वामदेवाय नमो ज्येष्ठाय नमश्श्रेष्ठाय नमो रुद्रायनमः कालाय नमः कलविकरणाय नमो
बलविकरणाय नमो बलाय नमो बलप्रमथनाय नमस्सर्वभूतदमनाय नमो मनोन्मनाय नमः ॥


vaamadevaaya namo jyeSThaaya namazzreSThaaya namo rudraaya namaH kaalaaya namaH kalavikaraNaaya namo
balavikaraNaaya namo balaaya namo balapramathanaaya namassarvabhuutadamanaaya namo manonmanaaya namaH ॥


ヴァーマデーヴァ(美しき神)に敬礼、ジェーシュタ(最も素晴らしき方)に敬礼、シュレーシュタ(最上なる方)に敬礼、ルドラ(咆哮する者)に敬礼、カーラ(時間である方)に敬礼、カラヴィカラナ(弱さを変化させる方)に敬礼、バラヴィカラナ(強さを変化させる方)に敬礼、バラ(力ある方)に敬礼、バラプラマタナ(力ある者を破壊する方)に敬礼、サルヴァブータダマナ(全ての生類を屈服させる方)に敬礼、マノーンマナ(心を奮い立たせる方)に敬礼。

Teachings of Babaji


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अतिदत्तम् अतीष्टम ॥१५॥



atidattam atiiSTam ॥15॥



【甚だしき布施[1]・甚だしき儀式[2]・】




[1]atidattamは、atiが程度の甚だしい・激しい意味で、英語で言えばveryの意である。dattamは、datta(布施)の中性・主格である。甚だしき布施という意味である。苦行としての、あらゆるものに惜しみなく全てを与えるところの、無私なる布施の行為を指す。

[2]atiiSTamは、iSTaが儀式を表す。第2第10節の『マヌ法典』から引用していたgraama iSTaapuurte dattam、「村落での盛大なる儀式は、布施である」という言葉のiSTa(儀式)とdatta(布施)がここでは並列されているのである。

 iSTa(儀礼)は、楽観的な婆羅門教においては、神々への奉献であり、人をしてその功徳により現世での繁栄と天界へと導く方法とされている。datta(布施)もまた、神々や人々などあらゆる者たちへ惜しみなくあらゆることどもを与えることによって、善因を作り、善果を得る方法である。その程度が激しいのであるから、その二つの善因の形成は甚だしいことになる。しかしブラフマン達はやがて気づくことになるのだが、かかる善因によりどれほど高位の天界に生まれようとも、そこでは「天人五衰」のような衰弱と共に、ブラフマー神も含めた全ての存在に「再死(punarmuRtyu)」の可能性が降りかかるという問題があるということである。ここからブラフマー神から草木に至る輪廻からの解脱(mokSa)の必要性が認識されたのである。『チベット死者の書』を含む仏教において、天界に生まれることさえ諌められるのは、このような認識に基づく。


 前回、<チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)>において導師は、何度も死者にお導きをしてきたわけだが、瞑想の習慣のない人や罪の深い人は、大半が<チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)>で覚りを開き報身を得るなど所詮無理ゲーなので、保険の意味を込めて、<チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿のバルドゥ)>の四日目からは以下の内容を死者に教え諭すこととされる。


