第1章 第13節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む



स्त्रीशूद्रं नाभिभाषेत् ॥१३॥


striizuudraM naabhibhaaSet  ॥13॥


【女性[1]及びシュードラ(隷属民)[2]とは話すべからず[3]。】







[1]striiとは女性一般を意味する。男性にとって女性とは、肉体の次元で言えば当然、性の対象となるから修行する者にとっては誘惑とならざるを得ない。魂の次元では当然男女は平等であるから誘惑というのは成り立たないが、実際に修行する場合このような肉体的な禁欲も必要である。そこで良い悪いは別にして女性の誘惑に嵌まったグル達をご紹介する。長きにわたる輪廻の観点から言えば、別にこれが彼等の初犯というわけではないし、過去世でも様々な関係を普通に持ってきたわけだから、別に驚くことでもないし、今生でもこうした関係をもったからといって別にそれでどうこうということは実際にはない。それは当人のカルマの問題である。つまりグルやヨーギンと言っても所詮人間であるということである。ハイダーカーン・ババは言っている「あらゆる聖者にも過去があり、あらゆる罪人にも未来がある」










ジッドゥ・クリシュナムールティ




   クリシュナムールティといえば、私が14歳の時に初めて彼の著書を読んで、初めて明晰な知性というものの定義を得た人物であり、私のウパグル(補助的グル)みたいな人である。「真理を真理と見、虚偽を虚偽と見、虚偽の中に真理を見よ」だとか「刻々とした思考なき純粋な気づき」だとか、34歳にして彼が、当時世界規模の新興宗教団体の教祖として祭り上げられた《東方の星教団》解散宣言で言った「真理は、道なき大地であり、それはいかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても近づくことのできないものである」といった言葉が、今でもすらすらでてくる。クリシュナムールティの書物から、自分の日常意識とは別の意識世界があるということを教えられた人は全世界規模で非常に多いと思う。そういう意味では真の世界教師である。しかしながらこのハンサムな甘いマスクのクリシュナムールティも女性問題がなかったわけではない。厳密には彼は僧侶でもなく一私人であり、禁欲を表明しているわけではないからとりわけ他人に責められる謂われはないわけだが、相手がまずかった。長年の友人であり協力者であったラージャゴーパル博士の妻であるイギリス人のロザリンド・ラージャゴーパルと長く不倫関係にあったということが近年暴露されたのである。覚醒していようがいまいが肉体を持っているということは、それ相応の問題も生じるのである。しかしクリシュナムールティはイケメンである。羨ましい限りである。






スワーミー・ラーマ


   高度なヨーガの能力を持ち、アメリカの研究所でそのヨーガの高度な能力を科学者の前で披露し度肝を抜いた実践派のヨーギンである。過去世は本人申告では、古い昔は、キリストの12使徒の筆頭である聖ペテロ、そして前身はインドで若くして亡くなった聖者ラーマティールタである。彼は前身のラーマティールタの時代から甘いマスクのイケメンであるが、アメリカ時代に若い19歳の女性と肉体関係があったことを、これまた暴露されている。ちなみに独身主義というわけではなく、それ以前にも本人申告で結婚していたことが知られている。彼の自伝は、本人申告の「若い頃の私は愚かで馬鹿げたことをたくさんした」という内容通り、様々な悪さやサマーディに浸る聖者を揺さぶり起こそうとして蹴りを入れられたり、精神的なDQNの私が19歳の時に、インドのホワイトフィールドでガンくれたことのあるサティヤ・サイババを試しに行ったりなど色々、馬鹿げたことや面白エピソードそしてその反省に満ちている。私はスワーミー・ラーマには親近感が湧くのだが、彼は、あらゆる人間的な過ちを沢山しながらそれでも彼のグルであるベンガリ・ババの恩寵の下で、様々に悪戦苦闘しながら純心を失わなかった非常に人間的な聖者であったに違いない、女性関係もそうしたやんちゃなヨーギンの延長線上の話しであろうと思っていたのだが、アメリカの隠し子のサイトなどを見ると今や段々雲行きが怪しくなってきた、インド的な人格障害者かも知れないし、ただのタントラスケベ親父かも知れない。しかしヨーガの知識はきちんとあるから困ったものである。
   話は変わるが、スワーミー・ラーマが言うには、彼の師匠のベンガリ・ババと私のグルのハイダーカーン・ババは兄弟弟子であったということである。ベンガリ・ババの師匠の名前はスワーミー・ラーマからは直接明かさていない。しかし私のグルのハイダーカーン・ババは、自分のグルの名前は、バイラバ・ババであると明かしているので、恐らく彼のグルのグルの名はバイラバ・ババであろう。
   スワーミー・ラーマを直接評した言葉ではないが、偉大な聖者ニーム・カロリ・ババの言葉が、スワーミー・ラーマにもあてはまるので、その言葉で締めくくろう「彼はとても高い存在だったが、マーヤーも非常に深かった」



