人を変えられるもの | 結月美妃の“あれアレこれコレ”

人を変えられるもの

 結月でございます。

 

 シャンシャンの銀座デビュー二日目。

 

 昨日は自宅に帰って、長時間シャンシャンを抱っこしていて、汗だくなわたしはダッシュでシャワーを浴びた。しかし、頭までは洗う余裕がないのは、シャンプーしてリンスして、ドライヤーで仲間由紀恵より長い髪を乾かしてというプロセスはシャンシャンを寝室に置いたままだと心配だったから。

 

 そして、そのままシャンシャンをベビーバスでお風呂に入れ、シャンシャンを抱っこしながら猫にご飯をあげ、そして猫のトイレも掃除して、前抱っこのままスパイシーハイボールを強炭酸で仕上げて、一気飲みした。

 

 「プハー! この一杯のために生きてるな!」

 

 というよりも、とにかく抱っこしたまま銀座から帰ってきたので、喉がカラカラで、スパイシーハイボールは全身に浸みた。

 

 朝から何も食べていなかった。晩ご飯としては、近所のスーパーでサンドウィッチを買った。なぜなら、前抱っこでシャンシャンの頭がわたしの顎の下にあるから、麺類とか物理的に無理。

 

 片手でつまんで食べるものがいいと、サンドウィッチ。

 

 シャンシャンは座ると泣きやすいので、部屋の中を抱っこしながらグルグル歩く。すると猫のラッキーがわたしの脚にじゃれついて来る。

 

 夜中はとりあえず寝たけど、シャンシャンの寝相が悪すぎて、わたしは寝たり起きたり。まあ、それは猫で慣れているけどね。

 

 ともかく、生後六か月の赤ちゃんはなかなか大変で、子供を何人も産んで育てるママさんって、あれは超人というよりモンスターレベルのパワーだと思った。

 

 育児というのは、赤ん坊をあやしながら家事をしたりしなくちゃいけない。つまり、同時にいろいろなことをやらなくてはならない。

 

 オンナが男を馬鹿だと思う瞬間っていう問いかけに、

 

 「男は複数のことを同時にできない」

 

 というオンナの解答がよくあって、それはオンナは育児脳があるからだという意見もあって、それはそうかもしれない、とも思う。

 

 どちらかと言うと男はひとつのことに夢中になる専門家型だからね。

 

 一方、オンナで専門を極めるひとはあまり多くない。

 

 わたしは専門的に突き詰めるのも得意だし、いろいろを同時にやるマルチプルでもあるから、赤ちゃんはそれほど苦手というほどではない。

 

 とは言え、「大変」の一言で、

 

 「保育園落ちた日本死ね」

 

 の気持ちはよくわかる。ずっと育児で、仕事に出れないのは経済的な理由の他に、精神的にきつい。

 

 そう言えば、先日、スウェーデンかどこかの北欧と日本の育児環境の違いの記事を読んだ。つまり、日本はそのへんが全然駄目っていうことなんだけどね。

 

 一口に言って、小さい子供を育てることへの社会的理解が不足しているってことじゃないかな、日本は。

 

 でもね、昨日、スーパーでサンドウィッチを買ったとき、そのスーパーはレジ袋が無料なんだけど、高校生くらいのバイトの女の子がシャンシャンを抱っこしながら財布を出すわたしに、

 

 「これ、どうぞお使いください」

 

 って、本来は有料のレジ袋をくれた。

 

 まだ子供なんて産んだことない年齢だけど、そういう気遣いはうれしい。

 

 ただ、日本社会全体としては、確かに子育てには向かないっていう雰囲気だと思う。

 

 今日も日比谷線で銀座まで来て、途中、シャンシャンがぐずり出して、泣きそうになった。わたしは途中下車してホームを歩くとまた大人しくなって、次の電車に乗った。

 

 またぐずり出したけど、バッグから哺乳瓶を出して、ミルクを飲ませながらなんとか泣かせずに銀座までたどり着いた。

 

 気にしすぎかもしれないけど、泣かれたら困るという気分って何なんだろう? もし、これが中国だったら全然気にならないと思う。

 

 中国の地下鉄はみんな大声でしゃべって最初からうるさいし、しかも細かいことは気にしないし、寛容だからね。いい加減な社会ゆえのストレスのなさってあるよね。日本人はそういうことをマナーが悪いって言うんだろうけど。

 

 どーでもいいことまできっちりとしようとする意味で、日本はストレス社会なのだろ思う。不寛容っていう空気かな。

 

 だから、銀座までの29分間の地下鉄がひどく長く感じられた。

 

 でも、わたしが東京の地下鉄の中で赤ちゃんにミルクあげているっていう風景。これ、あまりにも今までと自分のキャラが違いすぎて、自分でも驚いてます。

 

 だって、小さい赤ちゃんとは無縁の生活だったし、仕事だって美意識を追求してきたところがあるから。

 

 ひとを変えることはできない。

 

 これはわたしもずっと言ってきたし、たまたま今日読んでいた伊集院静の人生相談でも伊集院さんもそう言ってた。

 

 他人なんて、いくらこうしてくれって言っても、変わらないです。そういうものです。

 

 ところが、美的哲学キャラで生きてきたわたしが地下鉄でひとり赤子を抱き、ミルクをあげているほどの変化をもたらしたシャンシャンという生後六か月の人間は、わたしを変えた。

 

 そう思うと、シャンシャンってすげえやつなんじゃないかと思うようになった。

 

 彼女は言葉も使わず、ぐずったり、泣いたり、笑ったり、抱っこされて眠ったりしているだけなのにわたしを変えた。

 

 幾千、幾万の言葉でもって、大人たちはひとを変えようとする。

 

 政治家なら、自分に投票してもらおうと自分に投票する気のないひとを自分に投票するようたくさんの言葉を演説で発して変えようとする。

 

 ダメな部下を何とか変えようと言葉で叱責する上司がいる。

 

 勉強をしない子供に勉強をさせて、大学くらいは行ってほしいと言葉うるさく言う親がいる。

 

 でも、変わらない。

 

 人間なんて、他者がどう言ってみても基本的には変わらない。

 

 どうしてクソみたいな自己啓発本やビジネス本が出版され続けているかといえば、それは「こうやれば、こう変われる!」と本に書いても、実際に実行して自分を変える人間はいないから、売れ続ける。

 

 もしみんなが実行して変わっちゃったら、その本は要らなくなるから売れなくなる。

 

 でも、変わらない。

 

 なのにシャンシャンはわたしという人間を著しく変えた、と思う。