暮らしの中の陽明学 -5ページ目

昭和惜別

後れても後れてもまた君たちに
誓いしことをわれ忘れめや


高杉晋作が安政の大獄で刑死した恩師の吉田松陰や禁門の変などで戦士した同志たちを偲んで詠んだ詩です。山口県下関市にある桜山神社は、桜山招魂場と言われており、高杉晋作や白石正一郎の発議により、元治元年(1864)に創られました。日本で初めて創られた招魂社で、靖国神社のモデルともなった社殿です。

 
創建の翌年、慶應元年(1865)には、社殿の落成式が行われ、高杉晋作も参加しています。この詩は、その時に詠まれたものです。高杉晋作は、恩師や奇兵隊の仲間を先に失い、心にいつも「死に遅れ」、「生を偸む」という意識があったようです。
 
時代は、変わりますが、先の大戦の敗戦直後にも同じような思いを持った人たちが沢山いたのではないかと思います。


◆徒然日記
 「忘れめや」というお言葉を詠まれた昭和天皇御製の詩歌があります。

『昭和惜別の賦』    昭和天皇御製

忘れめや 忘れめや 忘れめや
戦(いくさ)の庭に たふれしは
暮しささへし をのこなりしを

ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ
たちなほる見えて うれしかり
たちなほる見えて うれしかり

あかげらの 叩く音する あさまだき
音 たえてさびし うつりしならむ
音 たえてさびし うつりしならむ


 

ステレオ

けだし言(ことば)は心の声なり。
ゆえに心あって言に発し、
言によってその心を知る。



 中江藤樹の『孝経啓蒙』の言葉です。声というのは、息です。体内でわき起こった息が声帯に当たって振動させることで声になります。では、息はどの様に発っするのかと言えば、脳幹の指令を自律神経が伝えることで発します。つい最近の研究で、呼吸器官が呼吸のリズムを発動する直前に脳幹の延髄に呼吸と全く同じリズムのシグナルが出ている事が発見されています。では、脳幹はそのリズムの根拠をどこに置いて判断しているのでしょうか?

人間の呼吸のリズムは、一分間に15回〜20回です。実はこのリズムは、海に起こる波のリズムとほぼ同じです。海の波は、地殻の振動、気圧の変化など様々な要因で起こりますが、大きな要因としては、海面を打つ風の力です。地球上で大気の流動が波のリズムをつくるように、人も気の胎動により息のリズムが決まるのです。極端な表現になるかも知れませんが、良知の周波数を受信すれば、良知の息となり、声となるのです。

と感じるものの、如何せん、周波数がなかなか合わない「おんぼろラジヲ」をどうしたものか?



◆ 徒然日記
 お亡くなりになった有名人のご遺族に取材をする記者が、「今の気持ちをお聞かせください」という紋切り型の質問をする光景をテレビやネットで目にされた方も多いと思います。その言葉には、遺族を労る「気」などさらさら無く、注目を浴びるリアクションを映像に収めたいだけという意図がありありとして分かります。視聴者の中には、こうした無神経な記者の素行に眉をひそめている人も多いのではないかと思います。画一化された紋切り型の質問というものには、心がこもっていない、つまり、良知が発言されていないと思うのです。

倉本聰さんの脚本によるテレビドラマに『北の国から』というものがありました。数あるシリーズの中で女優の中嶋朋子さんが子役として重要な役割を演じるドラマの撮影がありました。クランクアップの後、番宣の為、倉本聰さんと当時まだ子供だった中嶋朋子さんが全国を縦断するような形で記者の取材を受けることになりました。倉本聰さんの回想によると、どの記者も紋切り型の質問ばかりで、後半の方になると「また、同じ質問か?」と辟易とされていたそうです。そんな時、金沢のMROラジオ番組の取材を受けることになり、倉本さんは、どうせまた同じ質問だろうと半ば投げ槍な気持ちになられていたそうです。取材は、屋外で行われ、音響担当のスタッフがマイクを設定し終わり、いよいよラジオ番組の収録が始まろうという時、番組のプロデューサーが倉本さんと中嶋朋子さんに声をかけました。