(スワーミー・ラーマの前身であるラーマ・ティールタ)








スワーミー・サッチダーナンダ



   スワーミー・シヴァーナンダの弟子。『ヨーガ・スートラ』の素晴らしい解説書の著者。1969年のアメリカ、ウッドストック音楽祭に於いて開会のスピーチをヒッピー集団の前で行ったり、アメリカで活躍したヨーギン。彼もアメリカ時代に複数の女性問題があった。





スワーミー・マヘーシュヴァラーナンダ


   インドのラジャスターンに生まれたサンニャーシン。グルの系譜は①アラク・プリージ、②デーヴァ・プリージ、③マハープラブジ、④スワーミー・マーダヴァーナンダと継承して彼に至る。ヨーガ・イン・デイリーライフという組織名称で活躍している。彼にも女性問題が複数あるとの報告あり。彼のYouTubeの動画の幾つかは私のお気に入りである。






ヨーギー・ラマイア


    ラヒリ・マハサヤの言うマハーアヴァター・ババジの弟子と称する。『ババジと18人のシッダ』の著書であるアメリカ人のM・ゴーヴィンダン・サッチダナンダはその弟子。彼はこの弟子のアメリカ人M・ゴーヴィンダン・サッチダナンダとそのガールフレンドであったシェールという女性の間でゴチャゴチャしている。結論から言うと、弟子とそのガールフレンドとを別れさせ、そのシェールという女性との間に子供まで作り、その後、シェールという女性はヨーギー・ラマイアについていけずに程なく別れで出て行ったとのこと(それ以前にヨーギー・ラマイアには別のアメリカ人のアッヴァイというパートナーがいたことも言及されている)。傍目から見れば、別の女性とパートナーとしての肉体関係があり、その上で弟子の彼女を奪って子供まで設けてポイ捨てみたいなものだから、乱倫であり、これでマハーアヴァターババジの弟子ならマハーアヴァターババジとは何者かと問わざるを得ない。




