寺院消滅。だが仏教は死なない。 | 知財業界で仕事スル

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知財業界の片隅で特許事務所経営を担当する弁理士のブログ。

最近は、仕事に直結することをあまり書かなくなってしまいました。

本人は、関連していると思って書いている場合がほとんどなんですが…

信仰。

深いものがある。


以下は、日経ビジネスオンラインのメルマガ(2015.06.05 [金])より転載(無料で誰でも受けられるので問題ないでしょう)。特に、琵琶湖畔でのエピソードには感動した。

<引用始>

■琵琶湖畔の観音像と「宗教崩壊」

 お金はないけれど時間だけはたっぷりと持っていた学生時代。普通列車が1日中乗り放題になる「青春18きっぷ」を片手に、何度か日本全国をぶらぶらと貧乏旅行して回りました。いかにその時間が恵まれていてかけがえのないものなのか、タイムマシンがあるなら、知らずにそれを浪費している過去の自分を後ろからどやしつけてやりたい気分になります。

 そんな旅の途中、琵琶湖畔にある小さな町に立ち寄りました。

 井上靖さんの小説『星と祭』を読んで、いつか訪れたいと思っていた場所でした。小説の中でも描かれていますが、この辺りは観音信仰に篤い土地柄で、国宝を含めた何体かの観音像が地域の寺に散在しています。井上靖さんの筆致による仏像の描写が印象的で、どうしても自分の眼で見てみたくなったのです。

 当時、まだインターネットの情報はいまほど充実していませんでしたし、国宝や重要文化財ですらない仏像へのアクセスを詳細に解説するガイドブックなどありません。地元の人に聞きながら、借りた自転車で走ったりバスを乗り継いだりして向かいます。

 そうしてたどり着いたある古寺はすでに無住でした。お堂には鍵が掛かっています。隙間から仏像らしきものは見えますが、さてどうしたら中身を見られるだろう。と、目を横に向けると、「お参りされたい方はご連絡ください」との手書きのメッセージとともに携帯電話の番号が書かれていました。電話を掛けると、「ちょっと待っていてくださいね」。10分後くらいに軽トラックに乗って50代と思しき女性が鍵を持ってきてくれました。聞けば、地域で持ち回りの当番で「観音様のお世話」をしているのだそうです。確かに庵の中は清掃が行き届いており、お花も供されています。

 暗闇から姿を現した観音像を前に、私は、戦慄するような思いでしばらく言葉を発することができませんでした。

 それまで、仏像というものを、美術品や工芸品としてしか捉えていませんでした。しかしそこで私が触れたのは、その造形の美しさや希少性、史料的な価値などとはまるで無縁な地平のこころの働き――「信仰」というものでした。目の前のこの里の人たちがそれぞれ抱えてきた祈りを何百年も引き受けて来て、いまもなお引き受け続けている。それを知った時、感動というよりも、その真摯な願いが積み重なった重さに、何だか怖くなったことを記憶しています。

 いま思えばそれは、日本社会が覆い隠し、牙を抜いてきた仏教、あるいは信仰というものの本当の姿を垣間見た衝撃だったのかもしれません。

 お寺の副住職でもあるという異色の経歴を持った「日経ビジネス」記者・鵜飼秀徳は、日経ビジネスオンラインで、日本の宗教の「今」をレポートする連載「宗教崩壊」を執筆して来ました。そこで描かれて来たのは、日本社会が直視することを避け続け、変容を余儀なくされ、それでもなお息づき続けるこの国の宗教の最前線です。好評だった連載をまとめ、加筆して『寺院消滅』として書籍化しましたが、このメールを受信している日経ビジネスオンラインの会員は、書籍に収録された過去記事を当サイトでお読みいただけます。

 時代が変わっても、変わらない人のこころ。人間が生き物である限り逃れらない生と死。にも関わらず、それと向き合うことから目を背け続ける現代社会に思いをいたしながらご一読いただければ幸いです。

                  日経ビジネスオンライン編集長 池田 信太朗


<引用終>



つい先日、上の記事に出てくる「寺院消滅」を読んだ。
http://www.amazon.co.jp/%E5%AF%BA%E9%99%A2%E6%B6%88%E6%BB%85-%E9%B5%9C%E9%A3%BC-%E7%A7%80%E5%BE%B3/dp/4822279170/ref=tmm_hrd_title_0?ie=UTF8&qid=1433531967&sr=1-1


日本の人口減少肯定派の私であるが
http://ameblo.jp/yoshikunpat/entry-10755682722.html
http://ameblo.jp/yoshikunpat/entry-10755684230.html

それでも、人口減少に伴って失われる古きよき時代には寂しいものを感じる。このままいくと、かなりの数の地方自治体が消滅の危機に瀕するらしいが、その前に、それらの地から寺院が消えていく運命にあるようだ。

上の池田編集長が昔「青春18きっぷ」を使って行かれた琵琶湖畔の古寺は、今も美しい環境を維持しているだろうか?当時すでに無住(住職が居ない寺)だったし、それからの年月を考えると、当時の「観音様のお世話」係が今も徹底的な清掃をされていると考えるのは少々無理があるように思う。…果たして、その清掃の伝統は今も続いているだろうか…

お寺が無くなれば仏教が衰退するのか、といえば、それは違う気がする。思想としての仏教と、現状の寺院が扱う仏教とは大きく乖離している。衰退するのは、本筋から乖離した日本の仏教の方だ。いわゆる“葬式仏教”と揶揄されるような宗教は、葬式をする相手がいなくなればその地から消滅せざるを得ない。

では、思想としての仏教はどうかというと、こちらの方は結構、世界で活躍しているのではないかと思う。特に禅(ZEN)の人気は高い。寿司に代表される日本食の世界的なブームにのり、日本の仏教思想に影響を受けた日本文化も広がりをみせている。

世界に向けて“輸出”された日本の仏教思想は、もちろん寿司と同様、日本国内のままではありえない。さまざまな変更がそこに加えられてローカライズされている。しかし、そうではあっても、世界に向けて広がっているのは間違いないように思う。

日本の僧侶も、この世界的潮流にのれる能力を開発するべきではないのか?仏教のプロの副業として成立するものは、決して葬式だけではあるまい。

“葬式仏教”は輸出できないと思うが、禅に代表される仏教思想の輸出は大いに可能性があると思う。たとえば書道家(芸術家)でもある僧侶とか。英語で禅思想を説明しながら、墨絵を描くとか、茶会を開くとか。僧侶の資格をもった寿司職人とか?

…少々、無茶か?どのような形であれ、仏教思想の布教ができれば、それで僧侶は役目を果たしていることになるのだと思うが。

海外ではなく国内に目を向けた場合、別の切り口として「死」に対する処し方のプロとして業務の広がりを考えたらどうだろう?今は、無宗教なお葬式も増えているらしい(散骨とか)。それでも、宗教のあるなしに関係なく「死」は個人個人にとって大変扱いにくいものだ。“葬式仏教”という切り口に限定してそれにアプローチするから受け入れ先が細っているのであって、無宗教もとりこんで「死」に対する処し方のプロとしての能力を高めることができたら、それも将来性のある方向だと思える。

諸行無常、が仏教の基本的な考え方だと思うが、それを最もよく知っているはずの僧侶が、昔ながらの慣行に固執し、変化できないのであれば、これは困ったことと言わざるを得ないのではなかろうか。