अघोरेभ्योऽथ घोरेभ्यो घोरघरतरेभ्यः ।
सर्वेभ्यस्सर्वशर्वेभ्यो नमस्ते अस्तु रुद्ररूपेभ्यः ॥


aghorebhyo'tha ghorebhyo ghoragoratarebhyaH ।
sarvebhyassarvazarvebhyo namaste astu rudraruupebhyaH ॥


アゴーラ(恐ろしからざる者)達へ、ゴーラ(恐ろしき者)達に、ゴーラゴーラタラ(さらに非常に恐ろしき者)達へ、
サルヴァ(あらゆる者)達へ、あらゆるシャルヴァ(矢で殺す者)達に、汝がルドラルーパ(ルドラの相)の数々に頂礼あれ。



Haidakhan Babaji Tribute







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क्रातेत वा ॥१२॥


kraatheta vaa ॥12॥
 
 
【或は[1]〔狸寝入りして〕いびきをかくべきである[2]、】
 
 
[1]vaaは、「或は」という意味の接続詞である。英語でいえば「or」である。
[2]kraathetaは、動詞krathの反射態、願望法の三人称単数である。能動態ならば辞書に「殺す、傷つける」という意味で記載があるが、反射態では辞書に記載がないので、筆者には何とも言えない。カウンディニヤの注釈書や『ガナ・カーリカ』ではすべて「狸寝入り」という意味にとる。動詞kradh(krandh)が「騒音を立てる」という意味なので、本来は「kraadeta」なのかもしれない。
 いよいよ遊行期の獣主派における軽蔑探求の行の詳細が語られることになる。第一は「いびきをかいて狸寝入りすること」である。他者に軽蔑されるにしても悪行を行って、軽蔑に値した状態で軽蔑されてはダメである。他人に危害を加えたり、負のカルマを作るような行為に基づき軽蔑されるのは、自業自得であってなんら軽蔑探求行ではない。いつも寝てばかりいてそれで怠け者と軽蔑されるなら自業自得だが、寝たふりをして軽蔑されるならこれは立派な軽蔑探求行であり隠匿の行である。「寝ていない自慢」「食べていない自慢」「忙しい自慢」は、幼稚な構ってちゃんの中二病患者がよくするものであるが、ググってみるとネットでの結論は、これは自己管理ができていないということに尽きるらしい。よって寝ていない者は、常に寝ているふりをすべきであり、食べていない者は常に食べているふりをしなければならず、忙しい者は常にヒマをアピールをしなくてはならないのである。このように常に寝てばかりいて食べてばかりいて暇をもてあましている人畜無害な軽輩的存在と他人に思わせておいて、軽蔑されるというのが最良の隠匿の行なわけである。ちなみに筆者は、残念なことだが、この三ヶ月ぐらい一睡もしていないし、この半年何も食べていないし、この三年ぐらい分刻みのスケジュールで毎日過ごしているという多忙を極めた生活の夢を昨日も一昨日も見ませんでした、残念!


 我々はいよいよ次回から中国の内丹書である『黄庭経』を見ていくことになろう。思い出して欲しいのだが、我々が第3章で目標としていたのは、インド=チベット密教の精華である「ナーローの六法」の理解であった。そして「ナーローの六法」の理解に不可欠とは言えぬにせよ、その理解を補足するものとして是非とも中国道教の内丹の行は理解しておきたいところである。また「ナーローの六法」も「中華的内丹」の理解もクンダリニー概念の理解には是非とも必要な事柄である。今回はその予備段階として大雑把にクンダリニー的な行法とその周辺現象について見ていきたいと思う。

 一般的にクンダリニーとは、尾てい骨の基底に眠るエネルギーと言われ、そのエネルギーが背骨に位置するスシュムナー気道を上昇することにより、気道の途中のチャクラを活性化させつつ人をして覚醒に至らせるものと言われている。ソーンバーリー・ババは、「我々のうちでクンダリニー・シャクティの形を取った火の神聖な本性の直接体験の獲得は、真我実現である」と述べた。


