猫のパントマイム | 結月美妃の“あれアレこれコレ”

猫のパントマイム

 結月でございます。

 

 猫三匹と暮らしているわたしはその猫たちの顔を見て、そのキャラクターの違いにいつも感動している。

 

 猫だって魂があるから、人間がひとそれぞれ性格が異なって、つまりは同一の人間なんていない事実を考えたら、そんなに不思議でないどころか、あまり前すぎるというのに、わたしはいつも猫たちを見て感動している。

 

 おそらくそれは猫が人間の言葉を話さないからだろう。

 

 猫は自分のキャラクターをすべてパントマイムで表現している。

 

 今は映画と言えば、カラーは当たり前だし、3Dですら珍しくないし、当然のことながらセリフが音で聞こえるトーキー。

 

 ところは本来映画はセリフが音で出てこない「サイレント」であって、有名なところではチャップリンだし、旧ソ連のエイゼンシュテイン、アメリカのグリフィスなどなど巨匠はもちろん、戦前は映画と言えば音のないサイレントだった。

 

 だから、ストーリーは登場人物の感情は言葉ではなく、パントマイムで表現していた。

 

 そこにセリフが音で出るトーキーの技術が出現して、チャップリンはパントマイムの重要さが失われるということで、トーキーに批判的だった。

 

 今の映画やテレビドラマは、最初からセリフで構成されていて、ほとんどのことをセリフで説明してしまう。だから、映像に力がないわけで、こんなにたくさん映画が作られているのに、昔のように傑作がほとんど出てこないのは、セリフに頼り過ぎて、というかセリフでしか映画を撮っていないからだと思う。

 

 言葉で、

 

 「愛してる」

 

 と、言われてもあまり胸には響かない。言葉を使えない状態で、必死に愛しているという思いを伝えようとするから胸に響く表現になる。

 

 猫は言葉を話さないから、その表情や振る舞いで自ずと自分のキャラクターを表現している。

 

 だから、猫のパントマイムは胸に響いて、愛らしく、手放せなくなる。

 

 うちの猫のラッキーは、いつも書棚の上でごろりと横になって寝ている。その姿はチャップリンの名作『街の灯』の冒頭で、チャップリンが石像の上でごろりと横になっているのにそっくりで、猫というのはチャップリン以上のパントマイムの才能があるように思う。

 

 ともかく、猫たちはそれぞれのキャラでもって、いつもわたしに寄り添ってくれていて、言葉ではないパントマイムで猫としての愛を表現してくれている。

 

 だから、猫は人間以上に深い関係になる。

 

 そんな猫たちを引っ越しをするからというので、捨ててしまう飼い主がいることにわたしは理解できない。

 

 おそらくそれは愛の感受性が乏しいというより、皆無なのだろうと思う。