ああ、善い人よ、汝はよく聴いて心に留めるべきである。地獄のものたちや天人たちや、および汝のようにバルドゥで身体を得たものたちは、化け物のように忽然と生まれるもの(化生)なのである。汝は<チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)>において寂静尊と忿怒尊の幻影が現われた時に、これが自分自身の現われにほかならないことを覚ることができずに四日間と半分を経過した。
……タントラによれば、《バルドゥにおける身体は、輪廻の輪の中の生前の生涯、またはこれから後に受ける生涯における肉や色彩を持った身体と似た姿をしている。……この身体はカルマン(業)の影響による超能力(神通力)をそなえていて、類を等しくするものの、天人なら天人同士の、清らかなる透視眼(天眼)によってのみ見られることができる》……汝の意識が身体の形をとった現われであるから、これは<バルドゥにおける現われとしての意識身>と呼ばれる。この時に汝が天人として生まれることになっているならば、天人の世界の幻影が現われるであろう。アスラ(阿修羅)・人・動物(畜生)・餓鬼・地獄の中のどれかとして汝が生まれることになっているならば、まさにアスラならアスラの世界の幻影が汝に現われるであろう。……現在においてどのような幻影が現われても、その幻影の後に追従してはならない。それに執着してはならない。それを求めてはならない。汝が執着して求めるならば、汝は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六道の境涯を彷徨って苦しみを味わうであろう。……かつて師僧によってお導きを受けたことを想い出すがよい。空であり、純粋無垢であり、生のままですべてを見とおすような光明の内に汝の意識を置くがよい。そしてそのままにして、意識を働かせることなく、なにもすることのない状態にして、のんびりとくつろがせるべきである。そうすれば、汝は再生のための胎の入口に踏み入らないで、解脱することができであろう。汝自身でこのように覚ることができない場合には、守り本尊(イダム)または汝の師僧(ラマ)のことを汝の頭の頂上に想ってこれに念ずるべきである。これを激しく崇拝し、願い求めるべきである。それが極めて重要なことである。極めて重要なことである。決して、心を惑わされてはならない(P105-108)


 上記のタントラの引用にあるように、バルドゥにいる者にはある種の超能力が与えられる。例えば、自分と同類のものを見る能力などである。ここからなぜ我々が 『遠野物語』にも描かれているような臨死体験(私の母親も体験したことのある)で、自分の死んだ親兄弟などに会うのかもある程度説明できるようになる。


 バルドゥに生まれたものは、類を同じくするもの同士だけがお互いに見えるのである。天人として生まれたものは、類を同じくする者、すなはち天人によってのみ見られることがあるのである。同様に六道のうちのどの境涯に生まれようとも、類をおなじくする者同士だけでお互いに見えるのである。この力を得ようと求めてはならない。ただひたすらに大慈悲尊を心に念ずるべきである。(P111)


 一般的に我々は、死後、自分の波動と同調する場所や世界しか見えなくなる。それとは対照的にこの人間世界は自分と全く異なった波動の人や世界とも、いい意味でも悪い意味でも出会うことができる。それが一般的には人間世界の六道における優位性とされる。低次元の人間さえ望めば、恐るべき高次元の存在の足元に身を投げ出すことができるのである。<シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)〉の説明に戻ろう。


ああ、善い人よ、汝は吹きすさぶカルマン(業)の風に追い立てられている。汝の意識は自分で立ち止まることができず、頼るものを持つこともできない。風の馬に乗せられて、鳥の羽が風に運ばれるように、あちこちとさだめなくさすらうであろう。泣いている縁者の者たちに、《私はここにいるよ。泣くのではない》と呼びかけても、その声に彼らは気づかない。そこで汝は《私は死んでしまったのだ》と考える。大変な苦悩が、今、汝に生じることになるであろう。しかし、そのような苦悩に身を苦しめてはならない。夜でも昼でもなく、秋の夕暮れ時の灰色の明かりにも似た灰色のもやが、ずっと引き続いて現われるであろう。このようなバルドゥに一週間、あるいは二週間、あるいは三週間、あるいは四週間、あるいは五週間、あるいは六週間、あるいは七週間と、四十九日に至るまで、汝は留まることになるであろう。<シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの中有)>においての苦しみは、二十一日間続くのは一番多いと言われる。(P113)


   