    ニーム・カロリ・ババは、「神を思えばクンダリニーは真っすぐに昇る」と述べている。しかしクンダリニーの覚醒には危険が伴うと言われ、クンダリニーは生命の源であると同時に生命を破壊し、病を生むものでもある。ある種の精神病はこうしたクンダリニー・シャクティの暴走であるとも言えよう。金縛りにあった時や半覚醒の時に、声を聞いたり幻覚を見たりするのは一般の人にもよくある経験であるが、このような領域の扉が開きっぱなしになり覚醒時でも声が聞こえたり、幻を見るようになればその人は狂気の渦に巻き込まれていると言えるのである。逆に言えば狂人とは、我々が入眠ないし出眠時の半覚醒で体験していることを常時体験している人達のことなのである。インドではグルと神の恩寵だけが、かかる狂気の淵に接したクンダリニー覚醒の困難を乗り越えさせ、真っ直ぐにその道を進ませることを可能にすると言われている。それじゃそんな危険なところに別に進まなければいいじゃないかという意見は無駄である。なぜなら我々の集合的無意識はやはり前進しているのであるからして、そこに全般的な進化圧が避けようもなくかかっているのである。つまり誰もが遅かれ早かれ進化の大きな流れに乗って結局はそこに行き着くのであり、その危険に出会わざるを得ないのである。そういうわけだからリスクマネージメント的観点からも想定外でしたという間抜けな発言をして、発狂したり自殺したりしないように今のうちから研究して備えておくのである。

    それではまず日本人のダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』からクンダリニー・ヨーガの基本形を見ていくことにしたい。
 ダンテス・ダイジは1950年に生まれ、若い頃から自殺願望があり、何度も自殺未遂をしたが死に切れず、一念発起して曹洞宗の只管打座で大悟し、臨済宗の木村虎山より印可を受けたとされる。さらにはインドのパイロット・ババよりクリヤー・ヨーガ系の技法の伝授を受け、その後37歳の頃に、若い時分の悪い癖が出てしまいガス自殺を遂げて遷化したと言われている。私の友人のE先生は以前筆者に「発狂した奴や自殺した人間の意見は、どんなにその内容が素晴らしくても一切認めない」とおっしゃられていたが、かかる信賞必罰的厳格主義のE先生から言えば、ダンテス・ダイジは落第ということになろう。とは言え我々はそれほど厳しい意見に組みせず、ダンテス・ダイジが伝えるところの、あらゆる仕事において完璧無比、勤勉にして賢明なる非の打ち所なきインド政府が公認したシッダマスター、パイロット・ババ御大より教わったクンダリニー技法の一端をここに引用要約しておくにやぶさかではない。


 
【マハー・ムドラー】
 
 
①座って脚を閉じて伸ばし、両手で足の親指を握るいわゆる前屈姿勢を取る。
 
息を吐ききり、意識を尾てい骨に置き、息を吸いながら脊髄のスシュムナー管を通して頭頂部までもっていく。次に吐く息と共にスシュムナーを通して再び尾てい骨まで下ろす×3回。
 
②続いて、足を最大限に上体に引き付けた窮屈な体育座りをして顎を引き、前述と同様の意識の上下運動を三回行う。
 
③両脚を開き左足を曲げてかかとを会陰につけて両手で右足の親指を握り意識の上下運動を三回行う。

④続いてその左足を立てて、片足だけ体育座りの要領で意識の上下運動三回。
 
③④を反対の足でも行う。これがマハー・ムドラーの1セットである。
 
 
【ヨーニ・ムドラー】
 
蓮華座で座り、両肘を水平に張り、両手の親指で耳の穴を塞ぐ、人差し指は額に当て、中指で目を塞ぎ、薬指は小鼻の脇に置き、小指は口の両端に置く、これで顔の感覚器官を閉ざすのである。
 