 このように様々なグルと呼ばれる人々が女性問題を起こしている。これはまずある程度覚醒したりヨーガをマスターしてもそれで性欲が完全に消滅するということはないから起きるわけである。食欲・性欲・睡眠欲は肉体が存する限り完全に無くなることはほとんどない。性欲を完全に制御するというのは、食欲と睡眠欲を完全に制御するのと同じ程困難である。つまり何も食べず眠る必要もないという状態を常時維持できる超絶のヨーガ能力がない限り、理論的に性欲を完全に制御するのは不可能なのである。では何故古来より性欲の制御が言われるのか、食欲と睡眠欲の制御に比べれば性欲の制御は一番簡単だからである。しかしサーダナ(集中的な行)中ならともかく、普通の一般人に近い生活であれば、どれ程以前に修行していても、常人に近い欲望の質量状態に戻るのは必定であるから、覚醒していると言われていても、生活の状況次第では食欲・性欲・睡眠欲は常人と変わらない状態になる。一般人はグルに自分の理想を見るから当然、グルの女性問題はそのグルの資質を問われる問題として大問題になるが、彼らも人間だから当然異性に欲情するわけである。また今はグルだが、過去世から見れば今のグルも昔はただの悪党である場合が多いので、過去世のカルマのヴァーサナー(熏習)で色々な問題も生じるわけである。だいたい自分によって来たりする人々はある程度過去世でつながっているわけであるから、今、目の前にいる若い信者の女性に昔の自分の恋人だとか結婚相手だとかを見てしまえば 、どんな聖者も心が乱れるわけである。そこから女性問題が生じるという可能性もある。
   またグルにはグルの危険がある。グルになるということは、弟子のカルマの一端を担うということである(信者獲得に奔走するようなグルはその危険がわかっていないのであるが)。ラーマクリシュナの弟子達は、誰かが自分にディークシャー(マントラ伝授)をしてくれと言われるば逃げ回ったと言われる。何故ならディークシャーを授けると頭が痛くなったり不調になるからである。これは当然ラーマクリシュナの弟子は本物だから起きるのである。つまり弟子のカルマを背負ってしまえば、それが身体に移って酷い目に会うのである。弟子を取るというのは、弟子の過去世の莫大な額にのぼる、本人も気づかない借金の如き膨大なカルマの何割かを肩代わりするということである。自分の過去世のカルマをある程度認識し、意図して解消した経験のある方なら分かると思うが、自分のカルマを解消するのも泣きたくなるような地道で大変な苦行が必要である。他人のカルマを背負うというのは、それだけ自分に必要のないサーダナをしてカルマを解消する必要性が出てくるということになるわけだから、弟子への愛がなければ本来出来ないことである。弟子はグルに全てを捧げなくてはならないと言われるが、本当のグルは実は弟子の為に百度死んで火に飛び込むぐらいの困難を背負い、人々に言われなき罵倒や非難を浴びても弟子のあらゆる泥を被り、弟子のカルマを背負うというということも意味しているのである。 だからこそグルは絶対なのである。そういうことをしないグルはグルでもなんでもない、ただの騙りであり威張りたいだけの詐欺師である。このことを理解できれば、多くの弟子を取っているグルはその分だけ弟子のマーヤーが降り懸かっているのだから、グルもぼんやりしているとだいぶマーヤーに巻き込まれて堕落すること必至であることが分かる。きちんと以前に修行しているグルに女性問題が起きるのはこういうことも考慮に入れる必要がある。麻原彰晃が堕落したのは本人の低い道徳上の資質もあろうがこういう霊的法則による部分も大きい。弟子を取れば取るほど本人のエゴは拡大する、それは弟子のエゴが自動的に移譲されるからなのである。百人の弟子を取るなら百人分のカルマを自分の身一つで解消するだけの超絶の浄化法をマスターしていなければ、それだけで自分が沈没するのである。ということで他人のカルマを背負えない師匠は霊的なグルでは全くないしお話にもならないが、他人のカルマを自己の身体で解消できないグルはいくら弟子を取ってもやがて沈没するのがその理なのである。


 このようなわけだが、やはりいつの時代も単純な真理として女性は、権力者や権威的な人物に弱く、男性は若く美しい女性に弱いので問題が生じるのである。大変困ったことである。このようなマーヤーに絶対に巻き込まれる心配がなさそうなのは、あちらの世界に意識がほぼ八割がた行っている超絶のヨーギンぐらいなものであろう。つまりニーム・カロリ・ババだとか、ハイダーカーン・ババだとか、ラーマクリシュナだとか、ラマナ・マハルシといった人々である。



(ニーム・カロリ・ババ)

(ハイダーカーン・ババ)

(ラーマクリシュナ)

(ラマナ・マハルシ)





