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過去記事リンク集

こちらでは、評判よかった記事、自分で気に入った記事など並べています。




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  • 22 Jan
    • ジョン・F・ケネディ氏の演説から

      John F. Kennedy ジョン・F・ケネディ(1917年~1963年) 米国の第35代大統領。著書『勇気ある人々』にてピュリッツァー賞受賞。 最近ニュースで流れてたケネディ元大統領の演説を観ました。 そこでこんなメッセージがありました。 Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country. 国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。 これはアドラー心理学にも通じる考え方ですね。 心理療法的にも心を健全に保つための考え方として素晴らしいと思います。 自分が何ができるだろうか?と考える習慣。 上記は国のことですが、友人、恋人、夫婦、会社なども全部同じように考えてみる。 自分があの人のために何ができるだろうか? 私は夫に何ができるだろうか? 彼女に何をしてあげられるだろうか? これはギバー(与える人)の考え方にもなってますよね。 逆に、「わたしのためにこの人が何をしてくれるのか?」と考える習慣を持っている人は、うつになりやすかったり心は不健全な考え方といえます。 彼が私のために何をしてくれるのか?こうして欲しいああして欲しい。 でも他人は自分のためにあれやこれや全部思い通りやってくれないですよね。 こういう考え方していると不満ばかりが出てくる。 彼がこうしてくれればいいのに、、、、 上司がこうしてくれればいいのに、、、 彼女がこうしてくれないからうまくいかない、、、 会社がこうしてくれないからうまくいかない、、、 心理療法士のある先生もうつになるような人をたくさん診てきて共通する考え方はこういう考え方だとおっしゃっていました。 変えられるのは自分だけ。 自分以外は思い通りに変えられません。 できないことを考えていると心に負担がかかっていって苦しくなります。 アドラー心理学ではこんな言葉があります。 「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」 誰かに対して不満が出てきたら、上記の言葉を思い出すといいかもしれない。 「あーそっか。あの人は私の期待を満たすために生きているわけではなかったな」と。 あの人が、彼が、上司が、こうしてくれればうまくいのに ではなく、 自分がどうしたらうまくいくだろうか? と考える。 これがうつにならない人、主体的に生きる人の考え方です。 自分を変える。変えられるのは自分だけ。 過去と他人は変えられない。しかし、いまここから始まる未来と自分は変えられる。 エリック・バーン。カナダの心理学者。 ◆【嫌われる勇気 岸見一郎、古賀史健著】 哲人 自分にしか関心を持たない人は、自分が世界の中心にいると考えてしまいます。こうした人たちにとっての他者とは、「わたしのためになにかをしてくれる人」でしかありません。みんなわたしのために動くべき存在であり、わたしの気持ちを最優先に考えるべきだと、半ば本気で思っています。 青年 まるで王子様やお姫様のように。 哲人 ええ、まさしく。「この人はわたしになにを与えてくれるか?」ばかりを考えています。 ところが―おそらくここが王子様やお姫様と異なることでしょう―その期待が毎回満たされるわけではありません。なぜなら、「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」のですから。 青年 たしかに 哲人 それで期待が満たされなかったとき、彼らは大きく失望し、ひどい侮辱を受けたと感じます。そして憤慨するのです。「あの人はわたしになにもしてくれなかった」「あの人はわたしの期待を裏切った」「あの人はもう仲間ではない、敵だったのだ」と。 ◆ジェームス・スキナー(経営コンサルタント、セミナー講師、作家) 人間関係を指導する時に、これの原則は非常に簡単なんです。 その人間関係からあなたは何がもらえるんだろうか? 相手は自分のどのニーズを満たしてくれるだろうか? そういうことを考えるのをやめればいい その関係において、あなたは何を与えることができるんだろうか? どうすれば相手を幸せにできるんだろうか? それを考えればいいんです。 Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country. 国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。  John F. Kennedy ジョン・F・ケネディ(1917年~1963年)

