は立花道雪の甥であり、大友家に仕える戸次鎮連(べっき・しげつら)である。しかし、鎮連が加判衆(家老みたいなもの)になったころ、既に大友家は斜陽の状態にあった。大友家の領地は常に島津軍の猛攻に晒され続けており、道雪も高良山の陣中で病没。家臣団の中には島津に内応する者が続出するという惨状であった。
そんな折も折、戸次鎮連も島津と通じているという風聞が主君・大友義統の耳に入った。この風聞の事実関係は定かではない。確かなことは風聞を信じた義統が鎮連をぶった斬ったということである。この知らせを聞いた志賀夫人は激怒した。ただし、怒った相手は主君・義統ではない。夫の鎮連に対してである。
「あのヤドロク! よくも戸次の家名に泥を塗ってくれたな! 不忠者の恥晒しめ!」
この段階で既に現代人の予想の斜め上をいく志賀夫人であったが、ここからが本当の地獄だ。志賀夫人は島津との戦いに赴かんとする嫡男・戸次統常を呼び寄せた。
「これからオマエに戸次の家が負わされた汚名を返上するための覚悟を植えつけてやる! 目ン玉ひん剥いて、よぉく見ておけ!」
と檄を飛ばすと、熟睡している統常の二人の幼い弟、つまり、自らの息子たちの枕元にたつ志賀夫人。
(あぁ、カーチャンはコイツらの将来のために死ぬ気で戦えと仰るつもりなのだな。判ったよ、カーチャン、俺、頑張るよ……)
と、極めて常識に則ったモノローグに浸っていた統常の眼前で、志賀夫人は、
「ヒャッハー! この世の未練は消毒だーッ!(御身ヲシテ、内顧ノ憂ヒヲ無カラシメン)」(鶴賀城戦史)
と叫びながら、
次々と自分の子供をぶった斬った。
そして、唖然とする統常に向かって、
「いいか! オマエにゃ、もう、還るべき家はない! 憂うべき親族もない! このうえは戦場で死ね! 死んで、戸次に掛けられた汚名を雪いでくるのだ!」
と諭した(……のか?)。死ぬ気で戦えはなく、文字通りに『死んでこい』ときたもんだ。ハッキリいって、御乱心である。しかし、この母親にして、この息子あり。
「やった! 流石はカーチャン! 俺ができないことを平然とやってのける! そこにシビれる! 憧れるゥ!」
と叫んだ統常は志賀夫人と共に、今度は城内に収められていた家財や家宝の類を火中に投じはじめた。さらに、駆けつけた親族たちも二人の熱気に当てられたのか、この騒ぎをとめるどころか、一緒に火をつけてまわったという。オカシイですよ、カテジナさん! そして、狂乱の宴の〆とばかりに、志賀夫人は島津軍の宿営地に忍び込み、数十人の敵を殺傷したというから、もう、言葉もありませんです、ハイ。
こうして、現世との縁を断ち切った(断ち切られた?)戸次統常は手勢を率いて鶴賀城へ出陣した。息子の出立を見届けた志賀夫人は焼け残った城内で自害した。自らの生命を絶つことで、息子と現世との最期の絆を消滅させたものと思われる。
1587年1月20日。
戸次統常は戸次川の戦いで、島津軍を相手に勇猛果敢というには余りにも悲壮過ぎる玉砕を遂げた。享年22。
小松殿(1573~1620)
トリを飾るのは戦国一の鬼嫁、ホンダムの遺伝子を継ぐもの、真田信之の寿命を7年縮めた女こと、小松殿である。
小松殿、幼名は稲姫。日本の尉遅恭(うつち・きょう、字は敬徳)こと、徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝の長女として産まれた。ちなみに、尉遅恭とは唐の太宗に仕えた名将で、常に最前線で戦いながら、カスリ傷ひとつ負わなかったという一種の鬼である。そして、平八郎も同じ逸話が伝えられているから、コイツも鬼の仲間と呼んで差支えない。そんな鬼の血をひく小松殿の結婚(小松殿は結婚してからの通称であるが、ここでは宗茂の時と同じく、小松殿で通すことにする)には、こんな逸話が残されている。