[2]zuudraは、インドのヴァルナ(四姓)体制の第四位である隷民を意味する。ブラフマン(祭司階級)・クシャトリヤ(戦士階級)・ヴァイシャ(商人階級)・シュードラ(隷属民)のヴァルナ体制と職業の世襲制を伴う細分化された社会集団のジャーティとが相俟って形骸化したインドの悪名高きカースト制度を形作る。そもそもカースト制度の原義は、人間の精神の発達段階を表すものである。人間の目的は、カーマ(欲望)・アルタ(利益)・ダルマ(正義や法)・モークシャ(解脱)の四つであるとインドでは考えられている。シュードラは、動物的なあるいは肉体的な快感としてのカーマに主要な関心があり肉体労働に長じている。ヴァイシャは、欲望と利益に主要な関心があり、商売などに長じている。クシャトリヤは、利益と正義に関心があり、戦争に長じている。ブラフマンは、正義と解脱に関心があり、祭式や儀式、学問に長じている。そして聖者は解脱のみに関心がある。このようにして自分の人生の主要な関心事が何かというのを自己反省すれば、自分のだいたいの精神的カーストと魂の発達度が測れるし、それを他者に適用すればその人の精神的カーストも分かるというわけである。これは差別することが本来目的ではなく、適所適材でその人その人の最も適した人生を全うさせる為のものである。シュードラ的な人にブラフマンの関心事を押し付けてもそれは拷問に過ぎないし、侵略戦争をさせようとしてもそれも役には立たないというわけである。しかしながらこのように理解された理想的なカーストの理念も世襲制にしてしまえば、混乱が起きる。輪廻し、魂によって選ばれた家族がどこまでその当人の魂の段階に合致しているかとなれば誤差や偏差も当然でてくる。ここからカーストの混乱が起きるわけである。世襲的な身分制度としてのカースト制度において、インドでは理念をそのまま現実的なものに直接適用した結果、弊害が様々にでたわけである。
 ここで別の見方からカースト制度を歴史に適用すると面白い図式的解釈が可能になるのであげておく。大雑把にカースト制度の理念をもとに歴史を捉えると、初めに権力はブラフマンにあったということが分かる。しかしブラフマンが堕落することによって、クシャトリヤが長く権力を握る時代が次にきた。我々の知る歴史はほとんどクシャトリヤの権力闘争の歴史である。しかし時代も下るとフランス革命あたりから資本主義の時代となり、ヴァイシャが権力を握る時代となる。そして今日のマスメディアの発達した超資本主義社会は、シュードラが権力を握る時代になりつつあるのが分かる。スポーツ選手やハリウッドスターや歌手など、いわゆる現今の社会で絶頂を迎えている集団は、総じてブラフマンやクシャトリヤやヴァイシャの価値観に当てはまらない、古い時代のシュードラ的職業に当て嵌まる人々である。このような権力の移り変わりは、持ち回り分担だから今さら文句をつける筋合いはない。ブラフマンやクシャトリヤ階級の人間は過去世でうまい汁を吸い過ぎたのである。今は儀式の時代でも戦争の時代でもなく、資本と娯楽の時代であり、シュードラ的人々や女性の活躍する時代である。これは時の趨勢である。

[3]abhibhaaSは、話すという動詞である。その否定辞na+願望法で禁止を表す。話してはならないという意味である。




 獣主派ではこのように女性やシュードラと話すことを禁止しているのは、前回の流れで言えば当然、性交を伴うような左道タントラによる覚醒の道への牽制とも理解できる。性的なエネルギーの流露を禁止して禁欲によるエネルギーを蓄えるという目的が女性との会話の禁止の背景である。シュードラとの会話の禁止は当然ながら、シュードラのカーマ主体の意識との同調を防ぐという意味である。シュードラ的な意識の集団に取り囲まれれば、それだけで人は意識レベルが彼等に同調して低下するからそれを防ぐのである。これは差別意識や古代の身分制度的な倫理的観点ではなく、実際的な浄化理論に基づく観点である。とは言え全身灰まみれで、花環を飾り、笑って歌って踊ってドゥンドゥン言ってお辞儀したり謎の呪文を唱えて、褌一丁で糞尿を注視しない明らかな不審者である危険人物が女性に話かけて、はたして相手をしてもらえるかという根本的な疑問がないわけではないが。







マーヤーはたいへんな詐欺女だと、私は分かった。
三グナの索を手に持って走り回り、甘美な言葉を話す。
ケーシャヴァ(ヴィシュヌ神)のカマラー(蓮華女)となって坐し、
シヴァの館でバヴァーニー〔となって坐す〕。
祈祷僧の神像となって坐し、聖地で水〔となって坐す〕。
ヨーガ行者の女ヨーガ行者となって坐し、王様の家で王妃〔となって坐す〕。
ある者の黄金となって坐し、ある者の鐚銭〔となって坐す〕。
バクト(帰依者)の女バクトとなって坐し、
ブラーフマンの女ブラーフマン〔となって坐す〕。
カビールは言う、これは全て語られざる物語だ。









お偉い人は自分の偉さに溺れた、身体中で驕り高ぶって。
正師を覚知しなければ、四ヴァルナはチャマール(不可触民)である。







カビール『ビージャク』(橋本泰元訳)



カビール『マーヤーはたいへんな詐欺女だと、私は分かった』