【プロ野球の父】とか【原子力の父】とか【テレビ界の父】とか揶揄される『正力松太郎』氏のこれまでの足跡を辿って行くと、どうしても<読売新聞>の部数拡張ということが気になるところである。

 書き込み者のオジサンは、どうもその辺りのことが気になります。

日本で一番最初にノーベル物理学賞を受賞した『湯川秀樹』氏との出会いにしても、さらには、このたびの九州電力福島第一原子力発電所の放射能拡散事故にしても、元をただせば性急過ぎた『正力松太郎』氏の手段だったように思えます。

 なぜなら、『湯川秀樹』氏は、【日本で原子力発電所をやるなら、国産でなきゃダメだ。もう少しゆっくりやってもいいじゃないか?】と反論したものの、急ぎ過ぎて<ターンテーブル>という手段で原子力を導入したのです。

 書き込み者のオジサンは自動車の運転はできますが、現在は、かって所有していた普通免許証を返却して、再度取得した原動機付自転車のみの所有となっています。
ゆえに、シマジロウとかシマサブロウとか自転車にしか乗れません。
それほど、メカニックに弱いのです。
自動車が途中で故障した時の恐怖感は経験したことのないものにとっては、頭が真っ白になるのです。なぜなら、仮に過疎地を走行した場合に故障でも発生しようものならパニックに陥ります。

 今回の九州電力福島第一原子力発電所の機械装置は、アメリカのゼネラルエレクトリック(GE)社の製作したもので国産ではありません。
ゆえに、GE社が製作して、福島の現場に据え付けてしてスイッチボタンを押せば運転できるようになっているようですから、まさに、GE社から<スイッチキー>を貰えば運転が可能になるのです。

 ところが、メーカー側は分厚い<取扱説明書>なるものを渡すわけですが、それで果たして故障した場合の運転が可能なのでしょうか?
故障した場合のことを考えて、イチイチアメリカから技術者を呼びよせていたら、緊急事態が発生した場合はどうするのか?ということを危惧していたのですが、このたびの事故によってそれが露見したようです。
『湯川秀樹』氏は、その辺のことを十分承知したうえで、【時機尚早】という結論を出し原子力委員会からの役員を辞任したといわれています。
すなわち『湯川秀樹』氏は、【<原子力>という怪物は、か国外の者が介入して設置するものではなく、国内でしっかり熟知して操業するものだ。】と今回の事件を予見していたのです。

 ナゼ?『正力松太郎』氏は、その道の素人にもかかわらず<原子力>の導入に突進して行ったのでしょうか?
まだまだ、このことを検証するには道のりが長すぎますが、書き込み者のオジサンは追跡して行くつもりです。



 
 いつの世からか、大阪から東京へ進出した朝日新聞と毎日新聞の後塵を拝した<読売新聞>は、いつの世からか【読売ヨタモン】【毎日マヤカシ】【朝日エセ紳士】という意味不明のダジャレを飛ばす輩がいたそうです。
この<ヨタ>にはヨタ記事という語源があるそうですが、正式には<デッチ上げ>の記事のことを言うそうです。

 それほどに、読売新聞の操業期には『正力松太郎』氏の推進するイベント企画を播きこんだ新聞の拡張販売によって販売部数(ここでは、購読部数ではない)を伸ばすのに懸命だったようです。
そうでなければ彼が乗っ取った新聞社の時の発行部数の5万部から一気に部数が増えることには至難わざと言えたことでしょう。

 そういえば『正力松太郎』氏は、昭和の初めごろより日本に<プロ野球>のリーグ設立を画策していました。
時は経ち、昭和24年11月26日皇居のお堀端わきにある日比谷通に聳え立つ東京会館の別館に、その頃野球団を抱えたオーナー達が集まり<2リーグ制>のプロ野球リーグを結成すると宣言しました。

 自分の所属するリーグを【セントラル連盟】とし、もう一方を【太平洋連盟(パシフィック】とするとして、日本のプロ野球に2リーグ制がスタートする瞬間でした。
 設立当時の両リーグのメンバーは、【セントラル連盟】が巨人・中日・太陽(松竹)・阪神・広島・大洋・国鉄・西日本の8球団でスタートし、【太平洋連盟(パシフィック】が阪急・南海・大映・東急・毎日・西鉄・近鉄の7球団でした。

