海外挑戦をする若者に告ぐ | 斎藤陽介オフィシャルブログ「よーすけダイアリー」by Ameba

斎藤陽介オフィシャルブログ「よーすけダイアリー」by Ameba

斎藤陽介オフィシャルブログ「よーすけダイアリー」by Ameba

privatアップ




「裏海外組の真実」


奥さん紹介したら、ものすごい反響で一気に

サッカー以外のとこで注目されてしまったわたくしですが、

今回はこれまで辿ってきた道と海外で挑戦することのリスク

などをお話しして、これから海外挑戦する人の参考に

していただければと思います。

(長くなってしまいましたが、お時間があれば読んでいただけたらと思います)





日本でプロとして4年プレーした俺は、大した成績を

残すことも出来ずに解雇されました。

その後選んだ道は「海外でプレーする」という俺の

小さい時からの夢でした。

4年プロとしてやりましたが、全く貯金が出来ず、

(家賃払ったり、遊んだり、ショッピングしたり、税金払ったり・・・)

持っていた車を売ってなんとか資金を作りました。

当初の計画はイタリアへの挑戦でした。

実績のない俺が挑戦出来るのは4部や5部のクラブだけ。

それでも行こうとは思っていました・・・

そんな時声をかけてきてくれたのが

「アルビレックス新潟シンガポール」でした。

俺のところまで足を運んでいただき、チームの抱く夢、

俺の夢をお話しさせていただきました。。。

そして、シンガポールという地で俺の海外でのキャリアは

始まりました。

なんとかやっていける程度の給与でしたが、周りにはたくさんの

日本人、サポートがあって満足にサッカーが出来る環境でした。

海外での生活、外国人クラブとの対決、クラブ史上初のタイトル・・・

とても刺激的で充実していました。

そのシンガポールでヨーロッパのクラブをコーディネイトしてる方

と出会いました。 

仕事の関係で訪れるという情報を得た俺は友人の力を借りて

なんとか彼に会って話しする機会をもらいました。

そして、俺の夢やどれだけ熱意があるかを伝えました。

翌年、ヨーロッパに挑戦することになりました。





最初に降り立った地は

「ラトビア」

正直それまでどこら辺にあるのかもどんな国なのかも

全く分かりませんでした。

最初練習したクラブはラトビアでも下位のクラブ。

予定としてはこのクラブでトレーニングした後、数多くの

クラブがキャンプするトルコに渡り、トライアウトを受ける

予定でした。

しかし、このラトビアのクラブが自分を欲しいと言ってくれたのです。

正直、ラトビアでも下位のクラブですから大学生でも入れるレベルです。

トルコに渡り、他のクラブを探すという選択肢もありましたが、ここで

結果残せなかったらどこ行っても結果残せないし、全く実績のない俺には

なにかしらの実績が必要だと感じました。

そして契約期間半年の給与なしでこのチームと契約しました。

4人部屋の2段ベッド、水しか出てこないシャワー、ボコボコの練習上、働いてる

選手もいたので人数が足りない、俺も金ないから時間ある時は公園で

読書が日課(笑)とか・・・

そんな暮らしでしたが、ピッチで結果残すしか、生き延びる方法はありません。

結果残すか、ダメだったら日本帰って普通に働くかしか道はありませんでした。

プレッシャーと不安の毎日です。

半年で公式戦12ゴール。4月には月間MVPに選ばれました。

なんとか次につなげる結果を残しました。


それにより、いくつかのクラブからテストオファーをいただくことが出来ました。

半年前までは全くの無名でしたが、半年で他から注目していただけるように

なりました。

好条件を提示してきたクラブがあり、練習参加しにオーストリアまで

行きました。

国内の空港を間違って、自力でバスと列車を乗り継いで目的地まで

行ったのも海外生活ならではの良い経験でした。

(めちゃくちゃ焦ってましたけどね)