ああ、善い人よ、まさにこの時に、大変に恐ろしくて堪えることができないほどの、すさまじい激しいカルマンの大疾風が汝を背後から駆り立てるであろう。これを恐れてはならない。これは汝自身の錯乱によって現われたものなのである。大変に恐ろしくてとても堪えることができないほどの巨大な暗闇が汝の目の前に立ちはだかり、《打ちのめせ》とか《殺してしまえ》という、非常に恐ろしい叫び声が聞こえてくるであろう。汝はこれらを恐れてはならない。また罪深い他の人たちは次のような光景を見るであろう。カルマン(業)によって作り出された多数の肉を食らう鬼(羅刹)たちが、《殺せ、殺してしまえ》、《打ちのめせ、打ちのめせ》等々の叫び声を発し、とりどりの武器を手にしてガチャガチャと音を立てながら現われてくる。さまざまの見るのも恐ろしい猛獣に追いかけられる幻想もまた現われるであろう。雪・雨・吹雪・暗闇・大軍勢によって追いまわされる幻想もまた現われるであろう。

Couldn't Stand the Weather


   山が砕ける音や、湖の水があふれだす音、火が燃え広がる音、大嵐の吹きすさぶ音が生じるであろう。これらにおじけづいてどこか逃げ込もうとするならば、自身の目の前に深くて危険な、そこに落ち込めば粉々に砕けるような白・赤・黒の三つの深淵が、口を開けて汝をへだてるであろう。



ああ、善い人よ、これも本当は深淵ではないのである。汝の持っているいかり(瞋恚)とむさぼり(貪欲)とおろかさ(無知)の三つの欠点なのである。この時に《これは<シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)>なのだ》と覚るべきである。(P114)


 上記の場合は、悪人の場合だが、善人は以下のようになる。

また仏になる準備(資糧)を積み、善いことを行ない、仏の教えを真面目に実践してきた人たちもいる。彼らは楽しい経験を色々に味わって、完全な喜びをいろいろと享受するであろう。(P115)


 また善人でも悪人でもない人は以下のような経験を得る。

 善いことや罪なこととのどちらを行うでもないような、愚かで鈍感な人々には、楽しみと苦しみのどちらも味わうでもないような、ただ愚かで鈍感な状態が現われるであろう。


 しかしこの悪人・善人・そのどちらでもない無関心な人の三つの状態のどれが現出しようとも、それは自己の投影でしかないので全くの幻想である。

ああ、善い人よ、このように何が生じようとも、どんなに望ましい利益や喜びが生じようとも、これに執着してはならない。これを求めてはならない。師僧(ラマ)と三宝(仏・法・僧)にこれらを捧げて供養すべきである。平らな無私の気持ちになって欲求や執着を捨てるべきである。喜びや苦しみの思いをあらわにさせないで、平坦で偏らない気持ちを持つように努めるべきである。マハームドラ(大印契)という、無念無想の惑わされることのない状態に、汝の意識を置かなくてはならない。これが極めて重要である。……ああ、善い人よ、今この時において、汝は端や礼拝堂や僧院や草庵や仏塔などにしばらくの時間は立ち寄ることができるが、長い間に渡って居続けることはできない。……《ああ、私は死んでしまっているのだ。私はどうしたらよいのであろう》と、このように悲しく思っている時に心臓は冷たく、うつろになる。計り知れないほど激しい苦悩に襲われる。……お供えされたもの以外には食物も満足に食べることができないような時期が、汝に訪れるであろう。この時には友達も頼りにできない。これが<シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)において、汝の意識からできている身体が彷徨っている時の特徴である。


 続いて死者は、肉体を求めてさ迷うことが説明される。

《今、もう一つ別の身体を持ったところで何の不都合があるだろうか》と考えて、あらゆるところに身体を求めて行こうとする願いが汝に生じるであろう。(P117)

汝が身体を探し求めても、苦しむだけなのである。新しい身体を求める気持ちを断つべきである。(P117)


