九州福岡<博多の街>の事務局日記-ココ・ア・ポコ<2>

昨日は墨絵<夏>を紹介しましたが、友人よりもう一枚いただいていました。
それが、本日紹介しました雨の中に咲く<雨傘>の紹介です。バックが空色のカラーで、傘に濡れてピアノの鍵盤に振り注いでいます。
暑い夏のひとときを<墨絵>で涼んでみてください。

 さて『明治天皇』の連載6回目です。
孝明天皇の皇子様『祐宮睦仁』親王がお生まれになりました。1952年9月22日午後1時頃のことでした。
宮中の行事には<陰陽師(おんようじ)>がつきものですが、何か重要な決定を下す時は必ず陰陽師が呼ばれ、重大事の意味を説明し処理の方針を伺うのです。
宮中では代々『土御門晴雄』という陰陽師を<頭>にしていましたから、御典侍の『中山慶子』が産気だった頃には彼が出産予定日の分娩するときの方角を占いして決めていました。
今回の出産にあたっても陰陽師頭の指示を受けることが必要であったにもかかわらず、その場に居合わすことが不可能でしたが、遠隔して、いつ臍帯を切るのか?いつ浴殿を設置するのか?いつ産湯に入れるのか?などなどをテキパキと形式的に指図したといいます。

 ところが、一番の悩みだったのは、皇子様が生誕したのは宮中ではなく、御典侍『中山慶子』の実家だったものですから誕生に際して着ていた穢れた<胞衣>を埋める場所について今だ決めていなかったのです。
そこで陰陽師は、方角から見て洛東にある現在の京都大学の正門の真東にある<吉田神社>に埋蔵することを決め、宮中に使者を走らせたそうです。
ことほど左様に、宮中の行事は陰陽師を抜きにしては語れませんでした。それは、現代でも続いていることですがそれは後述します。

 しかし、難問が発生したのです。
陰陽師が決めた<胞衣>の埋蔵する場所は決まりましたが、埋める日にちのことでした。
この儀式は、これまで宮中では生後2~3日後というのが通例でした。
しかし、皇子様の誕生が土用の節の場合で土用の節の18日間に埋蔵穴を掘ると<祟り(たたり)>があるとのいうので、事前に吉田神社ではなく中山家の屋敷の中に埋蔵穴を掘っておりました、
しかし、土用の節が終わった翌日は立冬で<節替>。ということもありこれも不可能でした。さらに6日経った日は皇子様の胎髪を剃る<六日垂(むいかだれ)>があり、翌日は【孝明天皇】第一皇女である『順子内親王』の<斎日(さいじつ)>で精進を深める日。翌々日は<七夜の儀式(命名の儀)>。そうやって日は一日一日と過ぎ去っていきますが、埋蔵穴だけは吉田神社境内に穴を掘るのを粛々と進めていたそうです。
結局、<胞衣>を埋蔵したのは【祐宮睦仁】が生誕されて10日後の1852年10月2日だったということでした。

 このように宮中での陰陽師の占いがいかに重用されてるか窺い知れるものですが、そのような行為は今でも廃れていないことは確かであります。
【昭和天皇】が1989年(平成元)崩御された時に【葱華輦(そうかれん)】
=屋根の上にねぎの花の形を飾り付けた天子の車=に天皇の棺を乗せた輿を<八瀬童子(やせのどうじ)>の恰好をした人達が担いでいたのを御存じの方もいらっしゃるでしょう。
本来は天皇の実技は<八瀬童子>が担ぐのですが、昭和天皇のときは宮内庁から八瀬童子への依頼もなく<葱華輦>は宮中護衛官が担いだそうでが、昭和天皇のときは、保存会のような組織の<八瀬童子会>の有志がオブザーバーとして式典に参列したということです。
 
 この方たちは、現在京都市左京区八瀬に住み、室町時代から天皇の輿丁(よちょう)=御輿を担ぐ人=として奉仕していた人たちであるが、様相が一種異様な事でも知られています。
この方たちの先祖は、延暦寺の雑役に従事した童子村で、<最澄>が使役した時の鬼の子孫といわれています。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪をたらした大童であり、履物にあったは草履をはいた子供のような恰好をして童子と呼ばれました。

宮中の行事は庶民に取って高値の花ですが、伝統的な日本の王室のしきたりですからもう少し検証したいと思います。続きは、明日にします。