馬超 ~三国志DQN四天王其ノ四~ | ~ Literacy Bar ~

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※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。

三国志DQN四天王のうち、一人は何晏で確定しているといったな。


アレもウソだ(CV:玄田哲章)


三国志DQN四天王の掉尾を飾るのは蜀漢の馬超である。

何晏が枠から外れた理由は別の機会に語る予定であるが、馬超の選出は本人の資質だけでなく、構成上の事由もある。折角の三国志企画である以上、孫呉、孫呉、曹魏ときて、蜀漢を紹介しないのは不公平であるし、また、馬超は蜀漢の武将とはいえ、その生涯の殆どを三国の何れにも属さない独自の勢力として君臨した実績がある。曹魏、孫呉、蜀漢、その他勢力から一人ずつ選出したいという当初の予定の帳尻あわせにはもってこいの武将なのだ。

しかし、正直、不安でもある。

昨今の『無双系』格闘ゲームの影響で歴史好きの女性が増えているが、彼女たちの間で馬超はかなりの人気を誇ってるらしい。そうした方々が万一、この記事を読んだ時にどんな反応をするかと思うと些か、うそ寒い心地になる。何より、この企画の元ネタを提供してくれたY氏も古くからの馬超好きなのだ。恩を仇で返すような格好になってしまいそうであるが、実際、馬超はDQNなんだから仕方ない。



俺が悪いんじゃない。

馬超がDQN過ぎるのが悪いのである。

(まえにも同じようなことを書いた気がする)



これまでに紹介してきた四天王を、それぞれ一言で評すると、

潘璋……GOROTSUKI

甘寧……チンピラ

曹丕……人間失格
であった。そして、四人目の適格者(フォースチルドレン)の馬超を一言で表すと、

「残念な子」

といえる。何が如何、残念であるのかは本文に譲るが、どうも、馬超という武将は、

「一度に一つ以上のことを考えることができない」

という特異な性質の持ち主らしい。それでは、四天王最後の使者である馬超の生涯を追ってみたいと思う。



第一章 母の死


馬超、字は孟起。

後漢の伏波将軍馬援の末裔といわれている。

のちに『錦馬超』の異名を奉られる西涼の勇将は生涯を通じて、肉親との縁が薄かった。彼は十代半ばのころに母親を喪った。病死ではない。韓遂という、同じ西涼の軍閥の首領に害されたのである。韓遂と馬超の父である馬騰は異姓兄弟の契りを結ぶほどに親密な間柄であったが、肉親すらも平気で裏切るのが常の乱世において、そんな約束は便所の鼠の糞ほどの価値もない。領土問題で関係を抉らせた馬騰と韓遂は忽ち、不倶戴天の敵同士となった。そして、馬超の母親は韓遂が放った軍勢に殺されてしまったのである。

「よくもだましたァァァ! だましてくれたなァァァ!」

激怒した馬超は手勢を率いて、韓遂の軍を攻撃した。『三国志演義』では蜀漢の五虎大将軍の一人に列せられ、コ○エ○のシミュレーションゲームでは武力97という極めて高い数値を誇る馬超は、韓遂軍の下士官クラスに過ぎない閻行に自信満々で一騎討ちを挑み、


見事に敗北した。


相手の矛で突かれ、自分の矛はヘシ折られ、あまつさえ、折られた矛で首を殴られるという、いいわけのしようもないフルボッコ状態であり、味方の救援が駆けつけなければ殺されていたのは確定的に明らかであった。馬超、残念な子……! ちなみに、馬超をブチ殺す寸前まで追い詰めたにも拘わらず、先述したゲームにおける閻行の武力は84に留まっている。どう考えてもオカシイよね。閻行、可哀想な子……!

