戻ってきた記憶は、自分でも意外なほど、《今》に影響を及ぼさなかった。
 本名も、家族のことも、住んでいた場所も、バカみたいな男と寝てたことも、何も考えずただ磨耗するように働いていたことも、小学校や中学校の頃のことも全て。
 誰か、別の人のことを描いた映画でも見ているような気分だった。


 自分にとって、体温のある記憶は、ユチョンと過ごしたそれだけだった。
 助けてもらった日、タクシーの中でそっと握ってくれた掌の温かさ。一緒に食べた、野菜の甘さ。怯える夜に、そっと髪を撫でてくれたこと。溶けそうに暑い日に飲んだジュースから、自分の名前を「ユズ」と決めてくれたこと。

 その日から、何度も名前を呼んでくれた、低くて甘い、あの声———


 あまりにも優しい毎日で、感じていた違和感のことを忘れていた。
 記憶を失くした自分に、どうしてこんなにも自然に、こちらが求めていることを先回りするように接してくれるのか。そこに、彼自身の辛い経験という根拠があったなんて。




「ユズちゃん、今日もがんばっちゅうね」
「あ、ありがとございます」
「昨日入ってたピーマンのおかず、あれどうやって?美味しかったんよ」
「今度うち来てくださいよー。作り方、特別に教えちゃいますから!」


 また、彼のいない一年が過ぎていった。

 今度の一年は、前よりずっと穏やかだった。其処此処に残る彼の思い出に心を傷めるよりも、其処此処に転がる彼の面影を拾いながら飾っておくような、そんな毎日だった。始めた仕事は随分と軌道に乗って、町の皆はユズのことを、ずっと昔からここにいた人間みたいに接してくれるようになった。町のおばちゃんやおじちゃんと、ユチョンの思い出話をしたりもした。


 七月が近づいて、駅には立派な笹が飾られた。
 子供たちだけじゃなくてみんな、短冊に願い事を書いてくくりつけた。背が伸びますように、主人の病気が良くなりますように、試験に受かりますように、東京の息子の仕事がうまくいきますように。色とりどりの短冊が、すでに暑さを増し始めた風に揺られていた。

 ユズは、「ユチョンに会えますように」と書いた短冊を吊るすことはできなかった。
 町の人が見るものだからという理由もあったけど、言葉にして書いてしまうとなんだか到底叶うことのない願い事みたいになってしまう気がして、ためらわれた。


「ユズちゃん、願い事書かんでええがや?」
「ああ、私はいいんです」
「もっとお弁当売れるようにとか、ねぇ」
「もう今で十分ですよー。私これ以上作れませんし!ハハハ」


 それでも、その前の夜。
 玄関先に、駅にあるよりは随分と小さいけど、笹の飾りをつけた。町に一軒しかない文具店で、柚子色の画用紙を買ってきて、短冊を作った。どんな風に書けばいいのか随分と迷ったけれど、ユズはユズなりの不器用な言葉で、今書ける率直な気持ちを短冊に綴った。


《あなたがどこかで少しでも、私のことを懐かしく思い出してくれますように》


 日付が変わる寸前に、笹に短冊を吊るしてから。気恥ずかしさと高揚と、してはいけない期待をまぎらすように少しお酒を飲んでから、ユズは床に就いた。




 七月七日。

 駅前では、少しばかりの祭りめいた催しがあって、農産物や加工品の即売とか、手芸で作ったもののバザーとか、中学校の吹奏楽部が演奏をしたり、この2年の間に町に戻ってきた若い人が開いたカフェがバル的なものを出して、みんな楽しくお酒を飲んだりしていた。
 ユズも、冬の終わりに冷凍保存しておいた柚子皮を使ってマーマレードを作って売ったり、ブーランジェリーの奥さんと協力してランチボックスを出したりした。これはなかなか好評で、これからも限定で作ってみようかと盛り上がった。ユズは売りながら、ちょっとワインを傾けたりして、ワイワイと楽しい時間は夕方まで続いた。

 そんな風に、ずいぶんと逞しくなって、活き活きと、新しい人生を生きているユズのことを。
 少し離れたところから、愛おしげに見つめる眼差しには、まったく気がつくことなく。




 片付けをして家に着く頃には、長い夏の夕方も暮れていた。
 急に雲行きは怪しくなってきて、織姫も彦星も、天の川も。すっかり分厚いその向こうに覆われてしまった。ユズは少しがっかりしたけど、そうか、年に一度の逢瀬なんて人に見られない方がいいもんな、と思い直した。
 すぐに降り出した雨はみるみる激しくなって、小さな庭の地面にはいくつも川ができた。ユズはそれを見るのもやめて、まだしなくてもいい明日の仕込みを始めた。今年の七夕はもう、星はあきらめようと誰もが思った。

 21時少し前、あんなに土砂降りだった雨がパタリと止んだ。雲は何かに引っ張られるように一気に晴れて、人工の灯りの少ないこの土地には、空の高さが都会の半分じゃないかと思うような見事な星空が広がった。

 ユズは、俎板を洗っていた水を止めて、ふと何かの予感や気配のようなものを感じた自分を、信じたいような信じられないような気分になっていた。玄関先の笹に吊るした短冊のことが気になった。さっきの雨で、軒先とはいえずぶ濡れになってしまったんじゃないだろうか?破れてしまったんじゃないだろうか。
 小走りでサンダルを引っ掛けて開けた玄関扉の先、少し濡れた自分の柚子色の短冊のそば、ユズが見たもの。