 続いて御定まりのヤマ(閻魔)王の審判を死者は受けることになる。



汝と一緒に生まれた善神によって汝が生前に行った善い行いの数々がすべて集められ、白い小石で数えあげられるであろう。汝と一緒に生まれたピシャーチャ鬼によって汝が生前に行った悪い行いの数々がすべて集められ、黒い小石で数え上げられるであろう。この時に、汝が非常に驚き、恐れおののき震えて、《私は悪いことはしていません》と、嘘をついたとする。それに対してヤマ王は《ではお前のカルマンを映写する鏡(業鏡)を見てみよう》と言って鏡を見る。汝の生前に行った善い行いと悪い行いのすべてが鏡の面に輝いて映し出されるので、汝が嘘をついても無駄である。ヤマ王は汝の首に縄索をつけて、汝を引きずり出し、首を切り、心臓を食らい、はらわたを引き出し、脳みそをなめ、血をすすり、肉を食べ、骨をしゃぶる。汝はそれでも死ぬことができない。身体が切れ切れに切り刻まれても、また蘇生してしまう。(P118-119)




 このような恐ろしいことを詳細に語った後で冷静沈着な導師は、元も子もないようなちゃぶ台返しを行う。


なにも恐れることはない。ヤマ王たちは汝の思いが化して現われでたものである。空なるものの姿にほかならない。汝の身体は、潜在意識が形をとったものである。空なる意識からできた身体にほかならない。空なるものが空なるものを傷つけることはできない。……汝自身の錯乱によって現われ幻影以外に、ヤマ王や善神やピシャーチャ鬼や午頭の鬼(羅刹)等が実際に存在するのではないことを覚るべきである。この時に現われるすべてはバルドゥであるのだと覚るべきである。……汝自身の恐怖とおののきを生み出しているものの本体をじっと凝視するがよい。いかなる性質のものということのできない、空なるものが見えるであろう。これがダルマ・カーヤ(法身)というものである。この空なるものは、また、単にのっぺりとしたものではないのである。《空なるものの本質は恐ろしい》と考える意識は、正確で鋭敏なものと言わなければならない。これこそサムボーガ・カーヤ(報身)の意識状態なのである。空性と明晰性の二つが組み合わせさって離れない。空なるものの本質は明晰であり、明晰なるものの本質は空なるものである。明晰であり空であることが不可分となっている意識は、赤裸々で生のままにむきだしの状態のものである。あるがまま、自然のままで無造作の状態そのものである。これこそ本質を構成するスヴァバーヴァ・カーヤ(自性)にほかならない。そしてまた、この自性自体の働きは、他に妨害されることがなくて、何にでも現われることができる。それが慈悲を本質とするニルマーナ・カーヤ(化身)なのである。(P119-120)



 次に自分の葬式を見ることが語られる。


汝が死んだ後の家では親戚の者たちが死者のために法要を行って、たくさんの生き物を犠牲に捧げている。それを見て汝は汚された思いがして、激しい怒りが汝に生じるであろう。これに心を任せると汝は地獄に生まれ変わるであろう。汝が死んだ後の家でどのようなことが行われていても、汝は怒りを生じてはならない。家人や親戚の者たちに慈しみの思いを持つがよい。また、死んだ後に残した財産に対しての執着心が汝に生じ、また汝の財産を他人が好き勝手に享受しているのを知って、汝がこれらの財産にこだわって、後の事を頼んだ人たちに対して怒りを生ずるかもしれない。しかしこの怒りに心を任せると、天人として生まれ変わるはずの汝も地獄とか餓鬼の世界に生まれることになってしまうであろう。……後に残した財産に対する執着や求める気持ちは捨てて、完全に投げ出すがよい。きっぱりと諦めるべきである。(P122-123)



