ASKA不起訴に潜む陰謀~警察の絶対的な信頼基盤『科捜研』の鑑定ミスへの隠ぺい疑惑 | ユマケン's take

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デビュー作オンリー作家による政治・文化エッセイ。マスコミの盲点を突き、批判を中心にしながらも
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 ポップシンガーのASKAが今、日本のマスコミを騒がせている。数週間前、覚せい剤取締法違反容疑で2度目の逮捕に至った後、東京地検による不起訴の決定を受けてこの12月19日、彼は釈放された。

 

  それだけでも想定外の事態なのだが、さらに不起訴になった経緯がナゾだらけであることから世間の関心は大いに高まっている。
 

それによってこの事件は芸能ゴシップを超えて、社会問題にまで発展したと言える。そして深く掘り下げてゆけば、1つの大きな陰謀、警察権力の深い闇までが浮かび上がってくる。ここから書くことは飽くまで推論だが、一連の事実を丁寧に論理的に整理した結果でもある。

 

 

結論から言うと、この不起訴決定の核心には、

警視庁の科捜研による鑑定ミスを警察と検察が隠蔽しようと

しているのではないかという疑惑がある。

 

次に、結果的に誤認逮捕の被害者となったASKAを

その陰謀に強引に協力させようとしているのではないか。

そのために現在、執行猶予中という危うい立場にある

ASKAに対し、

権力側がその弱みをついて圧力をかけたのではないか

 

 

 そういうことが推測できるのだ。そんなのは確かな根拠もないただの荒唐無稽の陰謀論だ。そう思う方にこそ、これから書くことを丁寧に読んでいって欲しい。

 

 

 

 

 一連の事態をシンプルにまとめよう。2年前、ASKAは覚せい剤取締法違反容疑で逮捕され、実刑は免れたものの有罪が確定した。

 

 そして執行猶予中の数週間前、彼は自宅に警察を呼んだ。スマホやパソコンを通した盗撮盗聴行為を訴えたが、警察は意味不明の言動と捉え、覚せい剤の前科があることから、ASKAの自宅内で任意で彼の尿を採った。

 

 そして警視庁の科捜研でそれが覚せい剤の陽性反応を示したことから逮捕。だが約3週間後、東京地検が嫌疑不十分という不起訴処分を出して、ASKAは釈放されることになった。地検のコメントはこうだ。


「被疑者(ASKAさん)が尿として任意提出した液体を鑑定した結果、覚醒剤が含まれていたことから使用の罪で逮捕・勾留した。しかし捜査の結果、被疑者の尿と立証するのが困難だと判断した」


 一方、ASKA自身は釈放の翌日にアップしたブログでこんな説明をしている。自宅で採尿された時、密かにスポイトでお茶を入れた。理由は自分の尿を入れてしまったら、科捜研と警察に陽性にされてしまうからということだった。

 

 この行為自体は奇妙だが、動機は納得できる。盗撮盗聴を訴えていた当時のASKAは猜疑心をつのらせており、警察を信用していなくてもおかしくはない。そのため確実に陽性反応が出ないようにお茶を入れたという行為も理にかなっている。

 

 だが、お茶を入れたことは現実的にはありえないのだ。

 

 なぜなら、どのような種類のお茶でも覚せい剤反応が出ることはなく、さらに科捜研では尿検査の前にそれが尿であるかどうかという簡易検査も行われるためだ。


 その後、お茶すり替えに対する疑いがマスコミに取りざたされると、すぐにASKAはブログを更新した。内容は、最初のブログで警察を疑わしいと書いたことへの謝罪。次に科捜研が出した陽性の判定は間違っていないこと、そして陽性が出たのには、ある秘められた理由があり、詳細はいずれ発表するということだった。

 

 だが、その言葉は疑わしい。最初のお茶説があまりにバカげていたことから、それに代わる理由を探そうとする思いが読み取れる。

 

 つまり、そこにはウソの上塗り、虚偽の書き換えの意思がある。今、それを発表できないのも、より良いアイデアが浮かぶまでの時間稼ぎのためではないか。


 だが、このブログにおける最たるポイントは

ASKAが科捜研、または警察を

擁護しているということである。

 

 釈放後一発目のブログでは、自分を陥れようとしているように書いた国家権力に対し、その態度を180度変えたのだ。そして、そこからはASKAが最初のブログ発表後に警察から圧力を受けたのではないかという明白な疑いが出てくる。

 

 

 

 

 ASKA不起訴処分に関する最大のナゾは、

なぜ警察や検察は逮捕後のASKAの尿への再検査について

何1つ言及さえしないのかということだ。

 

 最初に陽性の出た尿が本人のものだと分からず、かつ少量のため再鑑定もできないのであれば、当然、逮捕後にもう1度ASKAの尿を取って科捜研で再検査させるだろう。

 

 だが、この問いについて、検察もASKAも共に沈黙している。一方でニュースやワイドショーでさえ、この最も不可解な点を追求するものはほとんどなかった。

 