幼少のころから男勝りで高飛車な姫君として知られていた小松殿。縁談の話が来た時も、
「私の婿に名乗り出た男全員、雁首揃えてココに集めろ!」
とオーガのようなことをいって、候補者たちを広間に並べさせたうえ、彼らの髷を掴んでは、
「どいつもこいつもシケたツラしやがって!」
と罵倒してまわった。完全な女王サマ気質である。しかし、その中の一人が無謀にも勇敢にも、自分の髷を掴もうとした小松殿の手を扇子で叩き、
「これが音に聞こえた本多殿の娘御とは嘆かわしい!」
と睨み返した。この向う見ずな若者こそ、戦国一のチート大名、真田昌幸の嫡男・真田源三郎信之である(この時は『信幸』であるが、ここでは宗茂のry)。天性の女王サマである小松殿は一目で信之を気に入った。最初から従順な男に興味はない。徳川や本多の家名に屈しないプライドの高い男を飼い馴らすことこそ、小松殿の理想であった。
(コイツは調教のし甲斐頼り甲斐がありそうだ)
と考えた小松殿は信之を結婚相手に選んだ……といわれているが、これは事実とは異なるらしい。実際は小松殿はフツーに徳川家康の養女になり、フツーに真田信之に嫁いだようだ。要するに恋愛結婚ではなく、純然たる政略結婚である。しかし、小松殿は嫁ぎ先である真田家のため、そして、夫である信之のために自らの生涯を費やした。
小松殿の逸話で最も有名なものは、第二次上田合戦の前哨戦ともいうべき、舅・真田昌幸との知恵比べである。関ヶ原の戦いに際して、真田家は当主の昌幸と源二郎信繁(所謂、真田幸村)は西軍、信之は東軍に属して戦うことになった。有名な『犬伏の別れ』である。信之は家康の元に留まり、昌幸と信繁は居城である上田に帰ることになった……のだが、その途上には信之の沼田城がある。帰りがけの駄賃に沼田城を乗っ取っておこうと相変わらずの腹黒いことを考えついた昌幸は、
「久しぶりに孫の顔が見たくなっちゃった♪ ちょっと、ソッチに寄らせて貰うよ♪」
などと、白々しいにもほどがある手紙を安中作右衛門に持たせて沼田城へ送った。しかし、小松殿の元には調教中の信之から義父が西軍に着いたことを知らせる手紙が先に届いていたのである。昌幸の意図を看破した小松殿は、かがり花という侍女の【握撃】で作右衛門の腕をボロゾーキンの如くズタズタに曳き裂いた挙句、
「義父殿に伝えろ! アンタの考えは全てまるっとお見通しだ! 沼田に現れたら、その首をオマエの腕と同じように捻じきってやる!」
と物騒過ぎる宣戦布告を叩きつけた。アテが外れた昌幸は自ら、息子の嫁の説得(というか調略)を試みたが、完全武装した小松殿とその侍女たちの気迫に圧されて、沼田攻略を諦めざるを得なかった。しかも、タチの悪いことに、小松殿は沼田にいた上田勢の親類縁者を慰労会と称して城に誘い込み、彼らを人質に取っていたのである。あぁ、恐ろしい。
尤も、これで終わらないのが鬼の娘の真骨頂。沼田城は兎も角、孫の顔を見ることが出来ずに地味に落ち込んでいた昌幸が城の近くの正覚寺で休息を取っていると、小松殿が信之の子供を連れて現れたのだ。
「べ、別に好きで舅殿と敵味方になったわけじゃないからね! だから、ちゃんと孫の顔は拝ませてあげる!」
これまた、見事なまでのツンデレぶりであったが、この粋な配慮に感動した昌幸は、