次に意識の上下運動だが、意識を吸いながら尾てい骨のムーラーダーラ・チャクラからサハスラーラチャクラにスシュムナ管を通じて意識を昇らせ、サハスラーラ・チャクラで適宜クンバカ(呼吸停止)を行う、次に息を吐きながら意識をムーラーダーラ・チャクラに下げる。ここでもクンバカを行う。続いて意識を同様にサハスラーラ・チャクラに昇らせるが、息を吐きつつ意識を下げる時に第2チャクラのスワーディシュターナ・チャクラで停止させる。続いてスワーディシュターナ・チャクラからサハスラーラ・チャクラに入息、出息でサハスラーラ・チャクラから第三のマニプーラ・チャクラで停止させる。入息でマニプーラ・チャクラからサハスラーラ・チャクラ、同様にして次にアナーハタ・チャクラ、次のターンではヴィシュッダ・チャクラ、最後にアージュニャー・チャクラという具合に下部のチャクラとサハスラーラ・チャクラの呼吸を伴う意識のキャッチボールの間隔を狭めていくのである。最後にアージュニャー・チャクラからサハスラーラ・チャクラに到達したら出る息と共に尾てい骨に意識を下ろして尾てい骨のクンダリニーに意識を置きつつ適宜瞑想を続けて終了となる。詳しくは『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』(森北出版)を参照のこと。
 


 これにチャクラごとにマントラ念誦を加えたり、或はこのプラーナーヤーマを伴う意識の上昇と下降のキャッチボールのプロセスを単純化したり複雑化したりすることで様々なバリエーションが生まれることになる。これが一般的にインド系のクンダリニー・ヨーガないしクリヤー・ヨーガの大略である。
 
 
 蛇足だが上掲のダンテス・ダイジの写真はちょっと雰囲気が「あらやだ~、ちょっとアタシ達見た目が若干似てるんじゃない、もしかしてソウルメイトか何かかしら、うふふふふ」といったサザエさん風にうふふふ笑いをしたくなるような、何だか筆者自身の迂闊にぼんやり撮られた時の写真を見ているようで甚だ嫌である。

(よそ行きの時の筆者)



 インドにおけるクンダリニー・ヨーガは呼吸と共にスシュムナー気道を通じてプラーナを昇降させるものであった。これは『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナ神が、アパーナ気をプラーナ気に焼べ、プラーナ気をアパーナ気に焼べると述べたものの発展形である。しかしこうした呼吸を伴うプラーナの昇降はインドだけのものではない。例えば、このブログでも度々登場している西洋儀式魔術の黄金の夜明け団の流れを汲むダイアン・フォーチュン女史の弟子であるW・E・バトラーもその著書『魔法修業』(大沼忠弘訳 平河出版社)でカバラーにおける生命の樹システムをもとに組み立てられた方法論による同系統の技法を述べている。


 最初に弟子は、頭上のケテルに相当する所に純白の輝く球を視覚化することを求められる。これはインドのサハスラーラー・チャクラに相当する箇所である。それに慣れたら弟子は次に足下10センチのマルクトの所に黄緑や濃茶や紺の沸き立つ球を視覚化する。この一方は太陽の霊的なエネルギーを引き下ろす点であり、他方は地球の霊的エネルギーを引き上げる点である。次に息を吐きながら頭上の球の白い光のエネルギーを足元の球に下腹部のイエソドを経由して引き下ろす。そして次に息を吸いながら足元の球から放射されるオレンジ色のエネルギーを頭上の球に昇らせるのである。カバラーにおける生命の樹については第2章第1節参照のこと。



 次に第二の行法として最初のケテルの視覚化をする時に息を吸い、息を吐きながら光の幕が体の全面を足元の球まで降りてくるのをイメージする。次に息を吸いながら背後から光の幕が上がってくるのをイメージする。そして息を吐きながらケテルを意識し、息を吐いて、この行法は一巡したことになる。第三の行法は左側からエネルギーを降ろし右肩ごしに昇らせる方法であり、第四の方法である最後のものは螺旋状に包帯でも巻くようにエネルギーを巡回させるのである。
 



 続いて20世紀最高のヒーラーであるダスカロスことスティリアノス・アテシュリスの予備瞑想を補足として加える。 ダスカロスの娘パナヨッタ・セオトキ・アテシュリス著『光界への門』(須々木光誦訳 エドコム社)参照。
 

