暮らしの中の陽明学 -3ページ目

三年の喪

古の人は利うすくして情厚し、
父子別れ夫婦はなれて、五年も十年も嘆くものあり、
或は一生にをよぶものあり、死を以て生を亡ぼすものあり。
爰(ここ)を以て、聖人其の過ぐる情ををさえて、
三年の喪を定め給えり、しゐてなさしめ給ふにあらず。


熊沢蕃山の『集義和書』にある言葉です。

ある人が書簡で熊沢蕃山に尋ねました。
「生死は人に常につきまとうものです。それなのに三年の悲哀は、極端にやりすきだと思いますが、貴方は、三年の喪に服しているのですか」

今回は、これに熊沢蕃山が返信した手紙の冒頭の部分を紹介しました。



◆ 徒然日記
 「三年の喪」は、古代中国の殷王朝や周王朝の初期までは行われていたようですが、春秋戦国時代になると三年も喪に服する人は、あまりいなくなったようです。『論語』の中でも、孔子の弟子が「三年の喪は、長すぎるから、一年で良いのではないか」と孔子に質問して、孝を重要視する孔子が嘆くという場面があります。

 現代人の感覚からすると、三年間も喪に服した生活を送るのは長すぎると考えてしまいますが、古代の聖人は、何十年、或は、一生悲しみに暮れて過ごさないよう「三年の喪」を定めたのだというのが、熊沢蕃山の見解です。

 古典を読む時に、現代人の感覚で字義だけを解釈するとおかしくなる事がまま有ると思います。しかし、古代人と現代人の良知が極端に変貌しているわけでも無いと思いますので、古典を読む時にも良知が働くと、熊沢蕃山の様な解釈ができるようになるのだろうか?

と考えさせられました。

”●8月30日(日)、「日本陽明学」についての講演と小川榮太郎先生との対談を開催!”

コロナ、コロナで閉塞して行き詰まった社会を打開するには、江戸時代の人々生き方に学ぶのが良いと思います。江戸時代に学ぶのであれば、日本陽明学は、避けて通れません。

脚踏実地Ⅲ

其れふみ行ふこと 
吾が心良知の本然に悖(そむ)くなきや否や
古聖人の成法に違うなきや否や
私欲名利のわづらひなきや否や
小人諛士(しょうじんゆし)の為に迷わさるなきや否やと
其の事を敬して これをあやぶみ恐るる
虎の尾を蹈むが如くして
然(しか)る後にこれをふみ行へば
よく傷害あるなくして其の終わりを遂ぐべし



 江戸時代の陽明学者 三輪執斎が『周易進講手記』の中で「天沢履」について述べた言葉です。履には、履修、履行という言葉もあるように、踏み行なうという意味があります。物事を踏み行なうにあたって、本当に良知にそむいていないのか?誰に見られても恥ずかしく無いのかどうか、虎の後ろを歩き、虎の尾を踏んでしまうのではないかと恐れるくらいに慎重に踏み行えば、傷つく事もなく、目的を達成できる。



◆徒然日記
  江戸時代初期に日本陽明学の祖ともいわれる中江藤樹にまつわるエピソードで、「そば屋の看板」という話があります。

 あるそば屋の主人が、なかなか商売が繁盛せず、知り合いに相談したところ、隣村の中江藤樹という人が立派な学者で字も達者らしいから、その人にお願いして店の看板を書いてもらってはどうかとアドバイスしました。そば屋の店主は、さっそく中江藤樹を訪ね、看板の揮毫を依頼しました。中江藤樹は、親しい間柄でもないのに、「それでお店が繁盛するのなら引き受けましょう」と二つ返事で引き受けました。
看板は、数日経ってもできあからず、十日程してにやっと出来上がったと中江藤樹から連絡がありました。店主は、さっそくその看板を掲げて営業をしました。

 それからしばらくしたある時、大名行列がそのそば屋の前を通りました。その大名は、そば屋の看板の文字に惚れ込み、店主に譲って欲しいという依頼をしました。店主は、それを承諾し、謝礼金も受け取りました。大名行列が去った後、そば屋の店主は、また、中江藤樹の邸宅に行き、看板を新たに書いて欲しいと要望しました。

 中江藤樹は、店主にそっと半櫃を持ってきて中を見せました。そこには、そのそば屋の看板を書く為に練習をした半紙が何枚も何枚も有りました。それを見たそば屋の店主は恥入り、中江藤樹に心から侘びました。

自由平等

是れ箇の頭脳を識り得るを須(ま)ちて、

及(すなわ)ち可なり。
義は即ち是れ良知なり。
良知は是れ箇の頭脳なるを曉(さと)り得て、
方(はじ)めて執着なし。
 
 
『伝習録』にある言葉です。この言葉は、黄勉之という弟子の問い掛けに答えた王陽明の答えの一部です。その問い掛けとは、以下の様なものでした。
 
「物事を決めつけることも無く、それにとらわれることも無い。この様にして義に親しんでいく」と『論語』(里人篇)にありますが、何事もこの様にしていく必要があるのでしょうか
 
