VANTAN ヴィヴィアン佐藤のサブカル講座 | vivienne sato
★VANTAN ヴィヴィアン佐藤のサブカル講座★

昨年より恵比寿VANTANという恵比寿の専門学校のヘアメイク科とスタイリスト科で、「ヴィヴィアン佐藤のサブカル論」の授業をしております。今年もそろそろ始まります。

「ヴィヴィさんならサブカルを是非!」と打診を受けましたが、自分自身のことはサブカル系だとは思ったこともなく、依頼を受けたときには正直驚きました。笑

いままで「サブカル」というものに付いて考えてみたこともなく、その自分なりの定義からの出発でした。
まずは何が「サブカル」ではないのか。(「ハイカルチャー」や「メインカルチャー」の定義に始まり、、、)
そして「サブカルにも充たないもの」もたくさんあるのです。。。

「知識」や「うんちく」は全く必要とせず、「現代性」ということを一番の軸としました。多くの20前後の学生たちが、あるものを見て、どう感じるか。好 き、嫌いから始まり、それがどうしてそう思ったのか。何を連想したのか。。。 その根拠を徹底的に自己言及していくのです。

昨年は岡崎京子原作の『ヘルタースケルター』が蜷川実花嬢によって映画化されました。
その映画を見た学生が以外にも余りにも多く、その教材をも例にとって展開していきました。。。

そして今年2月に『文芸春秋 文學界二月号』で短い文「三つのヘルタースケルター」を寄稿しました。
その教材を使用したコンセプトをまとめたものです。。。

『三つのヘルタースケルター』

ファッション系の専門学校の依頼で、「ヴィヴィアン佐藤のサブカルチャー論」の講義をした。
講義は作品の鑑賞が中心で、いずれも従来の美術史、文化史の知識や経験を必要とするものではなく、その学生がどのようなものに興味があり、生来どのような ものに触れて来たかを軸に「現代性」というキーワードで進めたものだった。「同時代」的に読むということが重要だと考えた。
二十歳前後の若者の周囲にあるものはほとんどサブカルチャーなのだから、どのように講義を進めるか当初は手こずった。サブカルチャーに囲まれた生活と言っても、厳密にはサブカルチャーか、もしくはそれにも充たないものかに区別される。
サブカルチャーという言葉はもともとは社会的マジョリティー文化に対するものとして生まれてきたもので、本来は少数民族や先住民などのエスニックマイノリ ティやゲイ文化などマイノリティカルチャーも入る。しかし日本ではオタクやアニメなども既にサブカルチャーの範疇と考えられ、独自の定義がされ進化してき ている。
日本においてマジョリティー、もしくはハイカルチャーやメインカルチャーとは一体どういうものか、、、それらではないものをサブカルチャーと言えるかどう かの検討から始めた。たとえば歌舞伎や能文化、華道や茶道は伝統文化でマジョリティー文化と言えるかも知れない。その大きな共通項として世襲制が挙げられ る。世襲されるものはその国や民族のマジョリティー文化的な要素が強い。一方それに反して個人の趣味や嗜好から発した文化を掘り下げる姿勢はサブカル チャー的と言えるかも知れない。世襲ではなく個人個人の価値観から派生し、完結する性質/内容とは、親殺し(王殺し)や母親姦淫など無意識のうちに起こし てしまう原罪などである。フレイザーの『金枝篇』やオイデュプス王の悲劇、旧約聖書のカインとアベルなど、、、それらの話が下敷きになっている、もしくは そのように読めると思われるものを作品を選び鑑賞させディスカッションさせた。

今年映画上映された蜷川実花監督の『ヘルタースケルター』も教材として使用した。これには作品場外として面白い現象が含まれているからだ。原作は96年の岡崎京子によるもの。映画館で見たという学生が実に多く、しかし原作までたどり着いた学生はその中の一割程度。
注意すべきところはは蜷川版映画の『ヘルタースケルター』は監督独自の解釈は然程行われていないとい。原作のちょうど半分しか描かれていないのだ。映画公 開当時は主人公の女性りりこの「美」を巡る/追い求める話として、女性の「美」を求める普遍的な性質としてマスコミに紹介された。当たり前のことだ。しか し原作ではこの映画にはもう一人重要な主人公がいる。検事の麻田だ。彼はりりこの「美」に関する考え方とは全く異なり「変化や速度を恐れてはいけな い、、、、年をとることは素晴しいことで、それこそ新しい経験だ」と。りりこの「美」に対する考え方はアンチェンジングで、マスコミ/コマーシャル型美意 識。麻田のそれはチェンジングで、谷崎『陰翳礼賛』型の美意識に近いと言えるかも知れない。原作ではふたつの全く異なる「美」に対する価値観で、当時の日 本人の「美」意識を囲い込もうとした。もちろん回答はない。
そして原作では麻田とりりこは「前世で、ある神父の同じ帽子の二枚の羽だったと、、、風が吹いてひとつは残り、ひとつは飛ばされた。それがぼくかきみか分 からない、、、」。という興味深い一節が挿入されている。この双子兄妹的な因果において、神(運命)に愛される側と愛されない側。これはカインとアベルの 変奏かも知れない。
岡崎京子自身、また彼女の作品は強くサブカルチャー的である。しかし蜷川版『ヘルタースケルター』は決してサブカルチャーでない(コマーシャル作品といえ るかも知れない。コマーシャル作品は決して悪いものではなく、その見方で見ればこの映画の完成度は相当に高かったと思う。)。しかし皮肉なことに父親の蜷 川幸雄はいまだ親殺しに固執するサブカルチャーな人間だと思う。
いずれ蜷川幸雄が『ヘルタースケルター』を演劇化したらさぞ面白いのではと思い、蜷川実花は検事の麻田版『ヘルタースケルター』を撮影すれば完璧な作品になるのかも知れない。
もしくは蜷川幸雄や寺山修司の作品を知っていた岡崎京子の原作『ヘルタースケルター』なのだから、蜷川幸雄は既にこの世界観を何度も作品化してきたともいえる。

(『文學界 ニ月号』より)