K配ぜん人物評1 ちょっと不思議なMさん |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

「zephyrさん、『デビルマン』ていう漫画読んだことあります?」
と、K配ぜんの同僚のMさんが言った。

『デビルマン』は永井豪の漫画で、世界の終末を前に、悪魔と合体することによって、自ら「悪魔の力を持つ人間の心を持つ存在」=デビルマンとなって人類を守ろうとする主人公、不動明の物語だ。親友の飛鳥了(本質は堕天使サタン)、愛する美樹とその家族などのエピソードとからみ、いくつかの悪魔(デーモン)との戦いを経、最終決戦へとなだれ込んでいくのだが、この中で語られるのは悪魔の恐ろしさよりも、むしろ人間の持つ残虐性だ。

「読んだことありますよ」と、私。
「魔界とか悪魔とか、そういうのって、あると思います?」
「……どうして今、そういう話をするんですか?」
「え?」
「今、まさにそういうことで悩んでいる最中なのに」
「そうなんですか?」

不思議なシンクロニシティだ。
じつはここのところ読んだそういうスピリチュアル関連の書物には、「地獄界」だとか「幽界」だとかいう話があり、そんなものが実在するのだろうか? と考えていたところだった。
西洋の、特にキリスト教世界では神に対立する悪魔というものが想定されていて、実際に映画の「エクソシスト」のような事件も起きている。
私はどっちかというと、死後の生命も信じるし、生命の表れは肉体だけではないだろうと思っている。
しかし、地獄だの何だのという理念には懐疑的だ。

もしそのような悪魔現象が起きるのだとすれば、それを信じる人々の集合無意識が、現実化するのではないかと考えている。
しかし、私は自分の肉体の目が見えるもの以外を見る能力があるわけでもないし、いわゆる霊能力などカケラもないような気がする。
なので、正直なところ「わからない」のだ。

ただ、それを見えた、感じられたとしても、それが真実なのだろうか?
というのは、いわゆる霊能者、あるいはスピリチュアルな感応を受けて書物を著したりしている人の言うことは、実に多様なのだ。
ある人は、「地獄などない」というし、逆に「ある」という人もいる。悪魔など存在しない、いや、存在している。チャネリングに肯定的、否定的。パワーストーン肯定派、否定派。
ある人は「日月神示」が正神からのお告げであるといい、ある人はそれをたいしたことはないレベルからのものだと言う。
日本にも昔から「お筆先」とかいう形で、神からの言葉が下ろされている(という話なの)だが、その時点ではそれは最高のものだと考えられていながら、十年二十年経過すると、また別な人が現れて、過去のものよりも今、自分に下ろされているものこそが高度なものだと言う。

私は彼らが本当に見えていたり、霊感を受けていたりするのか知らない。中にはペテン師もいるだろうし、そっちの方がずっと多いかも知れない。
が、はっきりわかっているのは、彼らが本物だと仮定しても、ほぼ例外なく、自分の受け取っているもの、自分の見えているものこそが真実・真理だと考えている、ということだ。
そして、その内容はかなり異なる、ということなのだ。

いったい、誰の言葉を信じたらいいの?

という構図が、大局的には見えてくる。
彼らは本当にそういう光景が見えているのかも知れない。しかし、なぜか見えるものは違う。全部が嘘、あるいはどれかが嘘。それとも、多次元的には全部が存在している?
悪魔が存在する神霊の世界もあれば、悪魔が存在しないあの世もある?
なんだか、しっちゃかめっちゃかだ。
そしてそれをきちんとふるいにかけ、理性的に判断できる基準はない。

なので、要するにその人を信じるかどうか、という話になってくる。

私は別に特定の誰かを攻撃する意図もないし、誰かの言っていることが嘘だと言いたいわけでもない。
それぞれにはとてもいいことを言われている場合だってあるし、真偽は別にして人の役に立つことを、実際にされている方もいる。

そんなことを考えていたら、なんだか面倒くさくなってきて、私はここのところ自分の周囲からパワーストーンだとか、スピリチュアルなものを排除するような方向に向かっていた。
それらが嫌になったのではなく、それを身近においている自分が嫌になったと言うべきかも知れない。

一つには占星術、占いのこともあった。
もう辞めてしまおうか、と本気で考えた。そう思ったのには、また別な理由があるのだけれど、全体的な流れでは「裸になりたくなった」という感じだ。
今の自分には、よけいなものがひっつきすぎている。
いつの間にか、そんなものをそばに置くことで、依存しているのではないか?
もっとシンプルな自分、そんなもの関係ねえ、と生きていく自分。
それで自分は十分だし、そんなものに頼らなくても力を発揮できる。
いや、むしろその方が力が出る。

というようなことを、つらつら考えているときに、Mさんの唐突な発言だったわけだ。
「なぜ今、それを言う?」と、私が思っても当然だろう。

Mさんはそっち方面にも、ある程度の感応のある方で、旦那さんもそうらしい。
とてもいい人で、私は個人的にとても好きな女性だ(変な意味はないです)。
彼女と話をしていると、だんだん頭の中が整理されてきて、この記事を書く気になった。
気分が落ち着いたのは、彼女の人柄もあるだろう。
いきなり占いを辞めてしまう、という暴走も、とりあえずブレーキをかけることにした。

K配ぜんには、女性スタッフが多くて、本当に「女の園」なのだけれど、私は某ホテルのレストラン&バーに常勤で入っている形なので、そうそう女の園で泳いでいるわけではない。
それぞれにユニークな女性ばかりだ。

笑顔の気持ちいいMさん。
山間の清流のような女性です。