「流石は本多平八郎の娘である」
と激賞したという。
そして、時は移ろい、大坂の陣のこと。
真田家からは体調を崩していた信之に代わって、信之の子である信吉と信政の兄弟が徳川軍に参戦したのだが、大坂方では叔父の信繁が(空気も読まずに)一騎当千獅子奮迅の大活躍をしていた。信吉と信政は実の叔父と干戈を交えるだけでなく、味方からは猜疑の目で見られるという散々な目に遭ったわけである。しかし、本当の地獄の釜が開いたのは戦が終わってからであった。戦場から帰還した兄弟に母親のワードボムが炸裂したのだ。小松殿曰く、
「あら? 二人とも生きて帰ってきちゃったの? ウチの実家も一人死んでるんだから(弟の忠朝)、あんたらのどっちかが殺られていれば、幕府の覚えもめでたくなったのにねぇ」
この言葉に兄弟二人は唖然茫然。そして、すっかり小松殿に飼い馴らされていた父親の信之も、
「流石は本多平八郎の娘である」
と亡父と同じ言葉で嫁を激賞したという。実際、徳川家の軍勢を二代、三度に渡って撃退した真田家への幕府の感情は極めて悪く、小松殿は御家を守るために自らが腹を痛めて生んだ子供を犠牲にする事態すらも想定していたのであろう。この辺りの価値観は現代の視点では到底図り得るものではないし、また、図ってよいものでもない。
1620年3月27日。
小松殿死去。享年49。
妻の訃報を聞いた信之は、
「我が家から光が消えた……orz」
と落胆したというから、余程、小松殿に馴致されていた惚れ込んでいたのであろう。
立花誾千代。
志賀夫人。
小松殿。
三者三様の生きざま、散りざまを紹介させて貰った。
他にも忍城攻防戦で活躍した甲斐姫、瀬戸内のジャンヌ・ダルクこと大祝鶴姫、そして、最上義光の妹にして、伊達政宗の母である義姫などが候補にあがったが、それぞれが『のぼうの城』『鶴姫伝奇』『独眼竜政宗』などの著名な媒体があるので、今回は見送らせて貰った(小松殿も『真田太平記』があるけどね)。
それにしても、この記事を書きながら思ったのは、
「彼女たちの話を知っていたら、とても、あんな脚本は書けないよね」
ということである。
そんなに御転婆姫を書きたかったら、立花誾千代を取りあげればいい。誾千代であれば馬に乗せるどころか、鉄砲を撃たせても大丈夫だ。志賀夫人の逸話からは、当時の女性が家名や戦に掛ける覚悟の凄まじさが伝わってくる。政略結婚は嫌でございまするゥという戯言も、小松殿の生涯を知れば撤回せざるを得ない。当時の人々にとっての御家や名誉は、時に平和や生命よりも大事なものであった。勿論、過去の価値観から現代を眺めて、最近の社会は自己犠牲の精神や国家への忠誠心が足りないとほざくのはナンセンスだ。しかし、現代の価値観を過去の歴史に押し着せて、昔の人たちも愛と平和を一番大事に思っていたと考えるのも同じくらいにナンセンスである。そうした一切の事象を知らず、また、知ろうともせずに、
「戦が嫌だだの、自分は政の道具にされたくないだの、いいたかっただろうことを沢山いって頂くことで、あの時代を生きた女性たちの思いを癒したい」
だと。
思いあがるな。
たぶちんの上から目線の同情なんて、この三人の生涯を侮辱する言葉以外のなにものでもない。その程度の認識と覚悟しかない奴に、二度と歴史創作に関わって欲しくない。暴論といわれようとも、オマエこそ何様のつもりだといわれようとも構わない。これは私の偽らざる本心である。
ここまで御笑覧頂きまして、本当にありがとうございました。