 こうして球団名を眺めますと、新聞社と鉄道会社と映画会社の三業種が混載していて、名乗りを上げた業者の思惑が分かるような気がします。
『正力松太郎』の思惑が一致したのは事実で、どの業種にも一致するのは、商売の相手方を<不特定多数>の顧客をターゲットにしていることにほかありません。
それほどに彼の烔眼が光っていたことを表しています。

 この時にこれからのプロ野球を運営することになる規制統括を行う機関として【日本職業野球協議会】が設立され、この協議会の議長に『正力松太郎』が座り後の<プロ野球コミッショナー>としてあらゆる権限をふるうことになるのです。
このところの多忙さはいったい何なのでしょうか?
多忙さの理由の中に、プライベートのものもあればパブリックのものもありますが、書き込み者のオジサンのような仕事はそのどちらにも当てはまるようなことをやっているからにほかありません。

 そもそも、書き込み者のオジサンは<ブロガー>ではないのですから、全くの自由空間を与えられたときにのみ、本ブログのキーを打ち込むわけですから、優先順位にしたら一番最後の手段ということになります。
 ゆえに、パブリック(仕事上)で使用するパソコンのキーは当然のことそれに集中するわけですが、プライベート(私的)に当てはまる状態にはなかなか行きつけないところにあるのです。

 そのような屁理屈を並べたてている間に『正力松太郎』が操業した<読売新聞社><報知新聞><読売巨人軍>の実質的なオーナーである『渡辺恒雄』氏の言動が社会を騒がしています。

 <読売新聞社>は、経済課のいうところの証券取引所に上場している企業でありますから、社会的には企業として認知されないことになっています。
にもかかわらず、社会への発言度としては一番ややこしい存在です。なぜなら、江戸時代風にいえば<瓦版<的要素があるということです。
これは、社会の注目する事件が発生すればするほど会社の儲けに繋がるからにほかないからでしょう。

 インターネットの<読売新聞社>の会社概要を紐解きますと、㈱読売新聞グループとして<㈱読売新聞東京本社(中部支社・北海道支社・北陸支社を含む)><㈱読売新聞大阪本社><㈱読売新聞西部本社><㈱中央公論社><㈱読売巨人軍>の5社の頂点にグループが位置し、その代表取締役会長兼主筆として『渡辺恒雄』氏が君臨しています。
グループの資本金は6億1320万円と表示され、グループ全体の売上高は平成22年度で4230億円となっています。
ゆえに、売上高は関連6法人の合計ですから、各々の法人のことは発表いません。

 新聞の発行部数は東京本社関連で650万部、大阪本社で251万部、西部本社で90万部という総計で1000万部ということを自称しています。
発行部数については、新聞社でも雑誌社でも公称と自称をを言うのですが、これは広告関係とのにらみ合いがありますから厳格な部数は余り公表しません。
これまた、少々眉唾です。

 従業員数も全部合わせて5000人とインターネットで公表していますが、これもはっきりしていませんが、この程度の会社概要で<読売新聞社>がどのように情報開示しているのか不思議な問題です。
株式の保有形態にあっても誰がどのように所有しているのかは全く分かりません。
これも、非上場ですから当たり前のことです。
新聞社がいうところの【社会の公器】と自称するのであれば、もう少し情報開示していただきたいものです。
一案として、社会にこれほどの影響力を持つ企業であれば、<新聞社法>なるものを制定し国民すべてに情報開示するべきでしょう。

 そんなことを考えたら、毎朝、毎朝の一面トップに個人攻撃の刃が飛んでくるのでしょうか?
これ又不思議な民主主義の世界です。
$九州福岡<博多の街>の事務局日記-読売の体質①

$九州福岡<博多の街>の事務局日記-読売の体質②
 『正力松太郎』の生きがいを書き込んでいたら少々憂鬱になって行き、このところ、このブログを書き続けて行くことにためらいを感じていたところに昨日<爆弾>が破裂しました。