 検察の不起訴に関する発表では、逮捕の決め手になった科捜研の検査で陽性反応を示した尿がASKA本人のものだと立証できなかったということだった。

 

 原因は、自宅での任意検査だったため捜査員が採尿の際に本人確認を怠ったからだという。さらにその採尿量がわずかだったため再検査することもできず、嫌疑不十分となったと言う。

 

 この発言には明らかな矛盾がある。

 

 まず、科捜研で陽性反応を示したのであれば、それは確実に尿でありかつ覚せい剤成分が含まれていたものになる。

 

 そして検察が言う通り、それがASKA本人のものだと立証できないのなら、別件で彼を再逮捕できるハズである。

 

 本人のものかどうか分からないということは、捜査員や科捜研が尿を取り違えるという大失態がない限り、ASKAが別のものにすり替えたということだ。であれば、他人の覚せい剤成分入りの尿、あるいは保存していた自分の過去のそれにすり替えたという事である。

 

 特にASKAのような執行猶予中の者がそんなことをすれば、公務執行妨害が生じるだろう。さらに、それが微量でも覚せい剤所持の疑いで再逮捕されていることだろう。

 

 何よりも、そういうことであれば、東京地検はASKAによって最初の科捜研の検査がかく乱させられたことを発表しているだろう。だが、実際はただ尿が本人のものだと特定できなかったと言うのに止めている。

 

 

 第二に、採尿が微量だったのがおかしい。いくら便意がなくても成人男子の排尿量がごくわずかだったというのはおかしい。

 

 たとえ微量であっても、その後に改めて採尿できるチャンスはあったハズだ。覚せい剤による尿の陽性反応は使用後、1週間ほどで消えるという。だが、逮捕してすぐに再検査すれば出てくる可能性もある。この場合、逮捕時にはすでに証拠となった尿が微量だと分かっていたハズなのだから。

 

 また識者によれば、警察には容疑者に対して強制的に尿検査できる権利があるのだという。特に警察は、逮捕した容疑者に対しては起訴するために最大限のことを行う。いくらASKAが弁護士とグルになって覚せい剤使用を隠蔽すべく断っても、最初の検査が不確かなら警察は改めて彼の尿を採って科捜研で再検査させるハズである。

 

 検察のASKA不起訴に関する発表は、明らかな矛盾だらけだ。よく考えれば、そこにはある1つの思惑がすけてみえる。

 

 それは最初の科捜研による尿の覚せい剤の陽性判定をただ、本人のものかどうか分からないというアイマイな理由で、全くなかったことにしようとする意思である。さらにその場合、逮捕後に再検査するのが必然的な流れだが、東京地検は、それに言及することもなかった。

 

 

こういったことから1つのことが読み取れる。

それは検察や警察が、科捜研の検査自体を

もみ消そうとしているのではないかということだ。

 

 

 

こういった考えから、逮捕後の経緯について次のような推測が成り立つ。

 

 ASKAは逮捕後、自らの無実を証明すべく、任意検査ではない本格的な採尿検査を要求した。「最初に検査された尿は、自分のものではなかった」 警察関係者によると、こういう訴えは、多くの薬物逮捕者がよく口にすることでもあるという。

 

 そこで改めてASKAの尿を採取したが、科捜研でそれは“陰性”反応を示した。

 そこでそれがクスリの使用から日にちがたった尿だったために起こったのだと解釈し、改めて最初に採取した尿を本格的に再鑑定した。

 

 だが、ここで想定外のことが起こる。

 その再鑑定で、最初の検査とは逆に、

ASKAの尿は陰性反応を示したのだ。

 

 原因はいろいろと考えられる。技術的なミスか、別人の尿との取り違えか。あるいは、最初のASKAの尿には微量ながら覚せい剤成分が残っていたのだが、再鑑定でよく調べるとそれは数年前のものだったということだ。

 

 莫大な国家予算が積まれた科捜研ともなると、覚せい剤の尿反応を年単位の長期間に渡って割り出せる技術を持っていたとしてもおかしくはない。

 

 その精度の高さが災いして、

最初の検査でASKAの尿から数年前の覚せい剤成分

を割り出してしまった。

そいういう可能性は充分にある。

 

 

 

 

 そんな事態になれば、警察にとってそれは

致命的な失態になる。

それは不確かな証拠による違法逮捕だけに

収まるものではない。

 

科捜研とは警察の信用に関わる絶対的な精度を

必要とされる組織であり

そこにミスがあれば警察の信頼自体が根本的に揺らぐ。

 

なぜなら科捜研にミスがあるのであれば、過去に裁定が下った

すべての事件が疑わしいとさえ言える事態に陥るからだ。

 

 

 そこで、検察や警察は問題を軽いものにすり替えようとしたのではないか。科捜研の検査ミスではなく、ASKAの自宅でいい加減な採尿をした捜査員、そしてASKA自身にも責任を負わせようとしたのではないか。

 