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  • 22 Dec
    • 感謝に気づけば行動が変わる

      新しい会社で初給料を頂いたので、前職の職場のみんなに菓子折りを持っていきました。 すごく喜ばれました。泣いちゃうよって言う人もいて僕もすごく嬉しかったです。 みなさんのおかげでいまの自分がある。本当にありがたいなーって気持ち、感謝の気持ちです。 初給料といえば、社会人一年目の初給料のときは何もしなかったです。 いま思えば、親にプレゼントするとか、ごちそうするとか、すればよかったなと思います。 親の気持ちを考えてみると、一生懸命育てた子どもが育って、社会に出て働けるようになって、その初めてのお金でごちそうしてくれるとか、ものすごく嬉しいと思うんですよね。 僕はどうして何も出来なかったのか?と反省すると、親の気持ちを考えられなかったとか色々あるかもしれませんが、一言でいえば、感謝がなかった。 感謝のレベルが低かったとも言えます。 感謝のレベルが高い人だと、色んな感謝できることに気づけるんですよね。 例えば、初給料は親に何かしてあげたほうがいいよって聞いたことがあってやる人もいるかもしれない。 それは「知識」によって生まれる行動ですよね。 「ありがとう」という言葉もそう。こういうときは「ありがとう」と言ったほうがいいという知識があって言うのと、心からありがたい気持ちで、「ありがとう」が自然と出るのは違いますよね。 「知識」から生まれる行動よりも「感謝」から生まれる行動の方が、自分も気持ちがいいと思うんですよね。 自分がそんなにありがたいとは思ってないけど、「ここではありがとう言った方がいいから言う」ってのは、あまり気持ちいいとは言えないですよね。 仕事でも、この会社で働かせてもらってありがたいなーって感謝の気持ちがある人は、仕事の姿勢や態度が全然違ってくるでしょう。 そういう感謝がある人は、周りもよくしてくれることが多いでしょうね。 周りがよくしてくれるから、ますますありがたく感じる、感謝の気持ちが大きくなって、より言動もいいものが出てくる。好循環になるんですよね。 一見環境もよくなくて、感謝できることなんてないってときこそ、感謝できることを意識して探してみる。 ちょっとでも見つけていくと、感謝はどんどん拡大していく。 感謝できないことを無理して感謝するわけではなくて、感謝できることに気づくということです。 感謝というのは感情です。 たとえば、花を見て「きれいだな」と自然に出る感情と同じようなもの。 いつも急いで歩いてたら、わき道の花に気づかない。 そこで花を探してみるようにする。 そうすると、きれいな花に気づいて「きれいだな」と自然と出ますよね。 無理やり「きれいだな」と思おうとかすることとは違います。 感謝できることは周りにいくらでもあります。本当にたくさんあります。 感謝できることを探してみる、どんどん見つけるのがうまくなっていきます。 感謝の思いは、注意深い手入れが必要な果実だ。 粗野な人のもとでは実らない。 サムエル・ジョンソン わたしは感謝の念を抱いている。 それは、自分にとって得になるからではなく、 わたしに喜びをもたらしてくれるからだ。 セネカ 感謝の思いを抱いている人々は、世界を別の意味に解釈するだけではなく、その存在だけで世界を変えてしまう。 カイト・エルガー 近所の親切なおばさんがチョコレートの袋をつかむと、子どもはすぐに食べようとする。 そこへお母さんの小声のお叱りがとんでくる。 「そういうときはなんていうの?」「ありがと!」 ここはもう少しほかの形にできないものか。たぶん、こんなふうに。 お母さんがたずねる。 「坊や、うれしい?」 もらった人の喜びが形になって見えてくると、 あげたほうにも分かちあえた喜び、ほんとうの喜びがあらわれてくる。 「ごらん。おばさんはお前が大好き。だからおまえのことを思ってくださるのよ。」 愛を経験させる、気づかせる。 こうして、感謝と、それに結ばれている記憶が育てられる。 クラウス・ヘメルレ こういうときは「ありがとう」と言う。そういう知識で学ぶよりも、感謝の気持ちを学ぶ方が素敵だなと思います。 「坊や、うれしい?」 お母さんに聞かれて、自分がうれしい気持ちになってるなと気づく。 その気持ちを表現する形のひとつが「ありがとう」という感謝の言葉ですよね。 こういう学び方の方が他の場面でも、自然と心からのありがとうが言えるようになるでしょうね。