 その内容はというと、日本シリーズに入る直前相変わらず読売新聞社らしく、読者を引き付けるために【奇術】を使っていました。
それは、日本シリーズに参加できない腹いせに、自分ちのお家騒動を<読売新聞>と<日本テレビ>によって内情を明らかにし、発行部数の温存を図っていたからにほかありません。

 これでは、『正力松太郎』が過去に取って来た戦術と何ら変わりなく、それに追従した現在の経営陣の体質も何ら変わることなく推移しています。

 特にビックリしたことは、【読売巨人軍】の株主は<株式会社読売新聞グループ本社>唯一社で構成されていることを初めて知りました。
それでは、<株式会社読売新聞グループ本社>の株主はいったい誰で、どのような構成になっているのでしょうか?
このメッセージでは分かりませんが、一応内容では取締役9名、監査役4名の全員が出席したというのですから13名がいることになります。
何しろ株式公開していませんからナゾの会社です。これで、社会の公器と自称するのですから昔の<瓦版(カワラバン)>と同様なものなんでしょうね。

 また別の記事には、あの野球界でスーパーマンで鳴らした『長島茂雄』氏が専務取締役としてコメントしていましたから、果たして、彼が<株式会社読売新聞グループ本社>の役員なのか、、【読売巨人軍】の役員なのかは定かではありません。

 また、文書の冒頭には最初は『清武英利』は、というように姓名を書いていますが、その後は『清武』なる姓ばかりで呼び捨てにしています。
まあ、全員一致で解任としているのですから、渡辺にゴマする者達の<恨み骨髄>といったところでしょうか?これまでの仲間内の者を手のひらを返すように面罵するのも大人げありません。

 それもこれも、あの『正力松太郎』氏に呪われた性(サガ)なのでしょうか?
読者の皆さんもじっくり読んでいただき、本ブログの【やはり気になる<原子力村>】の続編をお読みいただきますようお願い申し上げます。
 書き込み者のオジサンは、いつも不思議のおもうことがあります。
第三の<権力>と呼ばれるマスコミ界の雄【新聞社】のディスクロージャー(情報開示)はどうなっているの?と思うことがあるにはオジサン一人なのでしょうか?

 だって、新聞社の面々は政治家の公私にわたって詮索する日常に、<公人>なることを振りかざし、徹底的に追求しているじゃないですか?
ならば、自分達も襟を正して自らのことを世間一般に開示して欲しいと思いますね。

<公人>と<公器>は別物といいますが、誰が新聞社を<公器>と言い出したんでしょうね。

 そういえば、昨晩からプロ野球界では大騒動が起きているらしく<巨人軍>のことで『渡辺恒雄』読売新聞社主が横槍を入れているということでマスコミ界をにぎわせています。
まあ、新聞界にとっては世間を賑わすことで商売をやっているようなものだからいいようなものですが、それでもタコではあるまいし、自分の肉体を世間から吸い下げる商売をしては先が思いやられますね。

 新聞社とテレビ局は同一物体で、他人のことをいろいろ書きながら、あるいは、言いながら自分のことは余り公表しないのはどういうものでしょうか?不思議です。
株式を公開しないこともありますが、社内の人事布陣はどのようになっているのでしょうか?
【社主】とは、法律上の位置関係はどのようになっているのでしょうか?
政治家のことを新聞では大きな文字で【独裁者】と呼んでおいて、自分の会社の【社主】が横暴に組織の掟に勝手に介入しておいて【独裁者】と呼ばないのでしょうか?

 昭和9年6月9日、東京・丸の内の<日本工業倶楽部>の会議室で【㈱大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)】の創立総会が『正力松太郎』の指示のもとに開催されました。
ここに集まったのは12人でしたが、ここにも正力は姿を見せませんでした。
その半年後にはアメリカの大リーグ全米オールスターチームの一員である『ベーブ・ルース』が来日したのです。

 急造のチームに最初に入団したのは、後の西鉄ライオンズの監督になった早稲田大学の『三原脩』氏、二人目はNHKにいた『苅田久徳』氏、三人目は、早稲田大学出身の『中嶋治康』氏、四人目は慶応大学出身の『水原茂』氏、九州鉄道の『田部武雄』氏、京都商業の『沢村栄治』氏、北海道・旭川中学の『スタルヒン』ら36人の選手達であったそうです。

