残した思い  9



*****

 綾音の波のある体調は、やがて入院するまでに悪化した。
 両親は元より夏希や友人達も顔を出すが、「面会謝絶」の札に入れるのは親戚と従兄である夏希だけ。

「許嫁だからな」

 仲間の呟きに冬美は微かにショックを受けた。
 冬美は、今更ながらにその言葉が夏希は身内だと、恋人だと思い知らされて切なくなった。
 そこに部屋から出てきた夏希と顔を合わせた。

「冬美さん?」

 沈んだ表情の冬美に夏希が声をかけると、冬美はビクッとしてから泣き出してしまった。
 夏希の声を聞いたことで、心のタガが外れてしまい、涙が零れてしまった。

「冬美さん? どうしたの? 綾音は大丈夫だから」

 本当のところは大丈夫とは言いがたいが、何とか峠は越えたと医者は言った。

 そんな声も冬美には聞こえなかった。

 自分のこの涙は、綾音の為でなく、自分の恋に、夏希が遠く感じられたことが寂しくて泣いている。そんな時に、夏希の顔を見てこみ上げた思いが止められなくて、涙が止まらない。
 友達の身体よりも、自分の恋を思っている自分がイヤになった。それでも目の前にいる人が恋しい。言葉にできなくても、ただ恋しかった。


「綾音のことでナーバスになっているんだね。冬美さんはもう帰った方がいい。俺も一度家に帰るから、送っていくよ」

 夏希の車の中でも言葉を交わすことなく、冬美は静かに俯いて泣いていた。


 綾音、我が儘な恋をしていて、ごめんね。
 夏希さんを好きで、ごめんね…。


 冬美の中で綾音と夏希を思う気持ちが交互に入り乱れて、恋する気持ちが冬美をより切なくなって涙を止まらなくさせた。


 そして数日後、綾音の持ち直した容態が再び急変したとの連絡が皆に入った。
 親戚達数人が見守る中、口元には酸素マスクが息で曇る。

「夏希…夏希は…」
 綾音は朧気な意識の中なのかわからないが、夏希の名を呼び手を伸ばした。
「夏希君か? いるぞ。夏希君」
 枕元にいた父親が夏希を傍に呼び寄せた。
「綾音」
「夏希……。なつ…き…。ありが…とう。そして……ごめんね、ごめんね」

 朦朧な意識の中に伸ばした綾音の手は、夏希を捜した。微かに見える誰が夏希かわからないようだ。夏希は綾音の手を取って、謝る言葉の意味は分からなくとも首を横に振っては頷いてを繰り返した。
 そして綾音の目尻から涙が伝い落ちていった。
 綾音の最後に残した言葉は夏希への感謝と謝罪だった。

 医者も手を尽くしたが、暫くして意識を無くした綾音は、その3日後に息を引き取った。


*****


 綾音の死の撮影後、キョーコは本当に綾音という少女が亡くなったように涙を零していた。
 そしてキョーコが思わず声を漏らした。
「切なくて、心が苦しいです」
 キョーコが溜息を漏らすように、キョーコ自身が親友を亡くしたように蓮に呟いた。
 それは蓮も同じだった。
 この後、ラストは綾音の死と、残した思いを夏希と冬美が幸せになることを手紙という形で残していたが、夏希の思いも、冬美の思いもばれていたということになる。


 人を恋する気持ちは、嬉しさだけでなく、苦しいほどの辛さも、蓮自身も感じていた。
 ただ蓮の思いは、内にくすぶる黒い思いとの葛藤もあった。それをキョーコがすくい上げて乗り越えられた。

「恋、恋うる。思いは届くかわからなくとも、その人の幸せを思えば、恋ではなく愛になる。恋は我が儘で、愛はその人の幸せがあればそれでいい」
 蓮が自分自身に呟くように言った。
「愛する人の幸せ…。最後には、綾音の残した思いが愛として冬美と夏希を結びつけると?」
 蓮はキョーコに頷いた。
「綾音は夏希に甘えることが我が儘だってわかっている。だから、最後の思いを託したんだよ。大切な夏希を、大切な冬美になら託しても大丈夫だと…。綾音と冬美で浴衣を一緒に選ぶことで、夏希を託す心を渡したんだ」


