今回の震災に際しても、多数のデマが流布されています。伝達経路は、昔ながらの口コミ、そしてmailにtwitter。
怪文書やパクリ(詐欺)に類型があるように、デマにも定型的なformatがあり、「人を騙すための戦略」があります。(非常時ではなく)普段から、そういったものを調べておいた方がよいと、わたくしは考えています。参考までに、過去記事を貼っておきますね。
わたくしにもデマメールが届きましたが、そういうデマの流布、拡散に一役買ってしまった人たちが一定数存在します。
危険を多くの人に伝えようとした善意ある行動。やさしさから出た行為。
という一面的な見方で終わらせてよいのか?
答えは否。
少なくとも当blogにおいては、「情緒的な話」で終わらせてはいけないという態度をとります。
「デマとは考えなかった」「判断できなかった」で済ませてはいけない。そういう態度を「善意だから」という視点のみで洗い流してはいけない。
ただし、的確な判断がまったくできないような状況というものが実際にあり、そのような状況で、人間に超人的な判断力を期待してはいけない、という前提があることを書いておきます。
何を信用、信頼するかは、普段からの知見集積結果がものを言うわけですが、それは個々人で違います。
と、前回 書きました。
普段、「疑ってはいけません(キリッ:AAなし) 」と言っていた人が、危機に際して、「疑念を持って情報を精査しなさい。それを基に自分で判断しなさい」というようなことを言い出したら、その人の言うことを鵜呑みにして付き従っていた人たちは困惑するしかないですよね。
何事も日常から。
同じ意見、同じ考え方。「見え易い部分」は同じかもしれません。しかしながら、「見え難い部分」である「そこに至る過程」も重要なのです。どれだけ考えてきたか、が。子供を教育する際には、見え易い部分ばかりに気を取られないようにしましょう。普段からね。
騙されてでも安心したい。誰か教えて導いて。
という心の在り方の一例を、当blogでは何度も紹介してきました。自分で考えることができない、判断できない。それではとても不安なので、誰かの言葉を信じて、ただただ従っていたい。
一方で、思い込みや受け売りの知識を持っているだけで、「なぜか自信満々」な人というのも存在します。そして「なぜか自信満々な人」に吸い寄せられた「騙されてでも安心したい人」が親衛隊となり、多数を形成していく。すると、その「多数」に信用、信頼を見出す人たちが吸い寄せられて・・・。当たり前のことですが、多数、多勢であることは真理を証明することにはならないのですが。
そういった集団に身を置き、日常を過ごす。
それよりも、自分で考えて、多くの人と議論しませんか?
議論には勝敗とか、面子とか、社会的地位とかは関係なく、議題を解明することに意味がある。
何度も書いてきましたが、それがわたくしの考え方です。
え?
考えるなどない。思考などないのだ。
ですって?
にほんブログ村、幼児教育カテゴリー・ランキングの「考えるなどない氏」の話ですね。
「考えるなどない」氏の態度にショック! にも書いた通り、具体的に実行してみせる、あるいは口述してみせることができることを頭の中で考える、思い浮かべることはできます。「実体のない感情、思い」の話とは異なります。
おっと、ここまで。読者の皆様のご要望通り、この話は折を見て再開しますので待っていてくださいね。