ゆうきは、ゴールデンウィーク後の休みを利用して、実家に帰っていた。予報では、5月7日からは、天気が良いとのことだ。この日も、予報は晴れ。暑い日になるとのことで、緑の多い東京都下を走れることに、彼の気分は高揚していた。
前日の酒が少し残ってはいた。けれど、走ることを中止するなんてことはできない。仕事のない日、しかも好天であれば、走らないなんてありえない。
走り始めたのは13時過ぎだ。二日酔いの回復を待つ、洗濯をする、電池の切れたウォークマンを充電する。そんなことで、午前中の時間を費やす。
前日にそのいくらかでも準備ができないものか、いつもそう思うけれど、長年そうしてきたスタイルというのはなかなか変えることができないものだ。
そんなことを思い、苦笑しながら、ゆうきはようやく走り始めた。
彼の実家のすぐ前を、野川という、のどかな川が流れている。彼がこの三鷹という土地にやってきたのは小学5年の時だった。その当時から、こういうのどかな自然というものが好きだった。どじょうを採ったり、学校の教育の一環として、鮭を放流したりもした。なじみの深い川だった。
社会人となり、一人暮らしを都心で始め、いざ帰ってみると、やはりその自然の豊かさを実感する。実家を出る前は、この川をよく走ったものだった。その自然が、彼の足を養ってきたといっても過言ではないのだ。
家を出て、5kmほど下流へ進むと、成城の辺りを走ることになる。野川は、上流から下流に至るまで、なかなか緑が残る川だ。世田谷区に入っても、初夏のこの時期であれば、目を潤す緑が飛び込んでくる。
そのまま川を下る予定だったが、少し思うことがあって、ルートを変更した。
野川が成城に入る辺りでは、左岸が丘陵になっている。その丘を上ったところが、所謂高級住宅街、「成城」なのだ。坂道を走る訓練を兼ね、そちらに足を向けた。
案の定、良い坂が出現する。彼は、前脛骨筋肉を痛めていた。その日は、テーピングを貼ってのランであり、スピードは出さないロング走の予定だった。けれど、坂を見ると、血が騒ぐ。そういう性分なのだ。気がつくと、ほぼ全力で駆け出していた。手元のGPS時計は、3:58/kmを表示している。傾斜がきつく、それなりに長い坂だ。それ以上にペースを上げることはできなかった。途中のわき道から、自転車に乗ったうら若い女性が現れ、歯を食いしばり坂を走り抜ける彼に、好奇の眼差しを向けていた。
坂を登り切ると、呼吸は激しく乱れ、暑さもあり、ひどく発汗した。必死に呼吸を整えながらも、それなりの達成感を味わいながら走っていると、成城の街並みが広がる。
街全体が、どことなく余裕を持って構えている。彼は、これが人生の勝者の街なのだろうか、などと考えながら、自然と先ほどの疲れを忘れ、スピードを上げる。
成城の街並を走り抜けると、再び野川に戻った。やはり、水辺というのはいい。陽気のある日でも、いくらか温度が低い。さらに、車の喧騒もなく、信号もないので走りやすいのだ。
成城から少し下れば、野川と仙川の合流地点に到着する。この辺りでは護岸がされているため、心なしか自然の緑が少ない。けれど、彼の住んでいる地域に比べれば、まだのどかな雰囲気を残しているといえる。
通常であれば、野川、仙川の合流地点を折り返し地点として、仙川を遡上するのだが、それだとその日の目標である距離を稼ぐことができない。通常コースだと28km。目標は30kmだった。そこで、さらに少し進む。
1kmほど進む。遠くに見えるのは、双子玉川駅近辺のタワーマンションだ。
これで距離は稼いだろう。あそこまで行くと、40kmくらいのランになる。ゆうきは踵を返し、仙川へと戻る。
仙川の遡上は、ランニング的には少しきつい。何故ならば、上流に向かって進まなければならない。さらに、野川より短い距離を、野川と同じ高低差だけ登らなければならないからだ。ランの中盤以降なので、尚更足にくるのだ。