汝のために葬送の<カンカニー>の儀式〔を〕……執り行う人たちが眠気をもよおしながら、あるいは気を散らしままで行っていることがある。……今の汝にはカルマン(業)の影響でそなわった鋭い超能力(神通力)があるので、このありさまを見ることができるであろう。また、これらの汝のための法要を執り行う人たちの中には、不信心の者や悪い間違った考えの者や……法要を執り行うのに適わしくない者たちがいることがある。このことに汝が気づいて、次のように思うであろう。《あれ、この人は私をだましている。私は確かにあざむかれている》このように考えて、汝は悲しくなり、とても情けなくなる。そして清らかな気持ちと信頼心とを失ってしまう。その結果、汝に悪い間違った考えと神仏を信仰しない考えが生じる。これに心を任せると、汝はかならずや悲惨な境涯(悪趣)に落ちることになるであろう。……次のように考えるべきである。《なんということだ。きっと私自身の気持ちが清らかではないのであろう。……自分の顔を汚れていると鏡の面にも汚れが映し出されるように、私自身の清らかでない気持ちの結果、このようなことが生じたのであろう。……この人たちの心は仏そのものなのだ。この人たちに帰依しよう》とこのように考えて、この人たちに信頼を寄せ、清らかな気持ちをひたすらに彼らに寄せるべきである。……このように清らかな気持ちを保つことが極めて大切である。それを忘れてはならない。



 以上をまとめると、前回の記事の《チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)》においては14日間の間、恐るべき、そして実際には全然恐るべきではない、自己の純なる性質の投影である寂静尊と、激質ないし暗質の投影である忿怒尊の行列の訪問を受けたのであったが、今回の《シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの中有)》では、いささかの自由時間、英語に訳せば「フリータイム」が与えられることになる。

Reggae Morning




   この「中有のフリータイム」に於いては、まず「神通力を持った意識身を得」て、「自分と類を同じくするものが見えるようになる」という。これは等しい波動のものは、一緒にかたまるという群れの原則によるものである。 次に悪人は、その結果「恐ろしい悪夢のような世界」に入り、善人は「楽しい世界」に、そしてそのどちらでもないグレーゾーンの鈍感な鉛色の空のような世界に生きる者たちは、死後も「鉛色のような鈍感さと無関心の世界」に入る。しかし恐ろしかろうと楽しかろうとグレーゾーンであろうと、それを恐れたり執着したりすることが諌められている。それも所詮、幻影に過ぎないわけであるから。またその間、「お供え物として捧げられたものしか食べられないという時期」が続くが、本来、幽体なら食事は不要なのだが、迷えるバルドゥにいるものには、その道理さえ分からない。だから飽くなき食欲を持つ。ちなみにロバート・モンローは、幽体離脱した時に、程度の低い死者達が、性欲を満たそうと巨大な塊になってお互いに絡み合っている醜悪な領域についての描写をしている。しかし食欲も性欲も実際には満たされることがないので、これらも満たされることなき虚しい幻想でしかないわけである。続いて死者は、「必死になって肉体を求めて、再度、肉体に入ろうとする」。ここらが憑霊現象の説明にもなりうるであろうが、興味がないので今回はパス。またこの世界の神社仏閣に参拝したりもしているが、結局、お決まりの「閻魔大王のところに連れていかれて、審判を受ける」ことになる。もしかしたら実際は、審判と見せかけてここでモンローの言う「ルーシュ」を、吸い取られるのかもしれないが、私の仮説に過ぎぬので詳しくは分からない。そして次に「自分の葬式を見る」とも言う。時系列がはちゃめちゃなのだが、これは、この《シパ・バルドゥ》が、時間における次元が一つ高い為に、実際に様々な時系列に自由に行き来できるという可能性も考慮に入れる必要がある(ロバート・モンローの離脱した世界は実際そのような世界として説明されていた)、或は単に『チベット死者の書』の著者の気まぐれ的な羅列によるかのいずれかであろう。



再度、箇条書きにまとめると、

主に二十一日間続く《シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの中有)》は、

①神通力を持った意識身の獲得

②自分と類を同じくするものとの邂逅

③自分の生前の行いに基づく世界の体験

④供えられた物のみ食べられる状態

⑤肉体を求めて必死に肉体を探し回る

⑥神社仏閣への参拝

⑦閻魔大王の審判

⑧自己の葬式を見る

などの迷走した「フリータイム」を得るお時間なのである。






   そして我々は次回、いよいよ振り出しであるところの母胎に入ることを見ていくことになる。

Hear My Train A Comin' 

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