 
    まずつま先を意識する。そして意識のエネルギーを膝まであげる。そして膝から太陽神経叢すなわちマニプーラ・チャクラ(鳩尾から臍の辺り)まで意識をあげる。太陽神経叢からスカイブルーの光の球が輝くのをイメージする。次にハート・センターからホワイティッシュ・ローズの光の球が輝くのを意識する。頭部にホワイティッシュ・ゴールドの球をイメージする。そして最後にこれら三つの青・赤・黄色の輝きを包むように身体全体の純白のオーラが輝くのを意識する。
 


 これは意識を上昇させながら特に呼吸は意識しないで下丹田・中丹田・上丹田に色のついた球状をイメージし身体全体に純白のオーラを包むというものである。こうした光体トレーニング法はどちらかというユダヤ=キリスト教を経由したエジプト起源のものであろう。こうしてインド起源のものや中国起源の内丹法などが同一系統の技法のバリエーションとして様々に展開するわけである。

 我々は呼吸を伴いチャクラや球体をイメージしながら身体にエネルギーを巡回させる方法を大雑把に見てきた。そしてこのような技法を用いることでどのようなことが起きるのかを次に見ていこう。
 
 前回筆者の旅行記を載せておいたジュンムー・カシミール州のロザ・バルのあるシュリーナガル近郊で1903年に生まれたゴーピ・クリシュナは、教育はあっても普通の、政府の下級役人として平凡な人生を送るはずの人であった。彼は1920年の終わりに大学の進級試験に失敗し挫折したりもしているが、22歳の時に結婚もし、カシミール政府の下級役人としての生活を送りながら、17歳の時から始めたヨーガの実修を日課で行う、いたって普通のインド人であった。しかし彼が34歳になった時に突然破局的な「それ」は起こった。 
 


 
私は頭頂に心を向け、輝く開敷蓮華を観想した。……注意力を一個の光る蓮華につなぎとめる。……瞑想していた蓮の花に、いつしか私の全存在はすっかり呑みこまれてしまい、しばらくの間、私は自分の身体と周囲の物事にたいする感触をなくしていた(P5 『クンダリニー』中島巌訳 平河出版社) 


    複雑な技法などやっていたわけではない、つまりなんのことはないW・E・バトラーの最初の頭上のケテルを瞑想する技法と同じことをしていたに過ぎない。
 
 
深く深く定に沈む。突然、尾てい骨の先端、結跏趺座している身体が下に敷いた毛布にふれるところで奇妙な感覚が走った。(P6)
 


 
すると突然、滝が落ちてくるような轟音とともに、一条の光の流れが脊髄を伝わって脳天にまで達するのを感じた。(P7)
 

私は一点の意識となり、広々とした光の海の中にひたっていた。視界がますます拡がっていく一方、通常、意識の知覚対象である肉体が遠くにどんどんひきさがっていって、ついに全くそれが消え去ってしまった。私は今や意識だけの存在になった。(P7)
 
 
 この描写は例えばヴィヴェーカーナンダがラーマクリシュナの一触れで世界が全て消え去っていった時の経験やLSDを飲んだ時のラムダスやティモシー・リアリーが報告している経験と同一のものである。第2章第19節及び第2章第20節参照
 