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  • 19 Dec
    • 争いやいら立ちは理解によって消失する②

      前回の続きです。 「まったく、他人の迷惑を考えない人がいるもんだ!」 足踏みしてズボンについた雪をふり落としながら、通り道をふさいでいた車を怒りをこめてふり返りました。 と、向こうの歩道に両足に添え木を当て、松葉杖を頼りにおぼつかない足どりで駐車場へと向かっている女性が見えました。 一歩一歩ゆっくりと彼女は歩道を進み、ついにあの通り道をふさいでいた車にようやくのことで乗り込むと、自分で車を運転して走り去りました。 わたしはしばし、唖然とつっ立っておりました。ついさっき、自分が感じたことがいても立ってもいられないほど恥ずかしい、と思いました。 わたしの心にあった先刻の怒りやいら立ちは、先ほどわたしが振り払ったズボンの雪のように、きれいさっぱり消え去っています。 ほんの数秒のあいだに、わたしはこんなに豹変したのです。でも、いったい何がわたしをこれほど変えたのでしょう。 状況に変化はありません。車が通り道をふさいでいる事実は変わっていないのです。歩道に出るためには、雪の吹きだまりをかき分けかき分けしなくてはならないのも以前と同じです。 変わったのはただひとつ、わたしの心のありよう、そう、そのことに対する心構えだったのです。 わたしは当の女性を目の当たりに見、その人の状況を知りました。そして一瞬にして理解したのです! そして、理解という、前とは別の心構えでもってその事態を眺めたとき、いら立たしさや非難の気持ちは跡形もなく消え去っていたのでした。 大切なのはここのところです! 他人とうまくやっていくための必要不可欠な要素、それは理解なのです! あなたがもし、人々と手に手をとって何かをする非凡な才能の持ち主になりたいと願うのなら、あなたは何よりもまず、他人を理解するすべを身につけなくてはなりません。 わたしにせよ、先述の歩道への出口に乗りつけられた車のことでかんしゃくを起こしたことを、それも当然のことだった、と自分自身を言いくるめることだってできたわけです。 そう、確かにそういうように考えることは、たぶんあり得ます。しかしもし、わたしがそういう考え方に身をまかせていたとしたら、どうでしょう? わたしはきっと、わたしのまわりの人たちに対して、数え切れないほどたくさん、自分自身の正当化を行おうとしていることでしょう。 以上 事実、状況は変わっていない。 変わったのは自分なんですよね。 自分が変われば世界は違って見える。 ということは、ありのままの事実は見てなかったともいえます。 別のたとえでいえば、必ず色メガネをかけて見ているということ。 人間がこの世界を認知するときに、必ず自分の色が付いて見えている。 このメガネは外せません。 ただ、別の色に替えることは出来ます。 事実や他人、環境は思い通り変えられません。しかし、自分は変えられるんですよね。 だから、「変わる必要があるのは常に自分だけ」という考え方をブログで書いてます。 自分が変わることによって、自分の世界をよりよくしてきましょうということです。 ちょっと話がそれました。 今回の話で大事なポイントは、理解に努めようということです。 上記の話で言えば、「どうしてこの人はここに車を止めたのだろうか?」と理解しようとしなかった。 最近書いたRさんの話で言えば、「どうしてチームリーダーは除名したのだろうか?」と理解しようとしなかった。 自分が嫌な気分になった、イライラした、怒った原因は、自分が相手を理解しようとしなかったからだと言う事も出来ます。 相手を理解しようともせずに、自分のことばかり考えていた。とも言えるでしょう。 自分を振り返って反省するときのひとつ。自分のことだけ考えていなかっただろうか? この問いを自分にしてみると何か気づくことがあるかもしれない。