 

 『正力松太郎』は、これまで述べた通り、京成電鉄の<浅草>乗り入れに伴う贈収賄事件に関係し、禁錮4ヶ月、執行猶予2年の判決を受け、東京市ヶ谷刑務所に収監されました。

 彼は、国家に対して反逆するとそれをバネにして大きく飛躍するのがこれまでの習性のようで、この時もそのような思いだったようです。
市ヶ谷刑務所を出所して、彼が考えたことは【名宝博覧会】を企てたことです。

 そのターゲットにしたのは『近衛文麿』氏のところでした。
『近衛文麿』氏というのは、五摂家の一つで当時第30代目の当主だったのです。
近衛家というのは、桓武平氏(第20代=桓武天皇)直系として、107代御陽成天皇の12世孫にあたり、昭和12年から16年にわたってⅢ期の総理大臣を務めた人物でした。

 すなわち、天皇陛下直系のお公家さんとして昭和天皇を支えた人物でしたが、彼には宇宙人のような行動を起こし、当時のドイツの総統であった『アドルフ・ヒトラー』に憧れ、次女の結婚式の披露パーティ―ではヒトラーの真似をした格好で参加したことでも有名でした。
さらに、『近衛文麿』氏は五摂家の筆頭であったからなのでしょうか?昭和天皇の前で<足を組んで>話ができる唯一の人物であったようです。

 そのうえ<大政翼賛会>の成立に関与したり、あの悪名高い<日独伊三国同盟>や<日ソ中立条約>の締結に奔走したのも彼の業績でした。
特筆すべきことは、当時京都大学の『河上肇』にマルクス主義について聴講を受けるために上洛したこともあり、戦後日本の在り方として何を考えていたのかが未だに問われている事でもあります。

 1945年12月6日GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦争犯罪人として極東国際軍事裁判で裁かれることになり、出頭最終期限日の10日後【荻外荘(東京都杉並区荻窪)】で青酸カリを服毒して自殺してしまいました。
享年54歳2ヶ月の死去でしたが、これまでのわが国の総理大臣経験者の中では一番若い享年であって、死因が自殺であったことも前代未聞のことでした。


 話を元に戻しましょう。
『正力松太郎』氏は、市ヶ谷の刑務所から出所すると最初に駆けつけたところが『近衛文麿』氏の邸だったようです。
訪問の用件は【名宝博覧会】への出品の第一番目に<近衛家の財宝>を目玉にしたかったからにほかありません。
すなわち、御堂関白日記の出品をあてにしていたからなのです。この財宝は、近衛の祖先である『藤原道長』の日記と書簡を集めたものは、900年間にわたってこれまで一度も公開されたことはありませんでした。
出品交渉に対して『近衛文麿』氏は快くOKの返事をしたそうですが、正力は、近衛家を後にした門外でニンマリとしたようです。
正力の営業作戦はいつの時も富士山の頂上から裾野をめがけて攻めて行く手法をいつのころからか身につけていたようです。
なぜなら、近衛家の出品承諾からは徳川家、松平家、酒井家、伊達家、藤堂家などの名家からの出品がドミノ倒しのように決まり、昭和4年東京府美術館で【日本名宝博覧会】が無事開催されました。

 『正力松太郎』は、博覧会の様子を<読売新聞>に連日掲載すると同時に、入場券の配布を勧誘の道具にし、販売部数を飛躍的に伸ばしたようです。
$九州福岡<博多の街>の事務局日記-政・官・学・業の相関図

 このブログに書き込んでいるシリーズも36回目を迎えました。
その間、様々な登場人物に焦点をあてて検証していますが、書き込み者のオジサンは『どうも、正力松太郎が元凶のようだ!!』としてこのパズルをすすめています。

ところが、わが国が<原子力>に頼ろうとする構図には、国民を僕にした【政治家・官僚・学者・業界】のスクエア(四角関係)が総ぐるみでアリの蜜に群がっているようです。

 上に掲げた構図は、簡略化したものですが『正力松太郎』はこのスクエアの構図を発祥しただけであって、それに巣食った者達が今回の東京電力福島第一発電所による放射能飛散の原因を作っているいるようです。
ゆえに、御用学者にまつわる業界がいて、指令を発する官僚たちは国民からの利用料金を吸い上げる構造システムを考え出したに過ぎないようです。
そして彼らは、これらの業績に応じて業界への天下りを割くしているようでなりません。

