トイレの諭吉さんは、きっとこんな人 |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
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「トイレの諭吉さん」のことが話題になっている。
全国の市役所のトイレに壱万円札と手書きの「修行に役立ててください」というような内容の書面を残している人物。
様々な方面からいろんな憶測が飛び交っているが、推理作家として、占術家として推理を提示しておこうかと思います。

まず手書きの書面。これはコピーではなく、すべて一枚一枚手書きされたものだとか。
ここからかなり年齢の上がった人物であることは、容易に推測される。
私たちよりも若い世代は、すでにものを大量に書くとき、ワープロやパソコンに頼るくせがついている。
まして同じ文面、四百枚以上である。最低でもコピーはするだろう。宗教的な理由(書くことも修行だとか)があれば、それでも頑張ろうとするかもしれないが、確率としてはかなり低いだろう。
トイレが場所になっていることから、トイレを重視する宗教関係者ではないかという憶測もあるようだが、あまり賛成する気にはなれない。
トイレが使用されるのは、そこが「不特定多数の誰でも出入りできる個室」だからだろう。つまりそうした機能を備えているものが、ほかにもあればそれが使用されただろうが、たとえばコンビニのトイレなどよりも市役所の方が建物自体、公共性が高いし、コンビニでは店内のカメラに撮影される危険もある。
匿名性を保持したままでいたいのなら、コンビニは避けるだろう。

男性用トイレに置かれているのは、犯人が男性だからだろう。女性が男装してばれていない可能性もないわけではないが、何百回も繰り返せば、ばれる危険は高まる。が、男と判断するのは、別な理由もあるので、それは後述。

全国各地の市役所は物理的に一人で回ることが可能であるようだ。それどころか、隣接した府県では同日中にそれが行われているケースもあるようなので、単独と見た方がいいだろう。
これだけの回数、複数犯で行うとしたら、なんらかの思想的背景がある組織でないと難しい。
また秘密というのも守られにくくなる。何十人もの人間が、かならず口を閉ざしているとしたら、やはりこれはカルト的な思想がないとあり得ない。
ただこれは犯罪とは言い難いので、オウムのような守秘を熱心に実行者が行う必要はない。つい、漏らしてしまう可能性の方が高い。昨年からこれは行われており、すでに口外した人物が存在しないことから、私は単独犯だと思う。
行動を見る限り、すでに勤めなどの社会制約を受けていないと思われるので、定年退職している可能性もある。そこまで年齢が上でなくても、裕福で、仕事を必死になってする必要がない人間であることはたしかだ。

そしてこれだけの熱意を持って実行できる裏側には、彼が人に分け与えるだけのお金も、実際には使い道が他にないからだとも考えられる。たとえばお孫さんとか子供。そうした家族がいても、まったく心が通っていないか、あるいは家族自体、ほとんどいないのかもしれない。
もし愛すべき家族がいて、この行動であれば、それは自身の宗教的な観念から発せられたものであろう。
たとえば自身の罪深さを贖罪するための慈善的行動として。

つまり私が個人的に想定しているのは、以下のような人物だ。
ある程度、高齢の孤独な人物。

もう一つ、占術を使って人物を割り出してみよう。

この事件が話題になったのは、土星に金星が合になったのと前後している。
金星は「お金」である。
そして土星は57歳から70歳あたりまでの年齢域、「父親」「権威」などを意味する星だ。
現在、この土星の「サビアン・シンボル」は「霊的で内的な達成に完全に集中している男が、肉体的なあらわれと清潔さを無視した状態で座っている」というものである。
サビアン・シンボルは時に、露骨なほど現実を映し出すことがあるが、この事件が話題になっている最近のサビアン・シンボルが、この犯人像を暗示しているように思える。
このサビアン・シンボルは、まさに「行者」的な姿勢で、身なりも気にせずにぼろをまとってヨガや修験を行っている人物を暗示している。
「清潔さを無視」=「不潔な場所」=「トイレ」という連想、「座っている」=「便座」という連想。
これらからも「トイレの諭吉さん」は、手紙の文面通り、宗教的な観念を思想背景に持つ人物で、これらの行為が他人に修行や善意を促しながらも、じつは「自分自身の修行」のために行われていることを示している。
年齢はやはり土星が示すとおりだが、定年後と思われること、昨年から始まっていることなどから、現在61歳以上70歳までと見ていいだろうと思う。
またこのサビアン・シンボルには、複数要素はまったくない。だいたいヨガや修験道といったものは、単独での悟りへ至る「独覚」の道である。他人は彼の世界にはない。
しかし、このサビアン・シンボルは「獅子座」の中にあり、行動が始まった時点では、獅子座的なワンマン的なショーマン的な自己顕示欲もあったと思われる。

つまり愉快犯という見方は、妥当かと思われる。しかし、やはり孤独な人物であろう。

これが、私が個人的に想定している人物像、「トイレの諭吉さん」だ。