 どうやってその企みにASKAを協力させたのか。逮捕時から彼は誤認逮捕を訴えており、科捜研の再検査で陰性反応が出たならその後、警察を相手に訴えていてもおかしくはない。だが実際、釈放後、彼は皮肉にもブログの中で警察や科捜研さえ擁護するような立場を取っている。

 

 そこで考えられるのは、警察や検察による圧力だ。ASKAは現在、執行猶予中という危うい立場にある。おそらくは投獄されることを人一倍恐れているのではないか。

 

 そこで警察はその弱みをついた。科捜研のミスを一緒に隠蔽するように持ちかけ、そうしないなら本格的に捜査して執行猶予を取り消すといった脅しをかけたのではないか。他にも幾らでも脅し文句は考えられる。

 

これは司法取引の枠さえ超えた警察の違法行為であるが、決してドラマにしかないような荒唐無稽の話ではない。

 

 ディスカバリーチャンネルなどでアメリカの犯罪ドキュメンタリーがあるが、アメリカでは実際、前科者の弱みをついたこういう警察の脅迫行為が行われている。

 

 執行猶予中や仮釈放中の前科者を署に連れ込み、刑務所に送るぞという脅し文句をつきつけ、警察に都合のいい証言をさせて別件を片づけるというものだ。それによってアメリカでは、多くのえん罪事件が生まれている。

 


 釈放後、ASKAは自らが最初の採尿検査でお茶を入れたと明かした。そしてそれが識者によって明らかに不合理だと指摘されると、今度は陽性反応を引き出す秘密のことをしたと明かした。

 

 また彼は逮捕前から警察や科捜研に疑いをつきつけており、釈放後もその思いをブログで書いたが、その日のうちにそれを撤回した。そこには警察を悪者にしたことへの謝罪、そして科捜研の最初の検査が間違っていないと書かれていた。


 この一連のフカシギな事は、ある1つのカギがあれば1つになる。それはASKAが警察権力によって操られているということだ。す

 

 べては科捜研のミスという警察の最たる不祥事を隠蔽するために、前科者の弱みをついてASKAに虚偽を強要しているのではないか。

 

 もし科捜研の最初の検査ミスを隠蔽したいのであれば、科捜研の再検査で出た陰性反応を陽性だと捏造し、起訴まで持っていけば良かったのではないかとも考えられる。であれば警察は不起訴の汚名をかぶることもない。

 

 だが、日本は法治国家である。起訴されれば、弁護士に代表される事件とは無縁の第三者が出てきて、徹底的に外部調査がなされることになる。

 

 となれば、警察と科捜研が癒着して罪をでっち上げたというより大きな不祥事が明るみになるリスクも出てくる。そのために、警察や検察は不起訴という不名誉な選択を、責任を取らない形で最小限のダメージでやるということに出たのではないか。

 

 

 

 

 

 

 今後の展開を考えると、おそらくASKAはブログの宣言どおり、「お茶を混ぜた」というバカげた言い訳に変わる新事実を明かすだろう。だが、それはおそらくまた新たな珍説になるハズだ。

 

 そして事件の疑惑を抱いたまま残りの人生を過ごすことになるだろう。


 一方で、警察も不起訴にしたことで一切の質問を受け付けないだろう。クスリで頭がおかしくなった前科者が警察の捜査をかく乱させ、また最初の採尿で捜査員が小さなミスをしたことから、誤認逮捕が起こった。

 

 沈黙の内にそういう事件の決着イメージを世間に与えることだろう。そうして、すべては闇の中に葬り去られるのだ。

 

 ここまで書いたことは、この事件にまつわる数々の事実を元にして出来るだけ論理的に推測したものだ。だが、もちろん真実は別にあるのかも知れない。

 

 世間の大方の意見通り、単に最初に採尿した捜査員が恐ろしくマヌケな人物であり、逮捕後、そこをASKAの弁護士につかれて不起訴になったという、最も退屈な真相かも知れない。

 

 

ただ、どう決着しようとこの一連の事件は

1つのことを突きつける。

それは国家権力というものが根本的に疑わしいということだ。

 

この事件を受けてマスコミはもちろん、ネットの中でさえ、

科捜研を疑う意見は ほとんど見られなかった。

 

だが、そこにミスがあったと考えれば先に書いたよう

大方のことは説明のつくものになる。

 

どんなに完全なものでも完全に疑いのない

ものなどは、この世に存在しないのだ。

 

 

 日本の科捜研はよく100%の検査制度だと言われる。また日本の検察庁は99.9%の確率で起訴された被告を有罪にするということも広く知られている。

 

 だが、100%というものほど疑わしいものはない。なぜなら、それは明らかに不自然な確率であり、人為操作なくしては決して成り立たないものだからだ。

 

 

 警察、科捜研、検察。

 

 

 これらは長らく治安大国日本を最前線で支えてきたものだ。だが、同時にこれは魔のトライアングルとも言える闇を秘めてもいる。そこに落ちたものは、たとえ無実であっても無事には帰って来れない。釈放後のASKAの憔悴しきった顔が、それをハッキリと示していた。■