 さて、『正力松太郎』のことをもう少し追跡する必要があります。

何故なら、これまで検証してきたように彼が行ってきた行為は、単なる<原子力>の普及というところではなく、原点は【読売新聞の普及拡大】というところが主標であったように思えてなりません。

 彼の足跡の出発点は、警視庁の警務部長時代の<虎ノ門事件>によって懲戒免職されたにもかかわらず、<番町会>という財界組織の援護を受け実質的に『後藤新平』からの10万円という後に千古の美談といわれる買収資金を仰ぐことができました。
当時、読売新聞に乗り込んだ時の発行部数は3万部とも5万部ともいわれ、関東地区での新聞業界では末席に甘んじる結果で運転資金にも事欠くありさまでした。

 ところが、昭和10年には東京帝国大学で同級生であった東急電鉄の『五島慶太』に多摩川園での<菊人形展>を持ちかけ、地域における読売新聞の拡大に大きな貢献を手始めにイベントの読売として売り出すことになりました。
この手法は、現在の読売新聞が主催する毎年正月の『東京~箱根往復大学駅伝』で見られるように、日本テレビ・報知新聞との共催によって二日間朝から晩まで聴取者を釘づけにしていることでもおわかりの通りです。

 読売新聞の販売部数は、イベント企画の実施とともに拡大し続けて行きますが、ちなみにその後の部数拡大は以下の通りです。
 大正14年   5万部
 昭和 1年   9万部
 昭和 2年  12万部 
 昭和 3年  14万部 
 昭和 4年  18万部
 昭和 5年  22万部
 昭和 6年  28万部
 昭和 7年  34万部
 昭和 8年  50万部 
 昭和 9年  57万部   
 昭和10年  67万部
 昭和11年  76万部
 昭和12年  88万部

 昭和19年 192万部
という驚異的な伸びになって行き、この時朝日・毎日・読売という三大新聞にまでにのし上がって行ったようです。


 最近の新聞記事を見ていますと<原子力>に絡んでわが国への導入の経緯を多くの新聞で連載しているようでございます。
そして、それらの新聞は『正力松太郎』を元凶にして記事を書いていますが、彼の所業は果たして何だったのでしょうか?
言われるようにCIA(アメリカ中央情報局)のスパイだったのでしょうか?それとも、アメリカの推進する政策のエージェント(代理人)だったのでしょうか?

 一方では、読売新聞としてのマスコミの総大将と自称しながら、プロパガンダとしての役目を果たしていたのでしょうか?

彼は、もうこの世に存在しておりません

なのに、本年の3月11日に東日本沿岸を襲った大震災で大津波と<福島第一原子力発電所>の放射能放出という【大事件】の始末を多くの人々が請け負っているのです。

 本来なら、草葉の陰で埋没している『正力松太郎』氏に本当のことを聞き及んでみたいと思っているところですが、今はもうそれができません。
せめて、これまでの関係資料から因果関係を解いているのですが、すでにこの連載も35回目となりました。
それでも、解きほぐす糸口からはそれを解き明かすのに未だ半分にも至っていないのが現状です。
もうしばらく、お付き合いください。お願い申し上げます。

 さて昨日までは、彼の警視庁警務部長在職中に起きた<虎ノ門事件>で警視総監と共に懲戒免職になり、時の東京市長であった『後藤新平』より【千古の美談】と後に語られるようになった10万円(当時)の出資を仰ぎ【読売新聞社】に乗り込みました。
乗り込んだというより経営者になったのです。
それからの経営運転資金は<番町会>なる得体の知れない匿名組合なるものからの資金導入を図り、当時5万部くらいの発行部数の新聞を500万部まで拡張させたことも書き込みました。

 新聞社の社長でありながら<京成電鉄>の総務部長を兼務し、<浅草駅>乗り入れに端を発した贈収賄事件に関連して法の裁きも受けました。
その後、背後にいた<番町会>からの後押しもあって<大政翼賛会><翼賛政治会>の総務に就任し、時の内閣総理大臣『東条英機』の推薦をもらって貴族議院の<勅選議員>に就任したことまでの経緯を書き込んで参りました。

