プラチナデータ原作考 | ゆうちゃんママのひとりごと

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プラチナデータの原作を読んだのだ。

ほれ、映画は謎な部分が多かったし。

原作をこれから読むつもりって人は、ここから先は読まない方がいいと思うよ。
映画をこれから見る人ももちろんです。











私の個人的な感想で言うと、

「細かいところはいろいろ文句もあるけど、映画のほうが内容はよかった(好きだった)。」

でした。
こういう小説に関しては好みもあるだろうし、読む人の性格もあるだろうから、同じように感じる人ばかりではないと思うけれど、話の大筋以外は結構あちこち脚色されているんだね、あの映画。

だから、まず原作ではなく映画から見たほうがいいんだと思う。
その後、原作を読むと映画とはまた違った世界が楽しめると思う。
そして、また映画を見て違いを楽しむという。

【 蓼科早樹 】
原作では早樹ちゃんは、顔にあざがあるのは一緒だけど、太っていて外見がよろしくないの。早樹ちゃんがリュウと特別な関係にあったってところは一緒なんだけど、リュウには早樹ちゃんが白いワンピースを着たほっそりとしたかわいい少女に見えるってとこがなんとなく女子的にはあんまり好きじゃない。

原作は、リュウに見える蓼科早樹の幻想の姿の少女スズランが、神楽の逃亡に同行するという流れで、スズランが一体何者なのかっていう疑問がずっとついてまわるというものなのだけど、どうも共感しにくくてさ。(すぐわかるし・・・)

だから、蓼科早樹を映画の希子ちゃんのように神秘的で近寄りがたい印象を持つ女性にしてくれて良かったと思う。顔の痣のせいで人と顔を合わすことができない、数学に驚異的な才能を発揮するなんとなく無機質に見える女性にしてくれたのはよかったなと思う。

あれ、しゃべらなかったのがまたよかったよね。
希子ちゃんの醸し出す”この世の人じゃないでしょオーラ”が生きていたと思う。

【 水上教授 】
映画では猟奇殺人を行っていたんだったよね。
原作では、「電トリ(電気トリップ)」と呼ばれる、電極をつけて脳に電気信号を送ることで、性的快感を高める器具によって、性的犯罪にみせかけた殺人を行っている人だった。動機は電トリによって人間を自由に操れるかという実験と人間の支配が目的なのかな。男だったし。
これは犯行内容を変えたのは映画を観る対象を考えての変更かな。ま、ここは見る方としても、性的犯罪じゃない方がありがたかったのでスルーで。「電トリ」の説明等もめんどくさいし、猟奇殺人の方でよかったんだと思う。

原作では、NF13が水上教授という設定なんだけど、これもママ的には政府の要人の息子という設定でよかったと思う。DNA操作システムの重大な問題を浮き上がらせるためには、システムを知り抜いた上で犯行を行う水上教授よりも、えらい人の身内だからって罪をおかしてもお咎めなしの殺人鬼たちがあちこちにいるってことのほうが怖いもん。

【 神楽龍平・リュウ 】
ここは原作と映画とでは大きく違うよね。原作ではどうやらリュウの方が後から出現した人格で、最後はリュウは消えちゃうんだよね。映画は最後の最後で実はリュウの方が主人格ってことがわかるんだった。

これに関しては、テーマをどこに絞るかで評価も変わってくるのかなぁ。
というか、どっちが主人格でも別に構わないんだと思うけど。

ママ的には、「プラチナデータ」が本当に伝えたいのは、DNA捜査システムの良さの反面、それを悪用する人たちは必ず出てくるという社会の裏を訴えるというよりも、一番大切なものはデータだけでは絶対に真似できない人の「思い」「心」であってほしいなと思うので、そこについては原作の方がよく描けていたように思う。

だからこそ映画はもったいなかったな。
要所要所は結構いい仕事しているのに、一番大切なところがちょっと薄かった感じがする。

原作では、偉大な陶芸家であったお父さんのコピー作品をお父さん自身が見抜けなかったことでショックを受けて自殺しちゃうんだよ。そこは結構大事だよね。映画の息子が自分の作品とコピーを見分けられなかったことにショックを受けて自殺したなんてどうよ。なんで息子に罪の十字架を背負わせるんだ。
映画のこの設定は嫌いだった。

だって、人の手に勝るものはないと信じていた、自分の作品はその時に感じていたことまで細部にわたって覚えていると言った本人が、自分の作品とコピー作品を見分けられなかったんだから。こっちの方がよっぽど説得力がある。

リュウはその時父親に大切なことを伝えられなかったことで閉じこもってしまったんだと思う。

「思いはかならず手に伝わる、その手が形作る」

ってことを。
一番大切なことだと分かっていたのに、でも本人にさえ見抜けなかったコピー作品に驚異を覚えたんだろうね。で、人格が2つに分かれちゃったんだ。「データがすべて」って思いたい龍平の人格と「思いと手」が大切なんだって思いたいリュウの人格とに。お父さんと共に壊れちゃったんだね。

原作では、神楽が逃亡中に、管理されることを嫌って人里離れたところに集まって暮らす人たちとの出会いが描かれているのだけど、こういうのを使って欲しかったな。

あんな無駄なアクションシーンも行き過ぎた科学捜査網みたいなシーンもいらないから、この事件をきっかけに頑なに閉ざされた神楽の、リュウとその絵を否定し続けた神楽の心が少しずつひとつになっていく様、忘れていた一番大切なことを思い出して、自分の足できちんと歩いていく物語に描いて欲しかったなー。

浅間刑事については、原作も映画もまったく文句なかったけど、神楽と浅間刑事との対面のシーンは映画のほうが好きだった。最後、神楽をどう扱うかで、同じシーンももっと意味のあるものになったろうなっていう感は否めないけど。

以上、勝手な見解をいろいろ書きまくったけど、自分勝手に脳内で作り上げた「プラチナデータ」にニノちゃんを当てはめて楽しめるような気がするぞ。

原作本読んでよかったっす!