先日、ラジオのコメンテーターが、この“オルタナティヴ・ファクト”という言葉について論説を語っていた。ぼくらの世代にとって“オルタナティヴ”という言葉は、ロックとすぐに繋がる。商業主義的な方向に傾いたロック・ミュージックに対して、既存のロックに包括されない非主流的、アンダーグラウンド的なサウンドを追究した1980年代頃のロックのことだ。

 

さて、時代は21世紀となってIT革命、情報化社会となっての“オルタナティヴ・ファクト”である。

コメンテーターの挙げた例が、先のT大統領就任パレードの話だが、O前大統領のときと比べて観衆が減っていたという報道に対してのT大統領側のコメントとして、観衆が減ったのではなく地下鉄からの観衆など検査体制の問題で少なく映ったというものだったとのことだ。ひとつの事実に対して、“オルタナティヴ”な、代替的事実が掲げられたという事態である。

 

常日頃“ノンポリ自由人”として政治的な発言はしない主義の自分なのだが、一国の首脳が事実をねじ曲げること、その先に見えるもの・・・を考えると薄ら寒い思いを否めない。カエサルの名言にこんなものがある。

人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。
多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。

大抵の人は見たいと欲するものしか見ない・・・言い換えれば見たくない現実からは目を背けるということだ。そして「見たいと思う事実」だけを見ようとすると、この“オルタナティヴ・ファクト”が作り上げられていく。さらに、この“オルタナティヴ”な歪んだ視点と事実が大衆に迎合されるようになると、かのナチズムへと発展しかねないというのは想像に難くないところだろう。

 

現時点では、多くのメディアとT氏との関係は良好ではないが、一部のメディアがT氏を担ぎ上げていることを考えると、この先の時代のきな臭さを思わずにはいられない。そうならないことを願う・・・というのも、「見たくない現実」に目を背けていることになるのだろうか?