「では、〇〇分後に戻ってきますので、それまで自由に話してください」

そう言ってプロデューサーと番組スタッフは皆いなくなったそうです。つまりそのプロデューサーは、番組の進行を自然に任せた訳です。番組では、紋切り型のインタビューからは引け出せない貴重な話がいっぱい収録できたことは言うまでもありません。

一燈照隅

事に臨むの始め多く困苦をなめて、
能(よ)くこれを成就す。自然の道なり。
( 中略 )
況や人心を正して天下を治むるの道
此の困苦を経ずしてよくなることあらんや。
多く困を経たるを上手と云い、
少く困経たるを下手と云ふ。
この如く寒苦を経ずして、
外面より上手と見ゆるは、
下々の諺にいふ大名芸といふもの也。
大名歴々は、たとへば、馬をなせども
善く馴れたる馬をえらび、
上手が下乗りをしてなさせ奉れば、
下々の名人の乗よりも早く見事に見ゆれども、
上かんの悪馬なと引き付けて自由にし玉ふは、
一生ならねば、馳馬の用はなきなり。
諸事此の類なり。



江戸時代の儒学者、三輪執斎の『周易進講手記』の中で、水雷屯(すいらいちゅん)について説明した言葉です。(中略)の部分は、下記のような事が書かれていますが、原文が長いと読みにくくなるので略しました。

弓の冬稽古の時も、寒中に早起きして肩肌脱いで練習し、歌を学ぶのも寒中に外に出て、寒気を犯して謳う。これは、誰もがすることで珍しいことではない。一芸にしてこの様であるのだから、況や人心を正して天下を治める道がこの困苦を経ずして良くなることがあるだろうか。


◆徒然日記
 文中に出てくる「大名芸」とは、「殿様芸」とも言われ、実際には役に立たないことを意味しています。三輪執斎は、馬を例に取り、大名が馬を上手に乗りこなしているのは、真の上手が馬を調教し、下乗りをして、奉納しているのだ。と記しています。

 大名芸というのは、庶民が大名を茶化して使った言葉ですが、私は、この文を読んで別の見方をしました。調教師が自分の愛情を込めて馴らした馬を奉ずる事ができるのは、それだけその大名に人徳があるからなのだと思うのです。

 大名は、世の中が良くなるように一心不乱に徳を磨き、調教師は、少しでも良い馬が奉納出来るように全力で取り組むというそれぞれの分に応じた生みの苦しみが新しい世界を生み出すのではないかと思うのです。

 新型コロナの感染問題が厳しい局面を迎えている昨今、医療従事者の使命感が医療崩壊を防ぎ、介護福祉業界従事者のお陰で高齢者や障がい者が護られ、流通業界の従事者のお陰で生活物資が滞る事なく供給されています。政府からのマスク支給、10万円の支給など有りますが、少しでも世の中が良くなる為には、分に応じて自分に何ができるかという視点も忘れてはいけないと思います。

止於至善

人惟(た)だ至善の吾が心に在るを知らずして之を其の外に求め、以て事事物物皆な定理ありと為し、而して至善を事事物物の中に求む。これを以て支離決裂、錯雑紛紜(ふんうん)して、一定の向有るを知る莫し。今 既に至善の吾が心に在りて外求を仮(か)らざるを知れば、則ち志は定向有りて、支離決裂、錯雑紛紜の憂い無し。
支離決裂、錯雑紛紜の憂い無ければ、則ち心妄りに動かずして能く静かなり。
心妄りに動かずして能く静かなれば、則ち其の日用の間従容閒暇(しょうようかんか)にして能く安し。
能く安ければ則ち凡そ一念の発、一事の感、それ至善と為すやそれ至善に非ざるや、吾が心の良知自ずから以て之を詳審精察する有りて能く慮(おもんぱか)る。
能く慮れば、則ち之を択(えら)びて精ならざる無く、之に処して当たらざる無し。而して至善是(ここ)に於いてか得(う)可し。