このクラブでも良い評価をしてもらい、クラブ幹部にも契約するような

ことを言われていましたが、ある日いきなりイングランドプレミアリーグ

でプレーしてたとかいう選手が現れ、ただちに俺は帰らされました。

一度ラトビアに帰って、他にも条件がいいというクラブに練習参加する

予定でしたが、ひとつ俺にとって魅力的なオファーがありました。


前年のラトビアのチャンピオンクラブです。

直後にヨーロッパチャンピオンズリーグの予選大会を控えていました。

予選とはいえ、小さい頃から見ていたチャンピオンズリーグという舞台で

プレーするというのは俺にとってはまたとないチャンスです。

俺はこのクラブと契約しました。




その頃からです。 今の奥さんと子供と住み始めたのは。

半年かけてなんとか給与を受け取れるようになりました。

日本円で月15万円。

クラブからは家を用意してもらい、ラトビアは物価が安いとはいえ

3人で暮らすのにはギリギリ、わずかな貯金を少し崩しながら

生活していました。 子供におもちゃを買ってあげるのも大変でした。



ラトビアという国で1年通して活躍してさらに自分の評価を上げて、

良いクラブに行くのが目標でした。

チャンピオンズリーグは予選2回戦で負けてしまいましたが、

ヨーロッパに来たからこそ味わえる貴重な体験でした。

シーズン中も重要な場面でゴールを奪い、

シーズン15ゴールで得点ランク2位。 ベストイレブンに選ばれました。



移籍直後に彼女の妊娠が発覚し、その直後は全くサッカーに身が入りません

でした。 

 ただでさせ、今十分に家族を養えていないのに子供が増えて俺が養っていく

なんて・・・

サッカーの事なんて考えられず、葛藤と不安の毎日でした。

その時のことを思うと自分の事ばかり考えて、妊娠してた彼女に気を遣ってやれて

なかったのが申し訳ない。

彼女は生まれてくる子供のために色々努力をし、家事をして、娘の面倒を

みていました。 彼女の両親はすでに他界しているので頼りにするのは

俺しかいません。




ラトビアでのシーズン終了後、すぐに新しいチームを探し始めました。

ポーランドのクラブ、ドイツ3部のクラブとテストを受けにいきました。

言葉もプレースタイルも違う国。 自分でチケットを用意しないといけない時も

ありましたし、泊まるところも自分で探さないといけない時もありました。

ポーランドのクラブは評価をもらえず落とされました。

ドイツ3部、浦和前監督ブッフバルトが率いるクラブからは

獲得の意思をいただきましたが、条件面で折り合いがつかず、

断らせていただきました。 子供がいなくて一人だったら、どのような

判断をしていたのか分かりません。

結局年内にチームは決まらず、12月は彼女の親戚が暮らすイングランドに

移り住むことになりました。

日本に帰る余裕もお金もありません。

1月、トルコで行われるロシアのクラブのテストオファーに

準備をするしかありませんでした。

その時はほんと貧しく日本の家族に助けてもらうしかありませんでしたが、

家族で過ごすささやかなクリスマス、ニューイヤーはとても幸せでした。




トルコに渡る直前、再びドイツに渡り練習参加をさせてもらいましたが、

(意図としてはトルコに向けての身体作り)

