11/08/22 忙しいあなたの代わりに新聞読みます 月曜コラム
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11/08/22 Vol.1804 まぐまぐ、melma!、めろんぱん 合計読者数35000人
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[9] 月曜コラム「ON THE STREET CORNER」
松本由歌子:音楽フォトグラファー
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8月6日の横浜トリエンナーレ初日にまず訪れたのは、黄金町バザールでした。
その日の夜に、渋谷のブルース・バーで70年代のロックに酔いしれ、翌日7日、
ジョー山中さんの永眠を知ったせいで、初期のロックのことをもっと知りたい
という気持ちでいっぱいになってあれこれ検索すると、アート目的で訪れた黄
金町こそが山中さんの出身地だったのです。
そして、山中さんの人生を語る上で、1946年に横浜に生まれたという事が、と
ても大きな意味がある、重要ポイントのように思えました。それでまず、横浜
の歴史をたどってみようと思いました。
幕末の日本に黒船が来て、幕府により交渉の場に選ばれるまでの横浜は、たっ
た101戸の農民、漁民が住んでいるだけの、小さな村でした。ですから、横浜
の政治や産業、文化の歴史は、ここから約150年余りしか記されません。
ペリーとの日米和親条約が締結し、日本が鎖国を解いて開国したのは、今から
157年前です。その後明治維新が成し遂げられるまでの15年間に、外国に関す
る何もかもが、横浜にて行われました。本丸である首都東京を守るためです。
政府は、「港の見える丘公園」より南側の山手地区に洋館を建て、外国人が住
むエリアを区切りました。現在公開されているアニメ映画「コクリコ坂から」
でも、洋館が立ち並ぶ元居留地と、日本人エリアの元町は、風景も違います。
元町には幕府が大店に、支店進出を命じたそうです。
そして関内にはやはり幕府命令で、遊郭が開かれました。遊女の数が数百名と
いう、とても大規模なものだったそうです。理由は、外国人が江戸に行かない
ように、横浜村につなぎ止めるためでした。ドラマにもなった漫画「JIN-仁-」
の後半で、元花魁の野風が横浜の遊女のために病院を建てるエピソードがあり
ますね。現在、その場所には、横浜スタジアムが建っています。
明治維新後も、外国人が多く住む港湾都市、貿易都市として、洋館が立ち並ぶ
国際都市横浜は、発展してゆきます。
しかし、1923年の関東大震災によって横浜は、首都圏以上にひどい打撃を受け
ました。
レンガ造りの洋館が多かったのが災いして、崩れた重い瓦礫の下敷きになって
しまうケースが多かったにも関わらず、助けが来なくて、震災後三日間も放置
されたのだそうです。東京もひどい状況だったため、どうしようもなかったの
でしょう。そして、瓦礫の量の多さは、木造建築とは比較にならず、復興は、
より困難を極めました。欧米商人の多くが帰国撤退したために、中国人が中華
街を発展させました。
震災後10年足らずかかって復興した横浜は、ダンスホールからジャズが流れる
独特の雰囲気を持っていたようです。日本初のジャズ喫茶も、昭和初期に横浜
に誕生しました。「マドロスさん」と呼ばれた外国人船乗りが、遊んだ酒場に
は、異国の文化がいろいろと持ち込まれたんですね。
しかしやがて戦争が始まり、「敵性音楽」であるジャズを初めとする英語の
歌は全て禁止になり、レコードは没収されます。1945年になると、空襲で焦土
と化し、隠していたレコードも蓄音機も、全て燃えてしまいました。
終戦を迎え、焼け野原になった横浜の街には、たくさんのアメリカ軍が進駐し
ました。占領下にあった日本国が主権を回復するのは7年後の昭和27年です。
米兵向けの店で、ジャズが再び流れ出し、進駐軍キャンプでバンド演奏をして
た中から、渡辺貞夫さんを初めとする名プレイヤーが次々と生まれました。
現在公開されている、ジブリ映画「コクリコ坂から」は、主権回復から11年後
の、昭和38年の設定です。この年に坂本九の「上を向いて歩こう」がヒットし
ています。当時のポップス歌手やミュージシャンのほとんどが、デビュー前の
下積み時代に進駐軍キャンプを回って、実力をつけていったそうです。
たった150年程の間に、怒涛のように色々な難題が降り注ぎ、その度にたくま
しく復興してきた横浜の街は、まるで、何度リングでダウンしても、あきらめ
ずに立ち上がるしぶといボクサーのようです。
終戦翌年に、黒い肌で生まれた山中さんは、小学生で母親を亡くし、養護施設
から中学に通っています。その人生は、さぞかしハードで辛かったのではと、
つい想像してしまうのですが、インタビュー記事を読むと、運命を恨んだ事は
ないとあります。それを私は最初信じられなかったのですが、こうやって横浜
の歴史をひもといてみると、他の地方とは違う独特の空気があり、きっと山中
さんも、人々の情けや愛情をいっぱい貰ってまっすぐ育ったのだと納得します。
山中さんが、世界中をボランティアで飛び回り、亡くなる直前に起きた阪神大
震災の募金活動の為に歌ったのは、自分が焼け野原に生まれ孤児になっても、
周囲が暖かく支えてくれて、幸せに育った「愛の記憶」がルーツなのでしょう。
「コクリコ坂から」を企画した、宮崎駿監督は、「このころは孤児を他人が育
てるのが珍しくない時代だった」と語ったそうです。主人公の少女は、昭和38
年で17歳の設定ですから、昭和21年生まれのジョー山中さんと同い年です。
横浜の持つ包容力の秘密はどこにあるのでしょうか。それはもしかしたら、歴
史の浅さがプラスに働くせいなのかもしれません。いつだって新しい事を、素
直に受け入れてきたこの街には、古めかしい守旧派が存在しないのですから。
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http://ameblo.jp/yukko-i4r/entry-11096450496.html
補足コラム
横浜はいいところばかりで、なかなか回り切れません・・・
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ロックミュージシャンのステージ写真ほかをお楽しみくださいね