*****


 綾音が亡くなり、あまりにも早い死は仲間にはショックだった。
 たった一人綾音の状態を知っていた夏希は、身体が弱い為に身体を支えいつも腕に絡みつくように歩いていた綾音の温もりが、もう居ないのだと寂しく感じた。


「夏希は知っていたのか?」
 仲間の一人が夏希に訊ねた。
「ああ、従兄だからね。綾音の両親に綾音を見守ってくれと頼まれていたんだ」
「見守ってくれって、え!? …ってことは、許嫁とかっていうのは…?」
「違う。婚約していた訳ではない。出掛ける時には付き添って欲しいと頼まれていた。俺も綾音が倒れないか心配だったから、できるだけ一緒に出掛けただけだ」
「家にもよく訊ねていたのは…」
「綾音の様子を見に行っていたんだ。両親に頼まれたこともあった」

 それを訊いた仲間は、夏希が綾音から目を離さずに大切にしていた意味を分かった。

「でもそうすると、綾音は、綾音はお前が好きだったんじゃないのか?」


「……俺には答えられない」


 はっきりと、直接に綾音から「好き」と伝えられた訳ではなかった。だがその目を見れば、自分に恋している少女の思いは見えた。
 夏希もそれほど鈍感ではない。
 言葉に出来ない辛さ、綾音にそのまま思いを返せていたらと感じなかったもどかしさを、夏希は空を見上げて後悔を感じた。
 しかし、綾音に嘘の愛を告げることは、綾音に対しても侮辱しているようなものだ。例えそれが優しさでくるまれていても、本物の愛でなければ綾音には悲しみの言葉でしかない。
 夏希も付き添って笑みを浮かべても、綾音が寂しそうに笑みを浮かべる意味が、自分の本当の愛情ではないと気がついていたと、綾音ならわかっていたと思った。
 夏希が言葉に出来ない思いに、仲間もそれ以上は深く訊くことは出来なかった。


 そして綾音との永遠の別れの日が来た。
 葬式には仲間や近所からも多くの人が集まった。

 やがて多くの人に見送られた綾音の葬式が終わり、親戚の夏希は早すぎる遺影となった綾音を見つめていた。
 そこに何人か残っていた仲間も居た。だが遺影を見つめる夏希の表情に悲しみが増して帰ろうとした冬美と、遺影を見つめていた夏希だけが、綾音の両親に奥の部屋へと呼ばれた。


***


「綾音が亡くなる前に、言付けを頼まれているの。お二人に形見分けがあるの」

 夏希と冬美が顔を見合わせた。
 二人にだけの形見分けを、綾音は自分の命を見極めて用意していたのか?
 驚きと、冬美はその気持ちだけで涙を零した。

「この浴衣を冬美さんにと」
 冬美は綾音の母親に差し出された浴衣を受け取って驚いた。
「これは、夏希さんの浴衣と一緒に買いに行った…」
 渡された包みを解くと、「モデルになって」と言われて肩に掛けられた反物が浴衣になってそこにあった。
「内緒って、綾音ったら…内緒になってないわ……」
 綾音が似合うと言ってくれた、紺地に朝顔の浴衣だ。

「そしてこれは夏希さんに。それと手紙が残っているの」


 包みを解けばあの時に夏希用にと選んだ浴衣。
「夏希さんに…って、綾音と二人で選んだ浴衣なんです。でも内緒って言われて…」
 冬美は零れる涙を両手で掬った。
 冬美には綾音の気持ちが切なかった。
 どんな気持ちで自分の分と、そして夏希の分を選んだのだろう?
 自分のものではない浴衣を、二人に送る為に苦しい身体を押して選んでくれた綾音…。


 綾音は、こうやって渡す日が近いとわかっていて選んだの?
 綾音と一緒に見たのに、二人で選んだのに、自分では手渡せないってわかっていたの?