 かくて平凡な下級役人のゴーピ・クリシュナは、聖者と麻薬中毒者のみが見る世界の実相に触れたのであった。かくてゴーピ・クリシュナは聖者となった、めでたしめでたしとならないところがゴーピ・クリシュナの『クンダリニー』という書物の真価である。彼はこの経験から戻った時には生命力は流れ出て、もはや別人のようになり果てていた。瞑想する気力もなく、眠ろうとすると頭の中にはまばゆい光が輝きわたって不眠症となり、そしてクンダリニーの恐ろしい迫力に彼は恐怖に駆られるようになる。光明感覚は鮮明で、聞こえる音も不気味に大音量である。これは言わば24時間常にLSDを飲んでいるような状態である。ラムダスはLSDのハイの状態から必ず戻ってしまうことに失望していたが、ゴーピ・クリシュナは常に何も飲んでいないのにLSD的なハイの状態から戻れないことに絶望していたのである。もはや彼はオレンジとミルクを少しだけ飲める以外、食物を受け付けない体になってしまっていた。彼の妻は自分の夫の本当の状態を知らなかったが、奇妙な行動や食欲不振、身体異常に、瞑想状態に入らないように気を付けて絶えず歩き回っていること、その不安げで陰気な顔つきに何かを察し、心配で絶えず夫を見張るようになった。そしてこうした異常行動の果てに衰弱したゴーピ・クリシュナであったが、天啓のようなヨーガの本の一説を見つける。「行法を修めている間、行者は胃袋を空にしてはならない。三時間おきに軽い食事を取るべきである」、しかしそれでも食欲のわかない彼の身体はやがて強烈な熱を帯び人体発火現象すれすれの段階に達する。その時彼は間一髪で気づく「自分の今の状態は、スシュムナーの右側のピンガラー気道から誤ってエネルギーが上に昇っているのではないか、左側のイダー気道を目覚めさせ中和させるべきである」と。彼は一心不乱にイダー気道にエネルギーが流れるのを最後の力を振り絞って瞑想する。
 

バチンと気道に音がしたかと思うと、銀色の流れが白蛇の這うがごとく脊髄をジグザグ状に動いて昇り、最後に生命エネルギーの光り輝く滝となって脳髄に降りそそいだのである。(P68)
 

   ピンガラー気道から昇るエネルギーの経路をイダー気道の開発によって中和して人体発火現象を免れた彼は、奥さんに牛乳一杯とパンを少々もってくるように頼む。そしてそれから彼は三時間おきにこの少量の食事を死なない為に常に取るようにしたのであった。彼の献身的な奥さんはその後も誠実に彼の面倒を見続ける。



    彼は光明体験はそのままだったが、自分の身体組織に働きかける光の触手に気づく。その触手は彼の身体の不調の部分に常に伸びてきてそれを回復させる働きをするようになった。しかしがっかりだったこともあった。
 
 
ところで、私の思考力は何の変化もみえなかった。私の考えることは以前と全く同じで、何の変哲もなかった。(P89)
 
 
 そして徐々に彼は健康を取り戻し以前の仕事に戻れるようになる。彼は自分の体験をほとんど口外しなかった。しかし彼の眼前に広がる光景はあらゆるものが銀色に輝く別世界となっていた。ここで彼の見ている光景はクリシュナムールティが延々と描写する自然描写の世界である。第1章第40節参照。しかし真摯な反省の人であるゴーピ・クリシュナはここでもやはり自分の本質的な状態に気づく。
 
 
聖なるクンダリニーが点火する恩恵にあずかった者にしては、幾年たっても心霊的発展が少しも認められず、道徳的にも知的な面でも、卓越した高邁な人格の持主になれなかった。(P163)
 


 
    これは見られる世界であるプラクリティ的世界は変わったが、プルシャとそれに付随する見る者は何も変わっていないということの洞察である。宇宙の果てまで霊眼で見えるようになろうとも見る者としての真我は同一なのである。そして彼は恐る恐る「それ」が始まってから6年後にようやく瞑想を再開してみる。その瞑想体験は聖者の体験するものと一緒であった。
 
 
無限定の実在が拡がる果てしない大洋の中に身をひたし、言葉につくせぬ歓喜の光の波に洗われていた。……私は、あらゆる束縛や限界に煩わされることもなく、果てしなく拡がる荘重にして崇高な驚くべき超物質的宇宙と融合していた。(191)
 
 
 しかしゴーピ・クリシュナの真骨頂はここで再び恍惚境に入り過ぎて、以前と同じ不眠の恐ろしい衰弱の三ヶ月をリピートすることにある。彼の容態は悪化する一方となり、ついにクンダリニー病でご臨終寸前に至る。妻や子供達に最後の別れの言葉を述べて、さあ、めでたく旅立ちの瞬間という時に再び彼の悪魔的理性が目を覚まし、奥さんにこの危機を打開する方策を伝える。 
 

私はかたわらに妻を呼び、かすかな声で、今日は朝早くから始めて二時間おきに食べ物を出してくれ、そして毎食ミルクに十分煮込んで消化をよくした肉を少々、ミルクの他に盛ってくれと頼んだのである。(P200)
 