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  • 15 Dec
    • 争いやいら立ちは理解によって消失する①

      ロバート・コンクリンの説得力という本からの引用です。 争いやいら立ちは理解によって消失する ある寒い冬の朝のことでした。そのショッピング・センターの駐車場には、降り積もったばかりの雪がいたるところ、風に吹き寄せられ、あるいはかき寄せられて、小さな山がいくつもうねになっておりました。わたしは車を置き、歩道の方へと向かいました。雪の吹きだまりのせいで、歩道に出る道はそこ以外はありません。 ところがどうでしょう。雪かきされたそのただひとつの通り道の、出口の真正面に、一台の車が乗り付けてあるではありませんか!わたしは膝まで雪に埋まりながら、その車のまわりを迂回させられる羽目になりました。 「まったく、他人の迷惑を考えない人がいるもんだ!」 といった言葉、そしてここにはとても記すことのできそうもないいくつかのののしりの言葉がわたしの心をよぎりました。センターの出入り口のドアのひとつにたどり着いたわたしは、足踏みしてズボンについた雪をふり落としながら、通り道をふさいでいた車を怒りをこめてふり返りました。 続きます。 さて、みなさんも同じような状況を想像してどうでしょう?同じように怒ってしまうでしょうか? 僕は雪国出身なので、この雪の大変さはよく想像できます。 雪かきされた道が1本しかなかった。 その道の出口に車があって、その道は使えない。 道がない雪の場所を通らないといけない、大変なわけですね。 みんながその道を使えるように、ちょっと車を止める位置をずらしてくれるだけでいいですよね。 「まったく、他人の迷惑を考えない人がいるもんだ!」 こう思うのもよくわかります。 人が怒るときのパターンの1つで、「わたしだったらこうするのに」っていう思考パターンがあります。 「わたしだったらこうするのに、あの人はなんであんなことするの!なんでこうしてくれないの?!(怒)」 人が自分と同じような言動すれば、だいたい怒ることにはならないんですよね。 もし、嫌なことを人にされたとしても、「自分も同じ状況なら、そういうことやってしまうよな」って思えれば、怒りは出ないことが多いはずです。 上記の話でも、1本しかない道の出口に車止めたら、みんなが迷惑する。自分だったら迷惑にならないように止めるのにっていう考えがあるんじゃないでしょうか。 自分だったらそうしないのに、他人がそういうことをする。 それで怒りが出てしまうんですね。 最近書いたRさんの話もそうです。私だったらあんなことしない、ひどいひどいというわけです。 この考え方は、「自分のことしか考えていない身勝手な考え方」なんです。 自分のことしか考えない身勝手な考え方をしているために、自分が苦しめられている。 苦しいのは自分自身の問題なんですね。 次回へ続きます。 人々の多くは、環境を改善することには、とても意欲的ですが、自分自身を改善することには、ひどく消極的です。かれらがいつになっても環境を改善できないでいる理由が、ここにあります。 ジェームズ・アレン

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  • 14 Dec
    • 怒りをおそくする者は大いなる理解がある