この馬騰と韓遂のイザコザは中央政府の知るところとなり、時の宮廷を牛耳っていた曹操の仲介で終息したものの、妻の仇と顔をあわせ続けるのに耐えられなくなった馬騰は息子の馬休、馬鉄と共に都に居を移した。こうして、馬超は父の残した軍勢を率いる関西(かんぜい)の若き頭目となったのである。



第二章 父と弟の死


そんな馬超の人生に大きな転機が訪れた。曹操による漢中侵攻作戦の発動である。

曹操軍が漢中に侵攻するには、馬超や韓遂たちが割拠する関中一帯を通過する必要がある。このため、関中一帯の所謂『西涼十軍閥』は、曹操軍の狙いは漢中ではなく、自分たちではないかという疑心暗鬼に駆られた。

「このままでは西涼十軍閥は滅亡するんだよ!」

「な、なんだって―――っ!」

という予言じみた風聞を耳にした馬超は、西涼十軍閥と共に曹操と対峙する覚悟を決めた……のだが、普通は都にいる父や弟たちの生命を心配するのが当然の反応である。実際、同じように息子を都に送り出している韓遂は人質の生命を慮ってか、挙兵に煮えきらない態度であった。しかし、馬超は曹操との戦いで脳の容量が満杯になってしまったらしく、人質である父や弟のことなど関係なしに着々と軍備を増強し続けた挙句、母親の仇である韓遂にも参戦を呼び掛けたのである。

「俺は都の父のことを忘れて、アンタを新しい父と呼ぶ! だから、アンタも都の息子のことは忘れて、俺を新しい息子と呼べッ!」

(いや、その理屈はおかしい)

と思った韓遂であったが、憎っくき馬騰を自らの手を汚さずに始末する口実を、その息子が持ってきたのである。それに馬超という見栄えのする武将を盟主に据えた戦いは、生来の反逆者である韓遂には抗いがたい魅力を持っていた。こうして、西涼十軍閥は盟主である馬超の元、曹操軍を迎撃する態勢に入った。

この馬超の動きに愕然としたのは曹操である。

西涼十軍閥が危惧したように、この漢中侵攻作戦は関西(かんぜい)地域の平定こそが真の目途であった。そして、分散する軍閥を虱潰しにするよりも、糾合統一された勢力を叩くほうが遥かに効率がよいと考えた曹操は、彼らの危機感を煽ることで連合軍が結成されるように誘導したのである。しかし、統合された勢力が曹操の制御能力を超えるようでは本末転倒も甚だしい。そのため、曹操は西涼十軍閥の幾つかを味方に曳き入れることで、その結束に楔を撃ち込むつもりでいた。その最有力候補こそ、父と弟が都にいる馬超であり、息子を人質に出している韓遂であった。ところが、当の馬超が父と弟のことを完全に【なかったこと】にしてしまったため、楔を撃ち込むどころか、逆に軍閥同士の結束を強めることになってしまったのである。まぁ、馬鹿の考えは読めないよね。
かくして、馬超率いる西涼十軍閥とド正面から衝突する羽目になった曹操軍は赤壁の戦いを上回る敗北を喫した。曹操本人も馬超の軍勢に追い回されて、僅かな虎豹騎(近衛軍団)と共に、ほうほうの態で逃げ回るという惨状であった。この戦役における曹操軍の死亡者は一万人を超えた。死傷者ではなく、死亡者が一万人……。馬超、恐ろしい子……!

しかし、流石は曹操である。緒戦の敗北をたて直すと、馬超の裏という裏をかき続けて、どうにか戦況を五分五分の状態に持ち込むことに成功した。乱世の姦雄は伊達じゃない。そして、西涼十軍閥に新しい楔を撃ち込むべく、策謀を弄し始めたのである。

まず、休戦中に韓遂と二人きりで話しあいの時間を設けた。曹操と韓遂は同期の桜であり、別段、不自然な状況とも思えないので、韓遂も昔話に花を咲かせたのであるが、その様子を見た馬超は途端に不機嫌になった。
「伯父御(韓遂)、曹操と何を話したのですか?」

「別に何も……」

「嘘だッ!」

また、韓遂の元にワザと墨で文章を訂正した手紙を送りつけた。その手紙を見た馬超は益々、機嫌を悪くした。

「伯父御、この手紙には何か都合の悪いことでも書いてあったのですか?」

「別に何も……」

「嘘だッ!」

こうなると馬超の妄想はとまらない。

(韓遂は怪しい……韓遂は敵に通じている……韓遂は母上の仇……韓遂は許せん……韓遂を殺す……! 曹操? 何ソレ? オイシイの?)

曹操と戦う時には父と弟の存在を考えられなくなったように、韓遂が怪しいと思った時には曹操の存在を考えられなくなってしまうのが馬超であった。一度に考えられることは一つだけ。まさに、リアル『ジェイル・ハウス・ロック』状態。馬超、残念な子……!

