赤ちゃんの新星エネルギー | 結月美妃の“あれアレこれコレ”

赤ちゃんの新星エネルギー

 結月でございます。

 

 佐藤愛子のエッセー『九十歳。何がめでたい』が売れているというので、電子書籍リーダーにダウンロード。

 

 何度も言うけれど、本は電子に限る。場所を取らず、部屋が狭くならず、軽く片手で持てて、ページはタッチするだけで切り替わり、紙の本より値段が安い。

 

 まだ全部は読んでいないとはいえ、90歳になっても佐藤愛子は佐藤愛子であって、どこを切り取っても佐藤愛子。

 

 それが作家なのだと思う。

 

 スマホが普及してから、いろいろなメディアが気軽に立ち上げられるようになって、ニュースサイトなどもたくさん読めるようになった。ところが、どれも「情報」であって、それ以上のものがない。

 

 中には情報として、内容が薄すぎるものも見かけるし、ともかくどれを見ても文章に個性がない。ソツはないのだけれど、奥行きがなくて、匂いも臭いもなくて、味がなく、「情報」の域を出ないものがほとんど。

 

 どの内容もそれほどの差はなく、政治にしても経済にしてもスポーツにしても、あっと驚くような独自の見解は見ることはなく、それ以上もそれ以下もなく、それを読んだコメント欄もどれも似たり寄ったりで、やっぱり「情報」でしかない。

 

 しかしながら、佐藤愛子のエッセーは、作家だなと言わざるを得ない「文芸」であって、個性的であり、迎合がなく、文の芸になっていておもしろい。

 

 近頃は、というかもっと前から「作家」と自称するひとが多くなって、それはビジネス本や自己啓発本を出版して、自分を作家だと名乗っている。

 

 執筆だけで食っているわけでなく、普段の仕事はコンサルとかブロガーとか、まあそんなところなのに「作家」と名乗っている。

 

 わたしの認識としたら、「作家」とは小説家であり、文の芸がある文芸であって、説明的な答えを出す人間でなく、だから35歳になるまでにやること100とか、売れる法則とか、自分を好きになるための生き方とか、そういうのを書くひとは作家ではない。

 

 ともかく、わたしが思う文芸の作家は絶別危惧種であり、小説家でも小説だけでは到底食えないから、大学の非常勤講師をしているとか、講演でギャラをもらうとかで、なんとも文の芸は金にならない時代。

 

 小説を読むなんて、今やマニアがやることで、小説はリスペクトの対象ではない。

 

 いやいや、小説家なんて、人間的には最悪だったりするから、そもそもリスペクトなんかしちゃいけない。ただ、その作品をリスペクトすべきで、今はリスペクトできる作品があるのか、今の作家の小説をほとんど読まないわたしは知らない。

 

 今の作家を読もうとして、話題になった小説などをいくつか読んでみると、何ひとついいと思えるものがなくて、金はいいけど時間がもったいなかったと思うものに立て続けに出遭い、小説を読まなくなってしまった。

 

 では、昔の文豪ならいいかとなると、昔の名作はすでにたくさん読んでしまったし、今さらスタンダールなんて読む気もせず、如何せん、スマホの時代には時代錯誤すぎる古い文学作品はこれまた読む気がしなくてやっぱり小説は読まなくなった。

 

 そんな中、昔の作家であろう佐藤愛子は90歳でまだ生きていて、90歳が今の世の中をどう見ているかは興味があったから読んでいる。

 

 同世代でないからこそ、視点が逆に新鮮で、だから売れているのだと思う。

 

 さて、その佐藤愛子の最新のエッセーで、子供の泣き声は未来へ向かっている、というようなことが書かれていて、現在生後6か月のシャンシャンが生まれてからそれはよくわかる。シャンシャンが生まれていなかったら、その記述は頭でしか理解できなかっただろう。

 

 シャンシャンは時折、渾身の力を込めて大泣きして、顔は真っ赤で全身汗だく。こんなにも思い切り泣けるのはすごいエネルギーだとわたしは思う。

 

 それはまるで新星の太陽のようであり、輝いている。

 

 わたしはシャンシャンが泣く声が好きで、うるさいとは思わない。その生命のエネルギーのすさまじい発散に愛着を覚えるからで、無論、こちらが眠りたいのに泣き止まないときは大変だけれど、なんとも愛らしい泣き声だと思う。

 

 泣き声をネガティヴに捉えるかポジティヴに捉えるかで大きく違ってくる。

 

 体の異変などの泣き声は別として、腹が減ったとか、腹が一杯だとか、眠たいだとか、暑いだとか、それを生命活動として汗だくになって泣くその声はポジティヴなものだと思う。

 

 しかし、得てして大人は泣くと泣き止まそうとして、何も悪いことをしていないのに「ごめんね、ごめんね」と謝ったり、泣くのをやめてほしいと懸命に思う。

 

 それは赤ちゃんの泣き声を「うるさい」と認識しているからであって、それを「愛らしい」と思いなおせば、それはうるさいものでなくなる。

 

 泣き声は、できたばかりの恒星の輝きであり、太陽でいうコロナの煌めきではないか。

 

 コントロールできないほどの生命エネルギーだからこそ、すばらしい。それをネガティブに捉えるのは、太陽の輝きに黒い布を被せるようなものに違いない。

 

 しかし、太陽は眩しすぎると眠れないから大人は疲れる。でも、泣き声そのものはポジティヴなものと考えていい。

 

 こんなことを言うわたしもずっと小さい子供が苦手で好きでなかった。でも、その泣き声は確かに未来へ向かうエネルギーなのだとシャンシャンを見てわかると、電車で見る他人の子供も愛らしいものに思えてきた。

 

 以前、保育園を建設するとなったら、近所から子供の声がうるさいからやめてほしいという話があった。あれは確か、建設が中止になったのだと記憶する。

 

 佐藤愛子もそのことを書いていて、今の日本は未来へのエネルギーを受け止められないほど元気がないのかもしれない。

 

 子供の泣き声は、鬱病患者に「がんばれ!」としきりに言うのと同じなのかもしれない。

 

 そして、予測不能なものを受け入れる余裕の喪失が、子供を拒絶するのだろう。

 

 世の中を見渡してみると、予定調和なものにあふれている。

 

 仕事もマニュアル化され、逸脱が許されない。予測不能なものへの対処を徹底し、すべてを想定内に収めようとしているのではないか。

 

 だから、予測不能に泣いたり泣き止んだりする子供を社会は受け入れられない。

 

 受け入れてもらいないからこそ、子連れの親は地下鉄で肩身の狭い思いをし、子供が騒ぎそうだと必死にそれを抑え込もうとする。

 

 しかし、これでは才能は伸びない。子供のうちから予定調和からの逸脱を許してもらえなければ、突飛な発想は生まれてこない。

 

 決められたことをぶち壊すエネルギーこそが発明であり、既存の概念をぶち壊すことが革命。

 

 シャンシャン、汗だくになった泣くといい。たとえ地下鉄の中でも大声で泣くといい。それは大きな未来へ向かうとてつもないエネルギーの閃光なのだから、その生命力を爆発させて、この体裁だらけの世の中を、逸脱を許さない社会をぶっ潰してくれ。