台湾大虐殺ともいわれる二・二八事件は、1947年2月27日に台北市で闇タバコを販売していた台湾人(本省人)女性に対し、国民党政府の取締の役人と憲兵が暴行を加え、無関係な台湾人が射殺されたことが発端となった事件です。翌日1947年2月28日には市民が市庁舎へ大挙して抗議のデモを行いました。しかし、外省人側は、市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射を行い、十数名の市民が死傷しました。

 これが発端となって台湾全島で抗議行動が発生し、デモ隊はラジオ放送局を占拠し、君が代や軍艦マーチなどの曲を放送し、日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」との放送を行いました。また、民衆の間では、日本軍が台湾を助けるために基隆港に上陸するというデマも流れたようです。しかし,一時優位に立った民衆側は,3月8、9日に中国国民党軍から送られてきた2個師団が上陸すると、劣勢に転じました。中国兵はトラックに据え付けた機関銃を乱射しながら町の大通りを駆け抜け、無差別殺戮を行いました。司馬遼太郎の本に出てくる蔡焜燦さんによると、手のひらに太い針金を通されて、9人一緒につながれ、銃で撃たれて、海に突き落とされたそうです。犠牲者は2万8000人といわれていますが、現在でも正確な数字は分かっていないようです。

 二・二八事件の際、戒厳令が発令されました。戒厳令とは司法、立法、行政の権限が軍に任されることです。戒厳令下では、軍人が民衆を殺しても、司法の権限が軍にあるために裁判所では裁くことができません。発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、表向きは事件が収束したように見えた後も白色テロと呼ばれる恐怖政治が続いてきました。国民党が戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていました。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、22歳まで日本人として京都大学で学んだ李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことです。


2007年に60周年を迎えた二・二八事件の特集番組の一部。中国語です。英語の字幕付き。

二・二八事件の記念碑
二・二八事件紀念碑。台北市。クリックで拡大。

参考サイト
二・二八事件(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

蔡焜燦~元日本人の歩んだ道(国際派日本人養成講座)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog189.html

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