すぐに戦力にはならないから帰ってくれと言われ、そのニュースが

国内に流れ、次の受け入れ先のクラブにも拒否をされてしまいました。

そんな時、元浦和監督のエンゲルス氏に住まいや食事を用意していただき、

マンツーマンでトレーニングにつき合っていただきました。

当時、エンゲルス氏はアフリカの国の監督を指揮していましたが、ドイツに

帰ってきていました。


そして、俺はトルコへと向かいました。

出産予定まで2ヶ月を切り、このチャンスは石にかじりついてでも

いや、俺の命投げてでも掴みたいものでした。

彼女は俺以上に毎日不安な日々を過ごしていましたから。

それこそ、ダメだったらすぐに日本帰って、仕事を探さなければ

ならないと状況でした。


毎日が死に物狂いの日々。

そこで俺は練習試合でスイスの強豪からゴールを奪いました。

数日後、このロシアのクラブから正式オファーをいただき

契約にこぎつけました。

出産の1ヶ月前ほどです。

その後もキャンプは続き、キプロスでの2次キャンプとトルコでの3次キャンプの

間に3日間の休みがあり、彼女のいるイングランドに向かいました。


今でも忘れられません。 

俺が休暇で訪れたこの3日の間に子供は生まれました。

まるで俺を待ってたかのように。

雪がシンシンと降るその日、初めて自分の息子と対面しました。

俺が一生かけて守らなければいけない命です。

生まれた次の日には次のキャンプ地であるトルコに旅立ちました。




長いキャンプが終わり、いよいよシーズンが始まりました。

英語が全くといっていいほど通じない環境。 なにかと文句を言うし、

侮辱を言ってくるロシア人。

ラトビアよりレベルが高いこともあり、自分の力を発揮することが

出来ません。 

シーズン終了が近づき、契約も危うい状況にいましたが、

最終節。 スタメンで出場すると得点を決めるとそれが決勝点となり

1-0で勝つ事が出来ました。

このゴールにより、契約の延長と給与のアップが提示されました。

この時もまさに崖っぷちの状況でした。

夏の休暇は短く3週間弱しかなかったので、その時は帰国を保留し、

ラトビアで休暇を過ごすことになりました。

家族で過ごす初めての休暇らしい休暇でした。




今シーズン。なかなかチャンスをもらえず、もどかしい日々を

過ごしているのが現状です。

その一方、ある程度の給与はいただいてるので、奥さんと子供2人を

養っていけてるのは確かです。  

今はラトビアとロシアで離れて暮らしているので毎月生活費は送っていますし、

次の休みには日本に帰れる余裕も出来ました。

結果の世界なのでこの先なにがあるか分かりません。

ただこれまで同様に俺はどんな状況でも乗り越えてみせる。

守るものがあるやつは強いよ。





これは俺のこれまでの海外での経験ですが、他にも

色んな選手を見てきました。

半年もクラブが決まらない選手や、高額のお金を払いながらも

プレーする選手。  テストに行っても、クラブにシカトされ

ただホテルにいるだけでサッカーが出来ない選手たちなど・・・



また、4部のクラブからいきなり1部のクラブに移籍した選手。

チャンピオンズリーグ、ヨーロッパリーグに出場した日本人選手も

います。  いきなり月収100万ほどもらえるクラブに移籍した選手。


なにが起こるか分からないのが、、、思っていた通りにはいかないのが

海外挑戦です。

Jリーグで活躍した選手や日本代表クラスの選手になると通訳いたり、

しっかりした環境をいただてプレーが出来ますが、

俺みたいな日本で結果残せなかったやつや、大学生とかアマの選手が

挑戦するとなるとそれなりの覚悟とリスクが必要となります。

小さいことで文句言ってるようなやつには成功はありません。

どんな状況においても自分で乗り越えてみせるくらいの気持ちがないと

海外にきてもなにも出来ません。

人の助けは必要ですが、まずは自分でなんとかしようとしないと

結局困るのは自分です。

偉そうなことを言っていますが、明確な目標と覚悟をした上で

若い人には海外挑戦してほしいです。

これがこの2年間で思ったことです。

いくつも崖っぷちに立たされることはありましたが、それを乗り換え、

ゴールを決めた時の興奮は何物にも代えることは出来ません。

これこそ俺が求めているものでした。

こんな経験日本では出来ません。



だから、夢と覚悟を持って挑戦してほしい。

サッカーで海外を目指す選手だけではないかもしれない。

これからなにかを挑戦しようと思った人には夢と覚悟を

持ってもらいたい。

そうすれば、きっといいことあると思う。







$斎藤陽介オフィシャルブログ「よーすけダイアリー」by Ameba



今回もよーすけブログをご覧いただきありがとうございました。

また次回のブログで会いましょう!