さらに、緒戦の勝利をダシに有利な講和を結ぼうとする韓遂と、徹底抗戦を唱える馬超の確執も顕在化した。韓遂としては自分たちの領土と権益が保障されれば、曹操軍が領地を通過しようと問題はないし、都にいる人質の安全も保障されると考えたのである。しかし、韓遂への憎悪のあまり、何のために戦争を起こしたのかを完全に忘れてしまった馬超は、益のない戦闘継続に固執し続けた。

「寝ぼけるな、続行だ! ケチな勝ち星拾う気なし!」

「ひ、退き際を知らんか、孟起(馬超)……!」

こうして、馬超と韓遂の不協和音から各軍の連携を欠いた西涼十軍閥は、アッサリと曹操軍に撃破されてしまった。翌年、都にいた馬超の一族郎党二百余名が処刑される。この報告を敗走先の漢陽で聞いた馬超は、


「父上! 休! 鉄!」


と叫んで慟哭したというが、韓遂の講和案に乗っていれば……というか、そもそも、叛乱に加担しなければ彼らの生命は助かっていたわけだから、どう考えても自業自得だよね。



第三章 妻と子の死


馬超は翌年、父方の祖母の血族である羌族と漢中の張魯の支援を受けて再起する。曹操軍の西方の拠点である冀城を包囲した馬超は激しい攻撃を繰り返すが、容易に城は陥ちない。馬超は城外との連絡を図る途中で囚われた曹操軍の閻温という武将に、

「冀城に向かって『援軍は来ない』といえば生命だけは助けてやる」

と唆したものの、閻温が冀城に叫んだ言葉は、

「援軍は@三日で来るぞ! 馬超涙目! ザマァ&プゲラ! ウチにゃ、主君を裏切るような不忠者はいねぇよ、バーカ!」

という逆効果も甚だしいシロモノであった。この中国版鳥居強右衛門をぶった斬った馬超は、憂さ晴らしとばかりに猛烈な勢いで冀城を攻め続けたものの、やはり、城は陥ちない。そこで、城主である韋康の生命を保証するという条件で開城を迫った。八カ月に及ぶ籠城戦で疲弊した民草の姿を顧みた韋康は、ついに降伏を決意する。

「いいか、斬るなよ! 絶対に俺を斬るなよ!」

「大丈夫、大丈夫。絶対に斬らないから早く城門を開けてよ」

「よし、判った。降伏する。城門を開け!」ギギィー


勿論、斬った。


完全に斬る必要のない相手を斬った。しかも、援軍として遣わされていた張魯軍の楊昂に斬らせたのである。彼の手を汚させることで、張魯を否応なしに対曹操の戦いに巻き込もうと考えたらしい。残念な子は残念な子なりに頭を働かせたといえる。やればできる馬超であった。

しかし、幾ら知恵をつけようが、残念な子は所詮、残念な子でしかない。上記の閻温の逸話からも判るように、韋康は城民や同輩から篤い信頼を受ける人物であった。その韋康を斬った馬超は、こともあろうに、彼の部下たちを自らの家臣として顎で使い続けたのである。不発弾……というよりも、地雷の上でタップダンスを踊るようなものだ。当然、韋康の遺臣たちは密かに馬超を叩き出す密謀を巡らせていた。音頭を取ったのは、韋康の腹心であった楊阜、姜叙、趙昂たちである。彼らの計画は、

「姜叙が歴城で叛旗を翻し、馬超がその討伐に向かった隙に冀城を乗っ取る」

という、恐ろしく単純なものであったが、残念な子である馬超に複雑な策謀を用いても逆効果であることは曹操が証明している。そして、計画通りに馬超は罠に嵌った。姜叙の叛乱の報告で頭が一杯になっていた馬超は、他の人間の動きにまるで気を配ることなく、脊髄反射を思わせる勢いで飛び出していったのである。当然、冀城にいた彼の一族や妻子は悉く斬殺されてしまった。この知らせを聞いた馬超は、


「むむむ」


と無念の臍を噛んだものの、時、既に時間切れ。意趣返しとばかりに歴城に乗り込んで、姜叙の母親をぶった斬った馬超は、その足で漢中の張魯の元へ落ち延びることになった。馬超、残念な子……。