仙川遡上を開始するとすぐに、東宝の撮影所がある。この辺りは、桜並木があって、4月の、ソメイヨシノが満開の時期は、それは美しい景色となる。
5月に入っており、桜はすでに、そこが桜並木だったことなど微塵も感じられないほどに散っていた。けれど、代わりに鮮やかな新緑が、仙川を覆っていた。ゆうきは、そんな景色も大好きだった。
さらに進んでいくと、川沿いには、成城大学、祖師谷公園がある。
祖師谷公園は、仙川の両岸に広がる公園だ。ちょっとした水辺もあり、休日は家族連れやカップルで賑わう。そんな和気あいあいとした公園だが。その北端には、対称的なものがある。
上祖師谷一家殺人事件という、凄惨な殺人事件がある。犯人の遺留品が多数残っていたにも関わらず、事件当時の時効期間を経てもなお、解決されなかった、不可解な事件だ。今では時効撤廃により、捜査が続けられている。
その事件の舞台がここ祖師谷公園の一角にある。
家主を失った家屋には、どことなく寂しさが漂う。ミステリ好きのゆうきにとっては、この事件は大変興味のあるものであった。しかし、この場所を通る時はいつも、亡くなった方の冥福、ご遺族の心の平安を祈らずにはいられなかった。
ひとしきり、事件に思いを馳せながら走っていると、前方から女性ランナーが走ってきた。ゆうきは一目で、競技志向のランナーだなと思った。引き締まった細い体躯。無駄のないランニングフォーム。一瞬見ただけだったが、彼の好みの容姿だった。下心があるわけでもないが、並走してみたいと思った。なんとなく後ろ髪を引かれる思いで、上流へと足を進めた。
黙々と走る。甲州街道を横断し、白百合女子大を過ぎ、10kmほど進むと、そろそろ仙川を離れる時だった。川を離れ北上すれば、井の頭公園へと到着する。その時点で、だいたい23kmといったところだ。 井の頭公園南端には、土のトラックがある。一周はだいたい400
m。
せっかくなので一周くらい走ろう。そう思って給水をしているところだった。突然肩を叩かれた。
「勝負しませんか」
振り返ると、そこには優駿を思わせる体躯の女性が立っていた。細長い脚、黒のランニングパンツ、ピンクのラインの入った白地のウィンドブレーカー、緑のキャップにポニーテール。
祖師谷ですれ違った女性ランナーだった。激しい戸惑いを感じた。祖師谷から井の頭までの距離、彼女は、彼の後についてきたということなのだろうか。
「私と・・・・・・ですか」
ゆうきは辺りを見回しながら応え、しまったと思う。彼以外にランナー然とした人間はいない。だいぶ、頓狂な応えではある。
「そう、好い走りをしてたから、悪いけど少し後を付けてしまいました。あなたは、なかなです。それで、ちょうどよくトラックがあった。だから、一緒に走ってみたくなりました。もちろん、一緒に楽しく走るんじゃないです。勝負がしてみたいのです」
なんて勝手なのだろう。そして、かなり上から目線な発言だ。けれど、戦いを挑まれるのは不快ではなかった。彼女の歯に衣着せぬ物言い、颯爽とした外見がそうさせていたのかもしれない。ある種の憧れを、一瞬んで抱かせるような女性だったのだ。
「いいでしょう。やりましょう」
気付いたら、自然に口をついて出ていた。と同時に、彼の心拍は急激に上昇する。ランニングにおいて、誰かと直接勝負するなど、初めての経験だったからだ。
「ルールは私が決めていいでしょうか?このトラック、だいたい400mってとこでしょう。このトラックを2周、先にスタート地点に戻ってきた方が勝者。単純でしょう?」
初めて見たと思われるトラックの1周距離を言い当てるということから、やはり只者ではないと実感する。2周なら800m。ほとんど短距離のスピードレースだ。瞬時に頭の中で、普段のペースでは勝てないなと計算する。ゆうきは黙って頷いた。
「そこに時計があります」と言って、彼女はトラック傍にある時計を指差した。針は3時半の少し前を指している。
「3時30分ちょうどをスタートとしましょう。いいですか?」
また、ゆうきは何も言わずにうなずいた。