『王陽明集』の言葉です。ある弟子が『大学』にある次の言葉の解釈を求められて答えたものです。

「止まるを知りて后(のち)に定まるあり、定まりて后に能く静かなり、静かにして后に能く安し、安くして后に能く慮り、慮りて后に能く得」

 
王陽明は、この質問に対して、この様に答えています。
 
至善を外に求めようとするから支離滅裂になる。
至善が自分の心の中にあると知れば支離滅裂な憂いが無くなる。
そして、この憂いが無くなれば心は乱れず静まる。
心が乱れず静まれば、日常生活に動揺が無くなり、落ち着き安定する。
安定すれば沸き起こった思いや感覚が至善なのか、そうでないのかを心の良知が自然と詳しく検証してはっきりとさせて慮るようになる。
しっかりと慮れば、その思いや感覚の精度が高まり、その通りに処すれば最適な対応にならないわけがない。こうして至善を得る事ができるのだ。


◆徒然日記
 コロナウイルスの正確な情報を得ることは大切なことです。しかし、様々な情報が飛び交っていて、その一つ一つの情報を追っていると何が真実なのか分らなくなってしまいます。得られた情報を自分の心がどう受け止めたかという視点も必要です。

天人合一Ⅴ

程子謂ふ。「人心は即ち人欲、道心は即ち天理」と。

語は分析の如くして、意は実に之を得たり。
今、「道心主と為りて、人心命を聴く」と曰わば、
是れ心を二つにするなり。天理と人欲とは並立せず。
安(いずく)んぞ天理主となりて、
人欲又た従って命を聴く者有らん。
 
 
 
王陽明の『伝習録』の言葉です。
程明道は言った。「人心とは、つまり人欲であり、道心とは、即ち天理である」と。
言葉としては、(道心と人心を)二つに分けて分析しているようにとれるが、意味としては、実に的を得ている。もし、今、「道心が主となって、人心がその命を聴く」といえば、これは、心を二つに分けていることになる。天理と人欲が並立することなんて有り得ないのだ。どうして天理が主となって、人欲がそれに従って命を聴くなんてことがあり得ようか?有るはずがない。
 
王陽明は、これが道心で、これが人心だと分けて考えるのがおかしいと言っています。つまり、人心と言っても、それが天理に適ったものであれば、道心と言えるし、「これは、道心だ!」といくら主張しても天理に適っていなければ、人欲であり、人心なんだ。ということです。
 
 
 
 
◆徒然日記
 新型肺炎の影響で、日本の小売店では、マスク、消毒液、トイレットペーパー、ティッシュなどが欠品して、棚が空の状態が続いています。そんな中、日本に在住する中国人の方が、日本人が武漢に救援物資を届けてくれたお礼といって、街頭でマスクを無料配布するというニュースが報じられています。これは、一人の人がやっている訳ではなく、何ヶ所かで行われていることの様なので、多分、中国人のネットワークの中で、何らかの形でマスクを入手する手段や情報が飛び交っているのだと思います。
 
 マスクを無料配布していた方は、一様に自ら購入したと言われています。そのルートは、アプリからの購入、マスクを確保している知人からの購入、海外サイトからの購入と様々です。それが、正式なルートなのか、裏ルートなのかは分かりませんし、無料配布している方が本当に善意でやっているのか、それとも、何か他に思惑があってやっているのかも分かりません。
 
 もし、本当に善意でやっておられるのであれば、変に勘ぐって揶揄したり、中傷するのは大変失礼ですし、何か私欲を満たすためにやっているのであれば、その偽善行為に感動するのは、実に滑稽です。
 
 最終的には、その人の本心は、天とその人の良心にしか分らないのです。もし、他人がその本心を知ろうと思えば、良知に問いかけるしかありません。なぜなら、良知は、自他を貫き、内外を貫いている天理でもあるからです。因みに、私は、目を見ます。人や自分を騙していない人の目は澄んでいます。