 『正力松太郎』氏は心底からの行く末を自分自身どのように考えていたのでしょうか?
例えてみれば、自らが進んでこのようなことになっていったのでしょうか?
それとも、歩んでいる道の外側から彼の進むべき道を示唆されていたのでしょうか?
このあたりから彼の【野心】が芽生えてきているように書き込み者のオジサンは思えて仕方がありません。

 この事実は実現にこそ至りませんでしたが、東条内閣は3次に及ぶ内閣を組閣していますが、第一次内閣は昭和16年10月18日です。
第二次は、昭和17年2月17日で、第3次が18年4月20日ですが、この内閣が終焉するのは昭和19年7月20日です。

 ナゼ、このような重大時期に<東条内閣>は追われたのでしょうか?
さらに『東条英機』は、第4次組閣を練るために改造を計画し、『正力松太郎』を内務大臣の席を予定し、本人も承諾していたといいます。

 それでも彼は、<東条内閣>の崩壊によって次の内閣『小磯国昭』氏率いる内閣では、軍閥支持の功績によって言論界を代表して<内閣顧問>に就任したのです。
背景には、軍閥の御用政治団体であった<大政翼賛会><翼賛政治会>のちの<大日本政治会>の幹部であったからというのが大方の評であったようです。

 しかしながら、彼のしたたかな読みからいえば、終戦間近かのこの時期を見込んで内閣顧問を引き受けたのかというと、翌年の4月5日に総辞職する小磯内閣の終焉を予測し
=敗戦処理内閣への入閣運動の布石であった=
といわれているのが巷の風評のようですが、彼にはそれを見通せる何かがあったのでしょうか?

いよいよ次回からは、第二次世界大戦後の彼の足跡を推察するに十分といって良いほどの事実が表れてきます。
 先週の後半から日曜日までの天候異変で、九州の沖合の海の波の状況は3~5メートルと吹き荒れる環境でした。
よって、離島航路は結構が続き、書き込み者のオジサンンも出鼻をくじかれた格好になりました。

 ようやく、月曜日のなって海上の風波も穏やかになり、福岡を基点に<唐津>⇒<名護屋>~定期船~<馬渡島>⇒<呼子>⇒<唐津>⇒<伊万里>⇒<松浦>⇒<平戸口>~平戸大橋~<平戸桟橋>~バス~<宮の浦>⇒<唐津>~バス~<福岡>の道順でオジサンの愛馬(原付バイク)【シマジロウに跨って走り回ってきました。

 走行距離は凡そ400キロは走ったでしょうか?
とにかく、お尻の皮がむけそうな位鈍痛を覚えています。
途中の道筋には、定期船の航路もあったり、平戸大橋では強風が吹きまくっていましたので、とてもの状態ではシマジロウ(原付バイク)での走行は無理で、平戸口に駐車させたうえで路線バスに乗り換え、<平戸島>の島内は定期バスでの徘徊となりました。

 シマジロウ(原付バイク)に跨りますと視界は360度の全方向ですから、周辺の景色を堪能しながらの<旅>の満喫度は最高です。
最近新聞記事を賑わしている通称<モンゴル村>の【鷹島】を横目に見ながら走行するのですが、途中国道に面した公園の中に、1274年の<文永の役>と1281年の<弘安の役>で武勇伝を発揮した【松浦水軍】の<兜>の模型を展示したものがありました。

 当時は、皆さんもご存じの『マルコ・ポーロ』が日本に来て、日本の状況を表した=東方見聞録=というのがありますが、彼は、日本の文化程度を見聞した後<元(蒙古)>に渡ります。
1206年に蒙古英雄の『ジンギスカン』が即位した後、その60年後の1260年に『フビライ』が統治することになりました。
 『マルコ・ポーロ』は、日本を立ち去った後に蒙古=元に渡り『フビライ』に対して日本の現況を耳打ちしたようです。
ですから、現在『マルコ・ポーロ』は、彼のことを<国際スパイ>と俗称するようになったようです。