      タイトルは聖書にある言葉です。 怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす こういう訳もありました。 怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、我慢して、その意味が何であるかを理解することで、怒りを消すことができるのである。 気の短い者は愚かさをあらわす。我慢することができず、その過ちなる言葉を直ぐに話してしまう。 前回の話でもそうですが、怒りが早かったんですよね。 その後は、自分が怒ってしまったこと(身勝手な相手、嫌な人)は可能性のひとつであって事実ではないなと、理解できたことによって怒りが消えた。 反省して理解して怒りを消すのもいいんですが、さらにいいのは、 まず理解に努める ということです。 ブログのコメントなどもそうです。 ひどい言葉をコメントされて、怒ってしまった。 怒る前に、まずどうして相手はそういうコメントをしたのだろうか? 相手を理解しようとする。 こういう話は僕自身の経験での話も書いたこともありました。 すぐには出来るようになるのは難しいと思います。 それは刺激(たとえば嫌なコメント)と反応(自分の感情など)の間にプログラムが存在しています。 それが自動で作動するので、一見嫌なコメントで怒ってしまうのは仕方ないように思う人はいるかと思いますが、仕方ないことではないんですね。 自分のプログラムは変えていけます。 最初に話を戻すと、聖書にもあるように、怒りをおそくするのが大切でしょう。 よく怒ってしまう人は、まずは怒りをおそくして理解に努めようということを意識していくといいかと思います。 すぐ出来なくても諦めないことが大事です。 何度もたとえで書いてますが、自転車と同じようなものです。 最初から乗れる人はいません。 意識してやっていれば、徐々に出来るようになっていけます。

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  • 13 Dec
    • 自分のストーリーを見直す

      こちらの記事の続きです。 さて、Rさんはどうして怒ったのでしょう? 気まぐれ、身勝手なチームリーダーのせいで怒ったのでしょうか? そのチームリーダーが原因でしょうか? Rさんの世界ではそう見えているでしょう。 Rさんの世界では、嫌なチームリーダーが存在しています。 しかし、これはRさんが映し出しているチームリーダーの姿です。 最近「7つの習慣」という本のある文章を引用しました。 それを当てはめるとこうなります。 「あそこのチームリーダーは気まぐれで身勝手な人」 この発言は、チームリーダーの本当の姿や可能性を映し出すものではない。これらは、発言した人のパラダイムや人格レベルを投映しているだけである。 Rさんの言うとおりならたしかにそうかもしれない。 「最初からチームに入れるつもりないのに、いったん入れておいてまた除名した。それを気まぐれにやった。」 しかし、これは事実ではないですね。事実の可能性はありますが、可能性のひとつに過ぎない。 除名された時点では、ただシステムのメッセージが流れただけです。除名されたのは事実ですが、どうして除名されたのかはわからないわけです。 操作ミスやご操作の可能性もあります、何が不具合の可能性もあります、誰もが納得できる仕方ない理由がある可能性もあります。 気分の悪くなるストーリーを自分で作って、それで気分悪くなっている。怒っているということです。 自分のストーリーによって感情は変わりますという話のリンク 起きた出来事が原因ではないわけですね。 問題は外にあると考えるならば、その考えこそ問題である。 自分が嫌な気分になるストーリーや嫌な人が見える(したてあげる)ストーリーを作らないように出来るようにしていくと、自分の世界では、そういう嫌な人は減っていきますよね。 嫌な人が投映されにくくなってくるということです。 そしたら、イライラしたり怒ることも減っていきますよね。 起きる事実は変わらなくても、自分が変われば世界は変わる。 Rさんは少し経ってから反省して気づいたようです。 自分がよくないストーリーを作っていただけだったと。それで当然怒りは消えますよね。 今回の件のようなよくないストーリーが浮かびにくくなるコツというか考え方があります。 アドラー心理学でも言われている考え方。 次回はその話の予定です。