「これ……」

 もうひとつ、違う色の短冊が、確かに懸かっていた。


《僕も、同じこと願います。これからもずっと》
 

 見慣れた、間違うはずのない、彼の文字だった。
 ユチョン。確かにここに来たのだ。それも、ついさっき。短冊は乾いている。
 同じ願い……。離れたまま、お互いを懐かしく思い出す……?短冊に触れた自分の手は確かに震えていて、涙が溢れ出してきた。違う、これは本当の願いなんかじゃない。ただ、会いたい。ひと目だけでも、会って、伝えたい。
 サンダルのまま、ぬかるんだ道を、もつれる足を蹴飛ばすように走り出した。
 ユズはすぐにピンと来た。時刻は21時すぎ。ちょうど、終電のあたり。彼はきっと、誰にも知られずにこの町を後にしようと……




 宇和島方面へ下る最後の列車の音が、近づいてくるのが聞こえた。
 ユズの膝下は跳ねた泥で汚れて、もうすっかりひとけの無くなった改札を思い切り飛び越えた。駆け上がったホームは上り方面。
 向かい側、下り方面ホームの、雨上がりのベンチ。


「ユチョン!!!」


 驚いて、ハッと顔を上げた。一瞬、目があった気がした。
 そこに、列車が走り込んだ。煌々と光る車内の蛍光灯のせいで、向こうのホームが見えなくなる。この列車に乗ってしまえば、もう二度と会えないかもしれない。最終列車のアナウンスが流れて、少し長めの停車時間が終わり、ドアが閉まる。もどかしくて、息が詰まる。列車はゆっくりと走り出した。

 また静かになったホーム。
 そこに確かに、ユチョンは立っていた。


「ユチョン……!」
「……ユズ!」


 抑えきれない気持ちで、ユズはホームから線路に飛び降りた。それを見て、ユチョンも同じように飛び降りた。もう一度、互いの名前を呼びあったとき、線路の真ん中。
 ユズはユチョンの胸に飛び込んだ。


「ユチョン!ユチョン……!」
「ユズ、ユズ、なんで」
「ここにいるって、すぐわかったもん」
「ユズ……」


 ユズが固く回した腕。ユチョンは前よりもひと回り逞しくなって、風になびいていた髪は短くなっていた。それは、彼が国に戻って務めを果たしてきた証だった。


「ユズ、僕ぅ……」
「何もしゃべっちゃダメ」
「だけど、でも」

「一緒に、うちに、帰ろ……?」


 目に涙を蓄えたまま、ふわりと微笑んだユズの顔を見て、ユチョンはたまらなくなってユズを抱きしめた。二人の影は、まだ線路のうえにあるままだった。




 うちに帰るまで、一言も話さなかった。二人は少し俯いたまま、それでも手はかたく繋いで歩いた。


「ただいま」
「ただ……いま」


 懐かしい居間は、出て行った日から少しも変わっていないみたいだった。腰を下ろすと、ユズはユチョンの言葉を待たずに、ひたすら話し始めた。彼の過去を知ったこと。自分の過去も思い出したこと。それが、どんなもので、今の自分は……。

「辛い記憶だったけど、まるで他人のものみたいで、全然悲しくなんかなかったの」

 そしてやっと、ユチョンが口を開いた。柔らかく響く、その声。

「国に、帰ることは決まってて。いつかユズが、記憶を取り戻すとき、きっとぉ、辛いって、知ってた。だって、自分がそうだったから。その時、そばにいられないって思って、それなら、何も言わずにいなくなろうって。……でもそれだけじゃなくて、ユズにはもっと、僕なんかよりずっとふさわしい、誰かが。だって僕たちはぁ、似すぎてて、きっと辛くなるから。思い出すから、きっと……」

「……ユチョン?」
「うん」
「私は、そんなことより、自分の記憶なんかよりずっと、会えないことが寂しかったよ」
「うん」
「会いたくて、ずっと、ユチョンのこと考えてたよ」
「うん」
「私じゃ、ユチョンの辛い記憶は、癒せないのかな……」
「そんなこと、」
「でもね、私は、ユチョンのこと考えてる時、幸せだった。伝えたいことをずっと考えて」
「僕、僕ぅ、も。考えてた」

「私がこの先泣きたくなることは、きっと、ユチョンのことだよ」
「ユズ」
「きっとこれから先も、もしまたユチョンがいなくなっても、私はずっと想うし、思い出すし、考えるし、会いたいよ」
「ユズ……」
「だからユチョンが、もし良かったら、もし許してくれるなら」
「……」

「そばにいよう。一緒にいよう。私たち」


 ユチョンの心に、もう迷いはなかった。そばにいて、自分の想いを彼女に伝えればいずれ辛くなると思っていたのに、今目の前にいる彼女は、自分が思っていたよりずっと強くなっていた。


「ユズ、ありがとう。それから、もういっかい、ただいま。」


 しっかりこの腕に抱き締めたユズは、あの日助けたユズと同じで、でもずっとあったかくて。
 記憶なんか戻っても全然変わらない、自分だけの彼女で、だけどずっと凛としていて。


「おかえり、ユチョン」


 二人なら、きっと大丈夫。
 離れていた時間の分、育んでいたのだと、お互いにわかった。


 

 さっきの雨で湿気が残る居間。畳の上。
 彼が彼女の頬に落としたキスは、やがてもっと深くなって。
 その夜の間中、降り注ぐ雨みたいに終わることはなかった。
 溶け合う体温は、今まで流した二人の涙を全部乾かすほど、熱く熱くなって。


 久しぶりに訪ねてきた、猫の駅長が、窓枠に爪を立ててカリカリと鳴らしてみたのだけど。
 ユチョンもユズも、気づかないふりをした。

 また、明日の朝においで。
 きっと、家族分の美味しいごはんを用意して、待っててあげる。


 僕らの家族も、そのうち増えるといいね、駅長みたいに。








End.