それから、時計の針を見つめる時間が続いた。名も知らぬ彼女も、静かに時計を見つめいている。鼻筋が通り、横顔が凛々しい。思わず見とれてしまう。
「10秒前」突然、彼女が叫ぶ。ゆうきも時計に目を戻した。
「4、3、2、1、GO!」
号砲こそないが、彼にはそれが聞こえたような気がした。それほど意識を張り詰めなければいけない雰囲気が、そこにはあった。
最初の直線を進む。思っていた通り、彼女はかなりのハイペースだ。手元の時計では3:10/km程度。これは、さらに上がる恐れがありそうだ。と、ある意味のんきに構えていると、すかさず彼女が先行する。明らかに、マラソンのペースではない。けれど、戸惑っている場合ではない。いくらなんでも女性に負けるわけにはいかない。それぐらいのプライドは、彼にもあった。
負けじと彼もスピードを上げる。手元の時計は2分代中盤に入っている。練習でここまでのペースを出したことは、なかなか無かった。きつい。心拍数が跳ね上がる。日差しが、暑さが、彼を追い詰める。
1周が終わる。彼らはほぼ、並走状態だった。
2周目、彼女がさらにスピードを上げた。口元がぎゅっと結ばれたのを、ゆうきは見逃さなかった。が、そこから彼は、スピードを上げることができない。
無理だ。この後7kmほどを走って帰ることを考えると、それ以上のペースアップは無謀なように思えた。彼女との間隔は、少しずつ開いていく。
そして、ゴール。
「勝ちました!」
ゴールすると同時に、彼女は快哉を放った。少し遅れて、ゆうきもゴール地点に到達する。
それでも彼女の快哉は、気持ち良いくらいの爽やかさで、悔しいとか、不甲斐ない自分に腹が立つとか、そういう感情を呼び起こすものではなかった。負けたのに、なぜか清々しい気分でもあった。
「勝負してくれてありがとうございます。やっぱり、良い走りでした」
荒い息を整えながら、彼女は微笑で言った。
「いや、私もかなり追い込んだつもりだった。でも、あなたはさらにすごい。とても素晴らしい走りをした」
ゆうきも、やっとのことで応えた。正直には、しゃべりたくないようなコンディションだった。けれど、ランナーとしての勝負をした者として、どうしても、即座に伝えたかったのだ。
「ありがとうございます」彼女は快活に応える。
「でも、あなたはこのあと、まだ少し走るのでは?」
「そうだね。あと7kmほどは走らないと家に帰れない」
「そうですか。だから、無意識にスピードを抑えたんじゃないかしら」
まったくもってその通りだった。ゆうきは、こくりとうなづく。
「やっぱりね。でも、あとたったの7km。ここで全力を出しても、ゆっくりのペースなら帰れないことはなかったんじゃないかしら」
ゆうきは、はっとする。言われてみればそうだ。例えそこで、持てるスタミナの殆どを使ってしまったとしても、ペースを下げられるだけ下げれば、ゴールすることは可能なのだ。
「その通り。返す言葉もない」
彼女はにこりと微笑む。
「そうやって自分の限界を早くに決めてしまうのは良くないことなんじゃないかな。全力を出せるときに全力を出し切る、それができれば、あなたはもっと速くなれると思うんだ」
彼女はいくぶん、砕けた言い方でそう言った。
「またしても、その通りだね。これは完全に私の負けだ。最後にひとつ、質問したい」
「何かしら」彼女は小首をかしげる。
「君とすれ違ったのは祖師谷だ。で、君は仙川を下流に向かっていた」
彼女はまた、うなづく。
「どこまでいくつもりだったんだ?」
すると、彼女はまた、爽やかな微笑みを返す。
「二子玉川まで」
さてさて、これは一部フィクションを交えた記事です。
久々の更新でもあり、なんとなくいつもとは違った趣向を凝らしたいと思って書いているうちに、「オチを付けねば!」ってことでこんな内容になりました。
でも一応、自分の性質で、いかんな~と思っているところを浮き彫りにするような内容ではあります。
というわけで、明日も練習がんばるぞ!
ではまた。