誕生日に奈良へ行ったワケ①土塔 | 心に光を呼びます Padme★yuki

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誰の心にも、神様とのホットラインはあります。
いろんなもので隠れてしまってるだけです。
私でよければ、見つけるお手伝いをします。

 

 


10月の末に
高野山へ行きました★

その時に
奥の院で祈っていたら

キタんです。

言葉で伝わるわけではないです。
耳に聴こえるわけでもない。
(私の場合はね)

情報の玉がポン
て入るかんじです。

だから、いっぺんに全てが伝わる。

誕生日に
大仏へ


大仏ってのは映像で伝わり
どの大仏かは、
『行基』の情報が入ってました。

「なぜ行くの?」
なんて問いません。
理由なんて
いらない。

誰からの指示かは
わかります。
(サニワなんて言葉も使いたくない)



今回は一人で
との指示。
(いつものこと~)
よほど大事な用件の時は
いつも一人です。
どんなに遠くても。



行基の足跡が気になってました。
そこに、
『東大寺へ行け』と。

行基(ぎょうき)
682年(天武天皇11年)に15歳で出家し、
飛鳥寺(官大寺)で学び、
集団を形成して
貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。
道場や寺院を多く建立しただけでなく、
溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、
困窮者のための布施屋9所などの設立、
数々の社会事業を各地で成し遂げた。
民衆への仏教布教活動を禁じた時代に、
禁を破り
畿内(近畿)を中心に
民衆や豪族など階層を問わず
広く仏法の教えを説き
人々より篤く崇敬された。
しかし、
民衆を煽動する人物であると、
また寺の外での活動が
僧尼令に違反するとされ、
養老元年4月23日詔をもって
糾弾され弾圧を受けた。
朝廷から度々弾圧や禁圧されたが、
民衆の圧倒的な支持を得て
その力を結集して逆境を跳ね返した。
その後、
聖武天皇により

大僧正
(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)
として
奈良の大仏(東大寺)造立の
実質上の責任者として招聘された。
この功績により
東大寺の「四聖」の一人に数えられている。




12月2日の夜、
ヒーリングのおしごとを終えて
高速道路のSAで仮眠をとりながら
じわじわと進む。
(いつものこと)
ちょっとたくさん眠ってしまって
最初の目的地に着いたのは
昼近くなってしましました(笑)



最初に行ったのは
大阪にある
行基の呼びかけで作られたという
土塔へ行きました。

 

 

 

 

 


727年(神亀4年)行基によって
大野寺が創建され、
その際に土塔も築かれたとされている。
瓦の寄進者とみられる人名が箆で刻まれている。
文字瓦の中に
神亀4年銘を有するものがあり、
土塔は行基在世中から
遅くても
8世紀後半に築造された

と考えられている。
大野寺は室町時代に一時中絶したが、
江戸時代になって土塔の前に再興された。
遺跡は、一辺53.1メートル(180尺)
高さ9.0メートル(27尺)に及ぶ、
ピラミッドのような形状で、
東西南北の正方位に位置
し、
13重の塔であったと推定されている。



墓ではなく
仏塔のようなものではないか?

と、説明には書いてある。
でも
古墳にしろ
エジプトのピラミッドにしろ
どう考えても
これは、墓でしょう!
けど、
埋めてあるのは
『人』ではない。



奈良j時代
天武天皇が、
縄文の神々を禁じた。


縄文時代は、
約1万年続く。
シュメール文明よりも長い。
歴史のお勉強では
原始的な生活
と教えられたけど
じゃあ
現代の科学で、琥珀を作りだす技術はあるのか?
黒曜石を、必要な分をだけ順序だてて切りだす
節操を現代人はもってるか?
(天然石売ってる私が言うのもなんだが)
余計な文明はなかったでしょう。
人を堕落させる文明は作らない。
でも、神と共に暮らし
世界に感謝して
自然と協調して暮らしていた縄文人は
現代人よりはるかに
文明的だったのではないか?
と、私は思うのです。

縄文人=和人が崇めてきた神を
天武天皇は
捨てろ
と命令を出しました。
お前たちの神は天皇である
天皇を崇めよ

と、神を天皇に書き替えた
『古事記』を配布した。



ちなみに
天武天皇から8代まで
ユダヤ民族だそうです。
旧約聖書を読んでみた20歳の頃、
読んでて怒り心頭
「こんなのは神じゃない!!」
と、ゲキオコになりました。
(古事記を読んでもゲキオコ)
天皇は、代々の天皇に祈りを捧げますが
天武から8代まで
除外だそうです(笑)



縄文の神々を記すものは
すべて焼却・破壊されました。

でも、こっそり隠して
みんな縄文の神を崇め続けていました。
そして
縄文の神に祈りを捧げてきた人々は弾圧されました。
その人々が、山岳信仰、修験道の大元。
彼らを朝廷は、鬼、天狗と呼び
抹殺しようとしました。
信仰をやめない
   ||
朝廷に従わない
   ||
まつろわぬ者たち
   ||
蝦夷(えみし)
も、抹殺しようとしました。

奈良公園の裏山は
毎年、焼かれます。

 

 

 

なぜ?
鬼退治をしたのが始まりだそうです。
悪い鬼が、山に隠れて悪さをするので
山を焼いたそうです。
意味、わかりますか?
山岳信仰の人々が逃げ隠れ
祈りを続けていました。
きっと、天皇にたたりを!と
呪術も使っていたかもしれないですね。
(なので、短い期間にどんどん天皇が替わっています)


行基は、朝廷から弾圧されてました。
なのに、コロっと態度をかえて
行基を大僧正として迎えました。
その時の行基には
側近がたくさんいたし
行基の話を聴こうと
たくさんの人が集まっていました。
けど、朝廷に召喚された行基は
一人で行きました。
運命を知っていたのでしょう。
行基の人気を利用して
民衆を動かそう。
鬼どもをおとなしくさせよう。

そんな魂胆など
行基はお見通しです。
でも、あえて、呑みました。
なぜでしょう?
ナウシカを思い出してください。
「これ以上、
誰も死なせたくない。
この人達に従いましょう」

 


その言葉に
行基を慕っていた人々は
従いました。
隠し持っていた
縄文の神の像や神話、
(文字がないなんて嘘です)
文献や絵や、宝飾品など
この土塔の下に
埋めたのではないかと
考えています。
瓦に、名前が彫ってあるのは
それらを持ってきた人。



現代になって
調査したとは思いますが
「なんのために作られたかは謎」
としているのは
歴史上
明るみにしては困るから
ではないでしょうか?

 




つづく・・・