その光景は深く深くまぶたの裏に刻まれて、痛く痛く胸に突き刺さった。
 ユズはもう、そう思うしかなかった。




「ただいまぁー」

「ユズぅー?」
「ユズ?いないの?」

「…あ、なんだ、いるんじゃん。どしたの?」
「おかえり、ユチョン」
「今日、晩ご飯、なぁに?」
「ユチョン聞いて」
「……?」

「あたし、思い出したの」
「え……」
「全部思い出したの、だから」
「だっから……?」

「出て行くね。ここ、出て行くね」


 それはもちろん、嘘で。
 思い出したことなど本当は何ひとつ無いのだけれど、あの光景を目の当たりにしたからには自分が出て行くのは当然のことだった。突然出て行くと言えば、ユチョンはきっとどうしてかと心配するから。思い出したと言う他になかった。
 ユチョンはとてもショックを受けたような顔を一瞬したのだけれど、すぐに柔らかく微笑んで、何も言わずに台所の方へ向かっていった。

 すっかり着古して首のあたりがゆるくなりつつあるTシャツと、麻のパンツ。部屋着はこれと決まっていて、何枚か同じものを持っているユチョン。着替えを済ませて卓袱台の前に座る時、少し鬱陶しそうに髪を振ってから、器用にゴムを口に咥えて襟足の髪をまとめる仕草がユズは好きだった。Tシャツと麻のパンツは何度も洗濯して干した。もうそれも終わりなのかと思うと、胸の奥がチクリとした。
 夕食の間、ユチョンは目があうと少し微笑んでみせるだけで、いつもみたいな会話は無かった。本当は訊きたい事があったけど、それを訊いて何になるというんだろう?どこの誰だか知らないけれど、ユチョンには訪ねてきて抱きあう女性がいたのだ。


「……いつに、するの?」
「え……?」
「いつ、出て行くの」
「えっと」
「まだぁ、決めてない?」

「ううん、明日」




 その日の夜は眠れなかった。
 見ず知らずの自分にこんなによくしてくれたユチョンのもとを、こんな形で出て行くのは人として間違っている気もしていた。だけど、あの女性とユチョンの間に深い関係があることは間違いなくて、だとすれば、優しいユチョンに辛い台詞を言わせる前に自分が出て行くことが最良の方法だと、沸いてくる疑問を飲み下した。
 そっと布団から抜け出して、荷造りをすることにした。と言っても、自分の荷物なんて数えるほどしかなくて、ユチョンがユズ用にと買ってくれたリュックの中に、いくつかある着替えや雑貨などを小さくして入れていった。そうしている間に、いくつものことが思い出された。
 ふと、後ろから、声がして。


「……ユズ?」

「な、なに?」
「起きてたの」
「うん、荷造りしとこうかなって」

「ひとつ、訊いても、いーい?」
「なに?」


「ユズの、思い出した記憶、は、楽しい、嬉しい、だった?」


 そう訊かれて、ユズは気付いてしまった。
 思い出した記憶なんかない。自分の中にはユチョンと過ごした数ヶ月の記憶しか無くて、それは楽しくて、ゆったりとして、守られているようで、キラキラとしていて。それしか無いのだということ。その記憶だけを抱き締めて、ここから出て行こうとしていて、二度と戻れないのだということ。
 そう思うと、流れてはいけないはずの涙がこぼれ落ちてきた。


「ユズ?……泣いてる、の?」


 背中の向こうにいると思っていたユチョンに、覗き込まれたと思った時には遅かった。手元だけ照らしていたはずの灯りは、ユズの涙をしっかりとユチョンに見せてしまった。

「ユズ、なんで」
「なんでもないっ」
「ねぇ、辛いならぁ、無理に、戻らなくても」
「そうじゃない!」
「じゃあ、なんで!?」

 言葉に詰まってただ涙を流す、背中からそっと体温に包み込まれて、ユチョンに抱き竦められる。その温かさはただ切ないだけで、そこに甘えられない辛さが増していくばかりで。

「ユズ……」

 涙でぼやけて見えるその顔が、近づいてくるなんて思わなかった。あたたかい感触が唇に触れそうになって、ユズは思わず自分の手で口を塞いだ。ユチョンの驚いて戸惑う顔が、今度はしっかりと見えた。

「何するの!?」
「……いや、ゴメン」
「なんで!?」
「ユズ、聞いて」
「なんでそんなことすんの!?」

 よくわからない悔しさみたいなものが込み上げて来て、もう止められなかった。

「なんであたしをここに置いたの?どうして一緒に暮らしたりなんかしたの?ユチョンにはいるんじゃん!いたんじゃん!大事な人が。知ってるんだよあたし、昨日ここに来たんだよ?……今日見たんだよ?今日見たんだから!抱き合ってたじゃん駅員室で!あたし見たんだから……!」

 ユチョンは、何も言わなかった。それでもユズを抱き締めようとするから、

「どうして何も言わないの!?どうしてこんなことするの!?変だよユチョン!ズルいよ、ユチョン……」


 ユチョンの腕から力が抜けて、解放されたと思ったとき。
 見上げたその顔があまりにも哀しそうだったから。ユズはもしかしたら、自分こそ何か取り返しのつかないほど彼を傷つけたのではないかと、その時になってやっと気付いた。