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    • 主体的に生きる

      ちょっとずつでもブログ書いていきます。まとまった時間が取れたら書こうと思ってるといつまでも書けないかもしれないので(笑)  >100%自分の責任て>受け入れるのにメッチャ勇気要りますね というコメントも頂きました。 勇気というとアドラー心理学が浮かびます。 アドラー心理学は勇気の心理学とも言われています。 アドラー心理学でも、すべて自分の責任であるという考え方になっています。 【アドラー心理学入門 岸見一郎著】自分の生きた方の問題として見るとき、アドラー心理学は非常に厳しいものであるといわなければなりません。 昔も今もすべては自分に責任があるというような考え方は容易に受け入れてこなかったのではないか、と思います。自分の人生は他の誰も代わってくれませんし、うまくいかないときも自分に代わって問題を解決してもらえるわけでもなく、うまくいかないことの責めを自分以外の外的なもの、あるいは過去の出来事、才能、そういったものに帰することを断固拒否するのです。 しかし、そのようであるからこそ生きるかいもあるわけで、もしもすべてが決まっていて自分には何もする余地がないとすれば不幸(あるいは不幸だと思える事態)を前にしてただ手をこまねいて待っていることしか私たちには残されていないことになります。そうではなく自分が人生を創っているのであって、自分がこの人生の主人公であることを知ったとき、人は自分が動くしかないことを学ぶことになります。 自分以外のせいにすることは断固拒否するというような厳しい言葉で書かれていますね。 「すべて自分に責任があるというのはおかしい」というコメントやメッセージも時々あります。 すべてあなたの責任ですよってことではないんです。 それが正しいということでもない。 そういう考え方、物事の解釈の仕方があるという話です。 ある出来事があって、これは誰の責任なのか? これに正解はないですからね。 その出来事に関わった人や環境の中では、誰の責任にも考えることが可能です。 そこで誰の責任にするかは選択できるとも言えます。 そしたらシンプルに、自分が得する選択した方がいいですよね。 誰の責任の考えるのが一番得かというと自分の責任であると考えます。  道に石ころがあって、つまずいて転んでケガしたとします。 石のせいで転んだ。石のせいでケガをした。 石が原因です。自分以外のせいにする考え方。 これも間違いではない。そういう見方も正しい。 ただ、そういう考え方だと、自分が反省することが出来ないですよね。 反省して改善できないということは、また同じように石につまずいて転ぶ可能性は変わらない。 石はどこでもころがっています。 今後また同じようなことがないように、可能性を下げるには、自分が反省して改善することです。  【もう、「あの人」のことで悩むのはやめる 玉川真里著】私はカウンセリングと子育ては、そっくりだと思います。ケガをした時に「あそこに石があったのがいけなかったよね」と親が教えると、次に石を見つけたら、腹立たしく蹴ってしまうかもしれません。しかしこれは、原因を環境という「他者」に押しつけている他者思考にほかなりません。本来転んだのは、石があったからではなく、石に気づかず自分がぶつかったから転んだのですから、しっかり周りを見ていれば防げたかもしれないのです。「しっかり周囲を見ようね」とか「石がありそうな時は走らないほうがいいかもしれないよ」と注意を促せば、その後は、自分で考えて注意した行動をとれるようになるのです。もちろん、大人を叱る場合はそんなに優しくありませんが(笑) 他者思考:問題を他人や環境のせいにする 自分思考:自分の問題として解決策を模索する  しっかり周囲を見る、石がありそうな時は走らないようにしようとか、自分自身を改善することをすれば、石につまずいてケガする可能性は下げれますよね。 石のせい(自分以外のせい)にするとそれが出来ないんですね。 石のせいにしてたら、またころんでケガするかもしれない。今後も変わらない。ケガしてさらに腹も立てて、心身ともに不健康です。 何もする余地がないとすれば不幸(あるいは不幸だと思える事態)を前にしてただ手をこまねいて待っていることしか私たちには残されていないことになります。 自分は悪くない、自分は正しい、自分は反省して改善することもないと考えていたら、不幸な出来事に対して無力になってしまいます。 有名な「7つの習慣」という本では、反応的な人、主体的な人という話があります。 反応的な人というのは、目の前の出来事に対してただ反応するだけ、ただ手をこまねいて待っていることしか出来ない人。 主体的な人というのは、自分以外のせいにせず、自分自身を改善して解決していく人。 【7つの習慣 スティーブン・R・コヴィー著】人間の本来の姿は主体的なものである。もし自分の人生が今までの条件づけや周りの状況にコントロールされているとすれば、それは、そうしたものに主導権を譲った結果にほかならない。 これが精神的に受け入れにくい概念だということは、百も承知している。特に何年にもわたって環境や他人の行動を、自分の不幸の理由にしてきた人にとっては、そうだろう。 誰かのせい、何かのせいにすれば、自分が周りにコントロールされる人生になってしまいます。何かのせいで、自分の幸せが制限されてしまう。 ただそれは自分が自分の幸せのコントロールを誰かに譲ってしまった結果ということです。 

