【ロシア文学の深みを覗く】
第48回:『酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』
酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行 (文学の冒険シリーズ)/国書刊行会
¥2,039
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基本的にお酒は飲み会かデートの時しか飲まない。嫌いなわけではない。むしろ好きだ。でも弱い。なにより、お酒を飲むと本が読めなくなるのが最大の問題だ。
『昨日、ヰスキーをチビチビ飲みながら読書に没頭しちゃってさ、気付いたらボトルは空、ちょっぴり昂揚していたんだけど、それが酒に酔ったからか、それとも本に酔わされたからか、一瞬分からなくなっちゃったよ』などと嘯いてみたいものだが、それは夢のまた夢である。
さて、ロシア人、特にロシアのおっさんには酒好きというイメージが付きまとう。ロシア女性の平均寿命が75歳程度であるのに対して男性は63歳と低いのは酒(ウォトカに決まっている)のせいだという説が有力らしい。
日本に置き換えると、定年退職の年齢の主流が60歳から65歳だから、平均的には、定年と同時にあの世行き。老後もへったくれもあったもんじゃないが、被扶養人口に対する生産年齢人口の比率を向上させるのには役立っているかもしれない。経済的である。しかし、老後に読書三昧を予定している僕は、非経済的であろうとなかろうと、末永く生きるのである。「生きたい」ではない、「生きる」のだ!
まあ、そんなことはどうでもいい。文学の話をしよう。ヒック。
酒好きなロシア人だが、ロシア文学の中では飲んだくれはあまり登場しない気がする。厳密には登場してはいるのだが、ちょい役程度で主人公クラスになると見当たらない。これには何か深い意味があるのではないだろうか?
いや、よく考えると当たり前である。主人公が飲んだくれていたら話が進まないし、素面の人にとって酔っ払いの戯言ほどつまらないものはないのである。
だから飲んだくれを主人公にする作家がいなくても当然だ。しかし、何事にも例外がある。地球温暖化が進んでも冷夏の年もあるように。(例外と冷害をかけているのだ!)
今回紹介するエロフェーエフの『酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』はそんな例外的作品である。つまり、主人公は飲んだくれである。冒頭から最後まで素面であったためしはない。完全無敵の飲んだくれである。
主人公は作者と同名のエロフェーエフ。彼は、先ず、方向感覚がおかしい。
『どうせどっちへ行ったって同じことなんだからな。左に行ったって、クルスク駅に出るし、真っ直ぐに行ったってクルクス駅だ、右に行ったって、やっぱりクルクス駅。だから、きっとクルクス駅に行けるように、右に行くんだ。(P9)』
そして、天使と会話ができる。
『「よう、天使たちよ」おれも、小さい小さい声で話しかけた。
「なあに?」天使たちは、応えた。
「おれは、いま辛くって……」
「辛いのは、分かっているわ」天使たちは、歌うように言った(P10)』
だが、かなり知的だし、文学にも精通している。そして何より最高のカクテル「雌犬のはらわた」の作り方も知っている。レシピはこうだ。
『ジグリ・ビール 百グラム
シャンプー<サトコ> 賓客用 三十グラム
フケ止め剤 七十グラム
接着剤BF 十二グラム
エンジン液 三十五グラム
殺虫剤 二十グラム (P94-95)』
実際には、さらに一工夫必要だが、それは実際に本書を読んで確かめてほしい。飲んで体調不良になっても僕は責任とらないけどね。
エロフェーエフ(作者でなく、主人公の方)は、モスクワの生活に嫌気がさし、愛する女性と子供が住むペトゥシキに行くため、モスクワ発の列車に乗る。
列車はまあまあ順調に運行するのだが、その間、エロフェーエフは何をするのかといえば、特に何もしない。他の乗客(もちろん酩酊している)と会話したり、酔いどれ的哲学を表明したり、愛する女性を想ったり、スフィンクスからの問題に頭を悩ませたりとか、まあ、その程度である。
だが、これが面白いのだ。様々なパロディーが散りばめられており、ストーリー全体もキリストの受難をパロディー化している感じもあるが、そんなことは気にせずとも、ただただエロフェーエフの酔どれ談義に酔いしれるだけで十二分に面白い。
本書は1970年に地下出版されてベストセラーになったそうだ。本書解説にもあるように、主人公の言動が全体主義をからかっているからだと言えば、もっともらしいが、実際は純粋に面白いだけだったかもしれない。
残念ながら品切増刷未定なのだが、古書なら手に入る。酒好きは必読、そうでない人もぜひ読んでみてほしい。
今回は勢いだけで書いたのだが、許してほしい。理由は…ヒック、言わないことにしよう。
次回はストルガツキー兄弟の予定なのだ。ヒック。