渡辺和子 さんの著書
『心に愛がなければ』PHP文庫の中に
こんな一節があります。
「私は樹を伐るのに忙しくて、
斧を見る暇がなかった」
この言葉を読んだ時、
自分の生活を言われたように思って胸を
突かれたことがある。
樹を伐ること、つまり、毎日の仕事をこなして
ゆくことに心を奪われ過ぎて、
伐っている斧、
つまり、自分をかえりみることを忘れ、
気がついた時には、
刃は欠け、ボロボロになっているかも
知れないと思ったからである。
ミヒャエル・エンデの
「モモー時間どろぼうと、ぬすまれた時間を
人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」
という本の中に次のようなことが書かれている。
ある所に一つの平和な村があって、
人々はゆったりとした生活を楽しんでいた。
ある日のこと、その村に「時間どろぼう」の一味が現われ、
村人たちに時間の節約をすすめはじめる。
「あなたがたは、のんびり暮らしているが、
それは大変な時間の浪費であって、時間というものは
節約して貯蓄するものです」と教える。
この泥棒たちは、吸血鬼が人々の
血を吸い取って生きているように、人々から奪った
時間を糧に生きるのだった。
甘言にのせられて村人たちの生活は一変する。
それまで念入りに仕事をしていた床屋さんは、
時間を切りつめて、ぞんざいな仕事をし、
節約した時間を貯蓄するようになった。
パン屋もペンキ屋も右にならえで、かつては
愛情をこめてしていた仕事を、ひたすら事務的、
能率的に片付けて行くようになったのである。
その結果はといえば、村人たちは
落ち着きのない、怒りっぽい人間になってゆく。
一つのことに心をこめることもなく、
いい加減にすませ、ちょっとでも自分の仕事の
邪魔をするような人や出来事に腹を立てるのである。
そして一方、節約したはずの時間は少しも手許に残らず、
一日一日はいっそう短くなってゆく。
なぜなら、それらの時間は自分の時間ではなく、
時間どろぼうの喰い物でしかなかったからであった。
「時間節約」を合言葉に生きる村の大人たちは、
もはや子どもたちのために時間をさこうとしなくなる。
その代わりに高価なおもちゃをあてがわれた子どもたちには、
次々に新しいおもちゃを求める飽きっぽさと欲望は
育ちこそすれ、子ども本来の遊びを生み出す創造性は
失われてゆき、彼らはやがて、遊ぶために
「遊びの教室」に通うようになる。
こういう状況に心を痛めたモモという一少女が、
これではいけないと、時間どろぼうたちと戦って、
ついに盗まれた時間を人間に取り戻し、
村には再び平和と幸福が戻って来るという
ストーリーである。
本の中で「時間の国の王」がこう言う。
「光を見るために目があり、音を聞くために
耳があるのと同じように、人間には
時間というものを感じられるための心というものがある」
~(省き)~
「人間というのは、
一人ひとり自分の時間を持っている。
この時間は、本当に自分の時間である間だけ
生きた時間でいられるのだ。
実はユピロ菌も「モモ」という本が大好きで、
子供の頃から何度も読み返した本だ。
この4~5年は読んでいないが、
今も本棚に入っている。
「モモ」は1972年の翻訳された本であるから、
もう40年前に書かれた作品である。
しかしながら、決して古くなく、
それどころか新しく感じるのである。
ひとの将来をエンデは見通していたのか?
今の我々が読まなければならない本である。
我々が失ったものが、ここには書かれてある。
ユピロ菌の記憶では、
エンデはこの本の「あとがき」でこう書いている。
「この本は子供のために書いた物語ではない、
大人のために書かれた本である」と・・・。
現代のように、お金お金、裕福裕福、
自己中心、協調性がない、
効率効率、事務的な世の中、
今こそ、我々が時間どろぼうに
盗まれている大切な時間を取り戻す時では
ないだろうか?
ぜひ読んで欲しい本である。
ミヒャエル・エンデ
http://www.fsinet.or.jp/~necoco/ende.htm