良寛と手毬うた
手毬うた
ひい・ふう・みい・よ・・・・と数えて十になったら、また一に戻る。
何の生産性も、発展性もなく、延々と繰り返される手毬うた。
子供は、喜んでそれを繰り返す。
「いま、ここ」を堪能できるチカラがあるから。
過去のいろいろな問題や、将来の課題、それらに囚われず、
今、ここに居る、ただその瞬間、そこにいる自分を愉しむ。
大の大人が、特に男が、子供に混じって手毬ができるか。
年齢、性別、位、その他もろもろ剥ぎ取って、
ただひとりの人間として、今、ここ、を愉しむことができるか。
くだらない、意味がない、恥ずかしい、大人気ない・・・そういう
思いを抱かずに、ただ毬をつくことに興じられるか。
「今、ここ」
現代人が、軽視してしまっているもの。
心理学の交流分析でも、「今、ここ」という感覚を重視する。
よりよく生きるために、「今、ここ」
いつでも手毬ができる自分がいるか?
そこに良寛の、すごさを思う。
手毬は良寛にとって、修行であり、座禅であり、そして
ただの遊びだったのだろう。