もちろんいま述べた家事をすべて一人でこなしたわけではなく、ぼくはモニカの足らざるを補っていたに過ぎない。
その反面、町内会や学校関係のこと、家計はモニカに全面的に任せっ切りだった。こういった事務的なことは、銀行勤務九年のベテラン行員だったモニカ以上の適任者は考えられなかった。
いや、この時期のぼくの妻が務まったのは、モニカ以外にはいなかっただろう。
他の人であればダグラスの嫁であり続けるのは、精神的に持ちこたえることは無理だったに違いない。
と言うのも、リネンサプライ会社での月々の稼ぎはわずか十万円前後だったからだ。十万円で家賃を払い、光熱費、食費、教育費、その他の雑費をまかなった。
ぼくの労働時間がなぜ一日五時間だったかと言えば、それ以上働くことはぼく自身が精神的に耐えられそうになかったからだ。
モニカとヒカリ6歳(明石―2008年)