偶然にも漢中には馬超の縁者がいた。西涼時代の側室の弟である。この義弟(?)が馬超の元に年賀の挨拶に出向いたことがあった。しかし、当の馬超は、

「俺の一族郎党百人余が死んでしまった! 呑気に正月を祝っていられる気分じゃない!」

と血を吐きながら(史実)咽び泣いたという。まぁ、気持ちは判らないでもないが、父や弟のことといい、今回の妻子のことといい、どう考えても馬超の自業自得である。馬超を憐れんだ張魯は自らの娘を嫁がせようと考えたが、

「馬超の父や弟が死んだのも、その妻子が殺されたのも、全ては本人が残念な子であるからに他なりません。残念な子に娘を嫁がせたところで残念な結果になるだけです」

という側近(『三国志演義』では楊柏とされる)の言葉で已み沙汰となった。馬超が残念な子であるという認識は当時からの常識であったらしい。



第四章 本人の死


そんな折も折、漢中の南方にある蜀の地では劉璋と劉備が骨肉の争いを繰り広げていた。張魯に兵を借りての北伐に悉く失敗して、漢中における地歩が危うくなっていた馬超は僅かな共回りを連れて、劉備の陣営に身を投じた。この僅かな共回りの中に漢中で娶った側室(董氏)と幼い息子(馬秋)は含まれていない。劉備陣営に参ずることだけで馬超の頭は一杯であった。相変わらず、一度に一つ以上のことを考えられなかったらしい。ちなみに、漢中が曹操軍に占領された際、董氏は張魯の腹心である閻圃のものになり、馬秋は張魯の手で斬られている。馬超、残念な子……&馬秋、可哀想な子……。

兎も角、馬超は劉備の陣営に参じた。彼の参入を知った劉備は、

「ねんがんの蜀の地をてにいれたぞ」

と喜悦したという。如何に残念な子であれ、馬超が曹操をガチンコ勝負でボロ負けに追い込んだことは紛れもない事実であった。その勇名は蜀の地にも轟いていたらしく、事実、馬超の参戦を耳にした劉璋は十日も経たないうちに劉備に降伏している。馬超、恐ろしい子……。

ただし、一度に一つ以上のことを覚えられない残念な子という評判も流布していたようだ。彭羕という文官が左遷された腹いせに謀叛を企んだ際、真っ先に声を掛けたのが馬超であった。コイツは馬鹿だから簡単に利用できると思われたのであろう。尤も、どういう風の吹き回しか、馬超が劉備に計画をチクったため、謀叛は未然に防がれた(勿論、彭は処刑された)

蜀漢の章武二年(西暦二二二年)、馬超は死去する。その遺言に曰く、

「臣(私)の一門、二百名余は曹操のせいで殺されました」

劉備をはじめ、その遺言を読んだ誰もが、


「いや、全部、おまえのせいだろう」


と心の中で突っ込んだのはいうまでもない。

冒頭で『馬超は生涯、肉親との縁が薄かった』と述べた。父親や妻子が死ぬたびにオイオイと泣き喚いているから、親族への愛着が薄かったわけではない。しかし、母親以外の親族の死は全て、馬超の軽率と短慮が招いた結果である。それにも拘わらず、馬超は一切の責任は曹操にあると確信していたらしい。最期の最期まで残念な子であった。



以上の記事は99%の史実に基いて描かれている。福沢諭吉の記事と同じく、台詞のチョイス以外は殆ど、手を加えていない。馬超を書こうと決めた時には、三国志DQN四天王のトリに相応しい記事にできるか否か不安を覚えたが、案外、スラスラと筆が運んだ。冒頭でも馬超を三国志DQN四天王に加えることへの危惧を述べたが、しかし、書き上げてみると、やはり、何晏を外してコイツを入れたのは正解であったと思う。

ともあれ、これで『三国志DQN四天王』の四人が揃った。勿論、このチョイスは私の独断であり、この称号に相応しい武将が他にもいるであろうとは思うが、現今の私の中では、


GOROTSUKIの潘璋

チンピラの甘寧

人間失格の曹丕

そして、残念な子の馬超


こそが『三国志DQN四天王』であろうと確信している次第である。四天王に選ばれなかった(幸福な)落選者たちについては、いずれ、まとめて記事にしたい。@4~5名は候補者リストに名が挙がっていたから、一本分の記事には丁度いいと思う。


ここまで御笑覧頂きまして、本当にありがとうございました。