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  • 11 Dec
    • 100%自分が原因だと反省する

      以前Rさんという方に弟子にして欲しいと言われました。 弟子という形で教えることはしてませんけど、このブログで書いてある考え方や価値観を話したり、わからないことがあったら教えることはできますよってことで、色々教えていました。 こういう考え方がいいよって話はしますけど、その通りやってもやらなくてもいいですよ。って感じでゆるくね。 で、「自分以外のせいにしない、責任転嫁しない」という考え方の話をしてたんですが、最初のうちはまったく受け付けられなかったというRさん。 最近やっとそういう考え方が受け入れられて出来るようになってきたと言ってました。 誰かのせいにして怒ったりしなくなってきたと言ってたので、僕もうれしいなーと思ってたところでした。 そんなときに起きた出来事の話です。 僕がゲームしてて、そこにRさんも同じゲームをはじめました。 通信で色んな人と一緒に遊べるゲームで、チームみたいなものがあります。 それで僕の入っているチームにRさんも申請を出しました。 いったん承認されてチームに入ったが、半日くらいたってから「除名されました」とメッセージが流れてチームから外れたそうです。 そこでRさんは怒ってしまったんですね。 ここのアメブロで例えるなら、アメンバーの申請をあるブログ主に出していて、いったん承認してもらって入れてもらったけど、アメンバーから外されてしまったという感じですね。 「入れる気がないなら最初から申請を承認しなければいいのに」とかRさんは思ったそうです。 そこで僕はRさんに言いました。 ここで自分が反省して、自分の原因を考えてそれを改善できたら素晴らしいよね。 しかし、Rさんは今回のこの件に関しては反省はしないと返事が返ってきました。 あらら?って思っちゃいました(笑) 「100%自分が原因だと考えて反省する」という話をしてたばかりだったのでね。 Rさんの考えでは、その「チームリーダーの気まぐれに振り回された」と、「そういう身勝手な人に振り回されないようにしよう」という結論になってました。 身勝手なチームリーダーのせいで私は不愉快な気分になった。私は被害者だと。 これは自分以外のせいにする考え方になってますよね。  Rさんの気持ちもわかります。 「私は何もわるくない」「なぜ反省しなければいけないのか?」「反省するのはむしろ相手のほうだ」こんな風に思うかもしれない。 自分は悪くない、自分が正しい、相手が悪いと考えているときは、反省できないんですよね。 これはブログで何度も書いてますね。 反省しないと自分の何が原因でそうなったのかが見つけられないんですよね。 「必ず自分に原因がある」という前提で考えていく。 これがなかなか難しいかもしれませんね。 もしRさんが弟子なら、反省しないって言ったら反省文を書かせてるところです(笑) 一見自分に原因は1%もないと思ったとしても、考えてみる、自分を振り返って探してみる。 まあ、Rさんは弟子ではないので反省文を書かせることはしません(笑) 反省できない、したくないならしなくてもいいですよ。 ただ、反省する場合としない場合の違いは話しました。 反省なし、改善なしの場合は?また同じような場面になったとき、怒ったり嫌な気分になったり幸せじゃない状態が起こる。心身ともに不健康である。 反省する、改善した場合は?また同じような場面になったとき、怒る出来事ではなくなっているとか、そもそもそういうことが起こらないことも可能なこともある。  こういう場面で自分がどのように反省して改善できるのか?今後具体的に書いていく予定です。  斉藤一人「悟りが開けて頭が良くなる。 何をやってもうまくいく魔法のような話。  何か起きた時、100%自分が悪いと思ったら、何だろう? 自分の改良点って何なんだろう?