 冬美は静かに、でも楽しそうに選んでいた綾音が思い出されて、切なさが増した。


 そして夏希に残された手紙を、静かに読み上げた。
 夏希の声が、やがて綾音の声と被り、綾音の独白の形となって心を伝えた。


***


 夏希が居てくれて、嬉しかった。ありがとう。
 でも、冬美を好きな夏希の気持ちも知っていたの。

 ごめんね。
 縛り付けていた。
 冬美の気持ちも苦しめていて、ごめんね。

 二人で私の精霊流しをして、私のことから解放してね。

 二人で幸せになって…。

 ごめんなさい。
 ずっと二人の邪魔ばかりして、ごめんなさい。


 夏希。冬美を幸せにしてあげてね。 
 二人を空から見守っているわ。


***


 二人は帰り際、綾音の家の前に流れる川岸に立って、綾音が残した思いを、複雑な気持ちで受け取っていた。

 好きな人。そして思いを残して逝ってしまった綾音を思うと、思いが通じていたとしても、直ぐには喜べない愛しくとも寂しい思い。
 綾音は本当に夏希が好きだった。
 本当は、幸せになりたかった。
 ……早すぎる死は、二人には寂しさと切なさを残した。


「俺は、綾音の手紙の言うように、冬美さんのことを好きだ。でも…」
 夏希は思いを告げはしても、言葉が続かない。
 綾音の残した言葉が、辛すぎた。

「私も、私も夏希さんが…好きです。でも、でも綾音のことを、もう少し思い出にするまで、このままでいいですか?」

 夏希を好きで寄り添いたい気持ち。
 綾音のことで痛む心を出来るなら癒したかった。
 綾音の夏希を恋する気持ちを思うと、早くに逝かなければならなかった少女の思いが痛々しかった。
 そして同時に、綾音の思いを考えると簡単には近づけないほど心が痛かった。

「…うん。綾音は妹みたいだったけど、それでも居なくなると心に穴がぽっかりと空いた気がする。好きという気持ちの種類は違うけど、大切だった。君に向き合える様になる時間を、少し欲しい。せめて精霊流しの時まで、綾音を向こうの世界に送るまで、待っていてくれないか…」


 冬美を好きな気持ちより、綾音の陰や存在は大きくて、夏希には時間が欲しいと思った。傍に居た可愛い従姉妹の姿は見えなくても、その存在が全て消えたわけではない。

 冬美は頷いて、少し離れた場所から空を見上げた。
 同じ気持ちで、綾音の思いを受け止めながら、綾音の優しさを思いながら…。


 空には笑みを浮かべた綾音の儚げな顔が映り、二人の幸せをそっと見守っているように見えた。


*****


「カット!」
「良かったよ! 綾音に対する気持ちも、綾音を亡くしても自分たちだけで幸せになれない複雑な思い」
「ありがとうございます。…最上さん?」
 監督の言葉にすぐに応えた蓮だが、キョーコの様子が変なことに気がついて、答えのないキョーコに肩を叩きながら声をかけた。
「あ、ああ…すみません。ありがとうございます」
 蓮や監督にキョーコは謝った。
「また役が抜けなかったのか? 君は本当に役者になる為に生まれてきた子だね」
 呆れたような驚きを含んだ監督が言った。
「そんなことは…」
「役に染まりきることは怖いこともあるが、京子君はもっといろんな役で勉強すればいい。頑張りたまえ」
 厳しいことでも有名な監督の誉め言葉に、キョーコは嬉しいが恐縮した。
「このドラマも、君にとってはステップの一つだよ」
 蓮がそう言葉を添えた。
「…はい。もっともっと、頑張ります」


*****

                   《つづく》    

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