 『フビライ』の指揮のもとに、元軍が日本に攻めてきます。
その主戦場になったのが、書き込み者のオジサンが今回一番最初に立ち寄った<馬渡島>です。
島の区長さんの運転する車に乗って、同島で一番高い山に<番所ヶ辻>というところへ行きましたが、海抜272mの高さから見る玄界灘の四方からは遠方に<対馬><壱岐>が眺望できる展望台があります。

 多分、見張り番はここから<元軍>の襲来する小船の大軍が押し寄せてくるのを、本土<鎮西町>の波止岬で待機した伝令者が狼煙をあげ、岸岳城に走り鎌倉幕府に伝えていたと想像します。
何しろ、この海域には4400隻の船の大軍が押し寄せてきたのですから、<番所ヶ辻>から見る光景は、それはそれは圧巻と同時に身震いしたことでしょう。

 ゆえに、元の大軍を待ちうけたのが先ほど紹介した【松浦水軍】だったのです。後世伝えられる者には<神風>が吹いたといわれていますが、瀬戸内海にいた【村上水軍】と愛媛県にいた【伊予水軍】と並ぶ当時日本にいた三大水軍といわれる所以です。
 明治22年2月11日に制定された【大日本帝国憲法】第3章において<帝国議会>の制度が定められています。

第33条に=帝国議会は、<貴族院><衆議院>の両院を以って成立す=

と定められていました。
 すなわち、選挙によってあらばれた<衆議院議員>と時の皇族・華族・勅任議員の<貴族院議員>とによって構成されていたようです。
 上記した議員のうち<皇族議員>とは、青年に達した(皇太子・皇太孫は満18歳でその他は20歳以上)皇族男子が自動的に議員となる資格が与えられていました。
 この制度の中に、<終身議員>というのがあって定員を決めているのではなく、給料(歳費)もありませんでしたが、皇族が政治にかかわることはよくないとのことから、歴史上存在している方はなかったようです。

 次に、家族から選出される議員のことです。
<華族議員>には、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵(明治17年7月7日の<華族の授爵の詔勅>の下命ののもとに華族と称した江戸時代までの元公卿・元諸侯・国家功労者の戸主に与えたもの)で構成されたようですが、当時の朝鮮貴族は華族議員の資格は与えず、勅撰議員になっていたようです。
 このうち、公爵・侯爵・、満25歳に達した時点で全員が自動的になることhができましたが、この枠は終身議員となり、定員もなく、給料(歳費)もありませんでした。
 また、伯爵・子爵・男爵は満25歳に達した者の中から互選によって選ばれたものが議員になることができ、任期は7年。定員は変遷して行きましたが、制度が廃止されるまでは伯爵18名・子爵66名・男爵66名で合計150名となったようです。その時には年齢も30歳に上げられたようです。

 <勅任議員>とは、天皇によって特別に任命される議員のことです。
この議員には、勅選議員・帝国学士院会員議員・多額納税者議員・朝鮮、台湾勅選議員で構成されました。
 勅選議員とは、国家に勲労のある者又は学識のある者の中から、内閣の推薦によって天皇が任命し、定員は125名い以内と定められていたようです。
 帝国学士院議員については、帝国学士院会員であって30歳以上の男子の中から互選され、定員は7年。定員は4名が与えられていました。
 多額納税者議員は、土地あるいは工業・商業につき多額の直接国税(現在の所得税)を納める30歳以上の者の中から互選されるという制度です。任期は7年。定員枠は67名以内ということのようでした。
 最後は、朝鮮・台湾勅選議員のことですが、朝鮮又は台湾に在住する満30歳以上の男子で、地域で嘱望された者が勅任されたようです。任期は7年。定員は10名以内とされていましたが、この制度が創設されたのが昭和20年の第二次世界大戦の末期でしたから敗戦と同時に日本は朝鮮と台湾の<統治権>を失いましたので廃止されることになりました。

 以上、細かく【貴族院】のことを紹介しましたが、ここに『正力松太郎』氏が、ナゼか?昭和19年5月18日~21年4月13日までの2年間=読売新聞社社長=名で勅選議員として名を連ねているのです。
これまた、どのようにして任命されたのか、書き込み者の調査した文献には全くそれらしい詳細なものがありませんでした。