12星座の中で最終地点にある魚座は、魂の終着点です。
同情心ゆたかな心を持ち、献身的、周囲からの影響を受けやすく、善にも悪にも染まりやすい。直感的、情緒的。
そのようなことが言われる性格はどこに由来しているのでしょう。そして、そんな魚座の生きがいとは?
魚座は女性星座。
ミュータブル・サイン(柔軟宮)。
水のエレメント。
支配星は海王星。
女性星座であるということは受容的です。
水のエレメントは「情」であり、この星座においてはまず人の気持ちを感じ取り、受け取ることが多くなります。そして破壊の質を持つミュータブル・サインです。
ミュータブル・サインだったこれまでの星座の特徴を振り返ると、
双子座においては知の拡大や他人とのコミュニケーションのために、これが必要でした。
乙女座においては自己修練、自分自身への点検や厳しい評価のためにこれが必要でした(場合によっては労働環境における自分のため)。
射手座においては高度な精神活動と社会への関与のために、これが必要でした。
ミュータブル・サインが強く関与している星座は、どのケースでも自分と特定多数の他人との関わりが重要になっています。獅子座のように自分が輝いていればいいというものでもなく、牡牛座のように個人エリアで現実の満足を得ればいいというものでもない。
ミュータブル・サインの質とは、個人を打ち砕くことです(これがすなわち破壊)。
その前段階はかならずフィックスド(固定・維持)で、魂の成長のためには型にはまったものを打ち壊さなければなりません。
そのサイクルが、「知」(双子座)→「修練」(乙女座)→「解放」(射手座)だったわけです。
その先にある魚座は、究極的な自己の破壊を達成します。
その手前にある水瓶座は、個人や社会的な立場を超え、社会全体や集団の理念を実現するために理想や変革を掲げるエリアでした。
ここを通過した魂にとっては、じつはもはや現世ではほとんど成すべきことはなくなったのです。
たとえば個人生活で満足を得、社会的にも成功し、世のため人のためにも尽くしたなら、もはや具体的にできることは少なくなってきます。そんな人間が向かうところは、やはり内面的な世界なのです。
これが結局、魚座の支配星である海王星が持つ、芸術とかいった領域になるのです。
単純な人生の流れで言えば、なにすることもなくなった引退した人物が、酒(海王星)におぼれて余生を過ごすというのも、まことに魚座的な結末なのです。
しかし、魂のプロセスは酒におぼれることでも麻薬に手を出すことでもありません。
魚座は最終的には、精神的な領域で人に尽くそうとします。
具体的にやれることはやってしまったわけですから、後はもう心なのです。
そしてそれは、たとえば情の星座であった蟹座、蠍座のような小さな話ではなくなってきます。
蟹座は家族愛の星座です。蠍座は配偶者などもっとも深いつながりを持つ人物との一体化の星座です。
この次に「情」を発揮する方向は、もはや山羊座・水瓶座といった社会的な領域でなければならなくなってきます。
ここから魚座は献身的で人のために尽くすという性格を付与されるようになるのです。
結果、職業的には医者とか看護士とか、福祉、あるいはカウンセラーやセラピストといった人を癒し、助けてあげる職業が魚座の支配するところとなり、また魚座やその定位置である12ハウスに重要な星が関わっている人は、現実にそのような道を選択することが多くなります。
芸術や音楽なども、ほとんど同様な効果を持つために、海王星や魚座のものとなっています。
12ハウスは世間から隠れたもの、目立たないもの、潜在意識などの部屋であり、ここを定位置とする魚座は自分が目立とうとかいう意欲は乏しい人が多く、ひっそりと世界や世間、人々を陰から支えていることもあります。
このようなあり方は、もっとも菩薩的というのか、この現実の世の中で、高度に精神が発達しなければ難しいものです。
もちろん魚座生まれの人が、みな、精神的に高度というわけではありません。また医者や癒す仕事に就いている人が、かならずしもそうではありません。
魂のプロセスとしての魚座の話であり、そこで人はもはや「自分」ではなく、「他人」のために生きるようになります。
いや。
これは正確な表現ではありません。
魚座的な質が強い人によっては、本当は「自分」と「他人」に区別はなく、他人のためにしているのではなく、他人のためにすることがそのまま自分の喜びでもあるのです。
これが結局、究極的な破壊であり、魚座の領域では自分という個人が破壊され、無になります。
ところが、現実に生きている以上、エゴというものを魚座的な人も持っています。
しかし、魂は「無」を指向しています。自分が消滅する。そこに葛藤が生じます。
「わたしって、なに?」
そんな問いかけが常にあります。無になろうとすることへのあがきのようなものです。
それに抵抗すればするほど、エゴにしがみつこうとすればするほど、魚座はどつぼにはまってしまいます。なぜなら「自分」に魚座の満足はないからです。
それを超えた領域にしか本当の満足はない。
現実に生きている過程で、こうした葛藤をごまかすために、酒や危険な薬物に溺れるというのも、魚座的なストーリーなのです。
神仏の領域に近いところにいながら、現世的な快楽に溺れるのもまた、なんとかこの世にしがみついておこうという、かすかなエゴの抵抗なのかも知れません。
しかし。
そんな魚座の生きがい、生きているはりあい、生きていて良かったと思うこと。
それはどこにあるのか?
思い切って飛ばねばなりません。
現世的なエゴを離れねばなりません。本質的にはそれで自分が消滅することなどありません。
むしろ己を捨てたときにこそ、魚座の喜びがあります。
愛する人に尽くすこと。
世界中の貧しい人ためのために、弱者のために救済を行うこと。
芸術の中で無となって表現すること(でなければ、神的なものは受信できない)。
小さなことから大きなことまで。
なんだっていいのです。
自分が無になる領域こそが、魚座的な人がもっとも輝けるときではないでしょうか。
もっとも高貴なる魂の終着点。
それは魚座に象徴されています。
そこで無になった魂は、大きな大きな一つのもとへ溶けていきます。
そしてそこでまた新しい意欲と指向を持ち、新しいサイクル(転生)を目指すのかも知れません。