この問い掛けに対して王陽明は、「どんな時でもその様にしていく必要がある」と答えた上で、この文章にある言葉を述べています。
 
それは、肝腎要の事を識ってこそ「そうである」と言えるのです。ここで言う「義」とは、これは良知の事を言っているのです。良知が肝腎要であると覚って識り得てこそはじめて執着が無くなるのです。
 例えば、人からプレゼントを受け取るとしたら、タイミングというものがあるのです。今、受け取るべきだから何でも受け取るとか、今は受け取るべきではないということに執着して、全て拒絶するというのであれば、それこそ決めつけやとらわれであって、良知の真のあり方とは言えないのです。それを義とよぶことができるでしょうか?
 
 
◆ 徒然日記
 「義」だけではなく、「自由」や「平等」も肝心要となるのが良知であると考えて良いかも知れません。
 自由については、良知を曇らせたまま「何をやっても構わないではないか」と言っているのは、真の自由ではないといえるのではないでしょうか?例えば、「自由の為に闘う」という時に、良知を肝心要とするかしないかで、その成果と結末は、大きく違ってくると思うのです。もし、権力や社会が自由を束縛して良知を曇らせてしまうのであれば、自由を得る為に闘うというのは正しいかも知れません。でも、利己心や私欲が心の自由を束縛して良知を曇らせてしまうのであれば、戦う相手は、権力や社会ではなくて、自らの利己心や私欲になると思います。
 また、平等というのは、どんな人であろうと良知があるという意味において平等なのだと思います。その良知の発揮の仕方が違うからと言って、それを無理に同じやり方にしようというのは真の平等とは言えないと思います。
 たとえば、富士登山をしている人たちにとっては、山頂にいる人、中腹にいる人、麓にいる人、それぞれが登山を楽しんでいるという心の思いが平等なのであって、富士山を掘削して皆が同じ高さになるようにするということが平等ではないということです。
 
 

毀誉褒貶

毀誉は外に在る的(てき)なれば、

安(いずく)んぞ能(よ)く避け得んや。
只自ら修むること如何を要するのみ。
 
 
『伝習録』にある言葉です。
王陽明が弟子から「『論語』に孔子が誹謗中傷を受けた事が、記されていますが 、孔子ほどの聖人がなぜ誹謗を免れなかったのでしようか」という質問を受けました。それに対して王陽明は、孟子の言葉も引用して答えています。「毀誉は外にあるものだから、完全であろうと努力していても誹謗されることはあるし、考えもしていなかった称賛を浴びることもある」だから、ただ、自らを如何に修めるかということだけを考えればよいのだ。
 
 
 
◆ 徒然日記 
 戦前まで朝鮮半島と台湾は、日本が統治していました。現在、台湾は親日国と言われていますが、日本の統治をすんなりとを受け入れた訳ではありません。日清戦争後の講和条約により、台湾割譲が決まった後も、抗日運動や台湾民主国の建国運動などの動きがありました。台湾民衆の自治権を切に願って運動していた人の中に、辜顯榮(こけんえい)という人がいました。この人も最初は、日本の統治に反対していたのですが、国際情勢や当時の国情を考えると、日本の統治を受け入れたほうが、台湾民衆の為になるのではないかという判断に至り、日本政府に協力する方針転換を図りました。辜顯榮は、これを期に事業展開を拡大し、台湾の発展に大きく寄与し、台湾の五大家族と言われるほどの名家となり、戦後、そのご子息たちも台湾経済の中枢を担う役割を果たされています。
 
 一方、日本に侵略されたとし、戦後も一貫して反日姿勢を崩さない韓国ですが、当時の朝鮮統治は、決して非合法に行われた訳ではなく、何度も日韓協議を行った上で決まったものでした。その協議で韓国側の中心人物となっていたのが李完用という政治家です。当時の韓国では、国際的な視野を持つ稀有な存在ともいえる政治家です。日韓併合を受け入れた李完用は、韓国では五大国賊という評価を受け、2007年には、そのご子息が財産を没収されています。しかし、この李完用という人は、朝鮮民衆の平和と安定の為に、当時の国際情勢を鑑み、苦渋の選択として日本の統治を受入れたのではないかと思います。
 
 戦後になって、台湾の辜顯榮は御用商人という誹りを受け、韓国の李完用は売国奴という非難を浴びていますが、財界人と政治家という違いはあるもの、日本統治に協力した二人の戦後民衆の受け入れ方が大きく違っていることは興味深いことです。ただ、外からの評価はどうあれ、私は、二人とも民衆の平和と発展を強く願っていたのではなかと思います?