 
 かくてお騒がせのゴーピ・クリシュナは一度目の人体発火直前の危機を食事療法で、二度目のご臨終の危機を肉食を含む食事療法で乗り越えたのである。もとはと言えば頼まれもせず頭上に蓮華を瞑想したのが悪いのであるが。
 


 その後の彼は、第二次世界大戦終結後のパキスタンのインドからの分離によるカシミール領有を巡る紛争の渦に巻き込まれながらも、貧窮の中でやがてクンダリニー・シャクティが起こす奇妙な現象に遭遇する。
 
私の近くで、まばゆい光を発する炎が立ち昇るのを感じた。するとそこへ、どこからかはわからないが、私を包みこむようにして、まわり全体に大きな影を落とす、巨大な意識ある存在があらわれた。そこから、カシミール語の美しい二行の詩句が、空中に浮かぶ光の文字になってするすると流れだし[た。](P214)
 
 
 かくて彼は本物のクンダリニー覚醒による霊感詩人になるのだが、その守備範囲はバカバカしいものである。目の前に現れるカシミール語の詩は、2週間語には英語に代わり、それから数日でウルドゥー語に代わる。そして次にパンジャブ語になり、次に読んだこともないペルシア語になり、ドイツ語になり、フランス語、イタリア語それからサンスクリットになり、やがてアラビア語になって現れた。これは彼が集合的知性にアクセスできるようになっていたと考えられる。
 
 
 こうして彼は様々な試練を経てクンダリニー体験についてその意識進化における必然性の認識と共に、クンダリニー覚醒だけでは人格は向上しないという結論に達する。
 

修業者は大試練のあと、どこから見ても正常でなければならない。変身のあとも、すこやかな精神とゆがみなき知性と感性を具え、一方においてか弱い人間的要素と他方における不死なる精神とのへだたりに着目して、時おり超絶の境地にいたり、えもいわれぬ意識の大海と恍惚のうちに合一して、その至福の幸福をあまさずに点検し、賞味せねばならない。(P25)
 

    クンダリニー覚醒は見られる世界を変容させ、真実を開示するが、そしてそれと同じほど重要なのはその見る者を見るということなのであり、それは言うまでもなくラマナ・マハルシの言っていることに他ならない。「あなたが何を体験しようがその体験する者を見るようになさい!」。ゴーピ・クリシュナはこのように様々なひどい目にあっておきながら、このクンダリニー覚醒の方向こそが人間の進むべき道なのだと述べてこの驚異的な真摯さと明晰さを備えた『クンダリニー』という書物を終える。


人間の福祉と幸福は、インドではクンダリニーとして知られているこの進化の装置の未知なる法則に、どれだけ真剣に従うかにかかっている。クンダリニーは、人間の行動したり、愛したり、喜んだりする能力をそのままにして、十分陶冶された意志に従い、正しく発達した良心の指示を守って、目前の目標を十分にわきまえ、正しい情報に通じている知性と協力して、あらゆる人間の光栄ある意識状態に向かってひきつれていくのである。(P260)
 

クンダリニーの覚醒こそ、人類の前にある最大の事業、最高の仕事といえよう。知性はせわしなくあちこち探しまわっているが、人間がこの無意味な物質的宇宙の障壁を乗り越えて進みうる道は、この方向にしか絶対に開けていないのである。(P262)
 

 ゴーピ・クリシュナの上記の意見はLSDの普及者であるティモシー・リアリーの明示した覚醒進化の方向と同じものであり、そのうえ麻薬なしでの覚醒進化なのであるから、リアリーよりも前進した明晰なる知性の疑いなき解答と言えるであろう。筆者はゴーピ・クリシュナの文章のバランス感覚と明晰な知性に驚きを覚えざるを得ない。疑いなく彼は知性において第一級レベルを示している。また彼は自身の書物を矢継ぎ早に世に問うようになったのは1967年以降のことである。彼はクンダリニー覚醒してから三十年それを温め隠匿してきたのである。ここに彼の真摯さというものがクンダリニー・シャクティと共に顕現していると言えよう。 




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