と思うと ものすごく簡単に改良できる。 相手が悪い相手が悪いと言ってるから、自分のこと絶対に反省しないの。」  【「あの人のせいで・・・・」をやめると、人生はすべてうまくいく!】著者 フレッド・ラスキン(スタンフォード大学臨床科学研究員) 誰かを恨むこと、責任転嫁とは、自分の幸福に責任を持たないということの表明です。責任を持てない自分の代わりに、誰か他の人に権限や責任を譲ってしまうことです。短期的には有効な対処法でしょう。 例えば、自動車事故にあった直後に、「相手のせいだ、相手が悪い」というのは、有効なわけです。責任転嫁の問題は、それがどれだけ続くか、ということです。長期的に有効な他の対処法と同様、責任転嫁も交感神経を刺激し、肉体を消耗させます。また感情的な経験に関係した心の習慣が出来てしまいます。恨みはやがて怒りとなり、私たちの視野は狭くなり、怒りの対象への恐れや、無力感を抱くようになります。怒りの対象を思い出すと、怒りや恨みが呼び起こされ、対象となる人や出来事を、そうした感情抜きには見られなくなってしまいます。 人のせいにするのは、自分の現在の幸せは6だが、義理の兄が居なければ8だ、というようなものです。恨むことで、それだけ損をするのです。  【「イヤな気持ち」を消す技術】認知科学者(機能脳科学、認知心理学、分析学)カーネギーメロン大学博士苫米地英人 著読者の中には、きっと次のような声を上げる人もいることでしょう。「そんなこと言われても、こんなに辛い目に遭わされたのに」果たして、そうでしょうか。とすれば、なぜ、そう思うのでしょうか?おそらく、自分は一方的に被害に遭っただけだと考えているからでしょう。第2章でもお話したように、それがどんなにひどい体験だったとしても、相手がいることは必ず「自分が悪い」というふうに自分に返ってきます。自分は100%悪くないという身勝手な考えに凝り固まっていると、自分に都合よく体験や出来事を統合することはできなくなってしまいます。自分に都合よくというのは、自分が100%正しいという頑なな考えを捨てることでもあるのです。自分は悪くないとか、正義は自分にあるという考え方をしがちな人というのは、人生のさまざまなシーンで局面をうまく運ぶことができない人だといえます。それは、何か思いどおりにいかないことがあると、すぐに他人のせいにするからです。 「あの人が悪い」といくら主張したところで、あの人は自分ではありませんから、自分の思いどおり動くはずがありません。それなのに、相変わらず正しいのは自分だと思い込んでいますから、不満ばかりが膨らんでいくことになるのです。不満は、人間に緊張をもたらします。不満を募らせたままでは、大脳辺縁系の活動が優位になり、前頭前野の活動が抑えられ、その人は心身ともに活発でない人間になってしまいます。 不満にまみれた人というのは、たいてい精神的にも変調をきたしています。   孟子「すべて自分が行うことがうまくいかないときは、自分にその原因があるのではないかと考えてみるようにするのだ。それができれば、自分自身がますます正しくなっていくし、天下のすべてのことも必ず自分のほうにつきしたがってくるようになるだろう」 

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  • 08 Dec
    • ”被害者にならない”

      一年近く前の記事ですが、今後書く予定の話もこのようなことがあります。 「7つの習慣 スティーブン・R・コヴィー著」社会通念というゆがんだ鏡 私たちを取り巻く社会の通念、人々の意見や考え、あるいはパラダイムを総称して、社会の鏡と呼んでいる。 多くの人は、自分自身に対するパラダイムや考え方をこの社会の鏡から得ている。それは遊園地によくある奇妙な鏡の部屋に映っている姿と同じようなものである。 「あなたはいつも時間に遅れて来る」「なぜおまえの部屋はいつも乱れているんだい」「芸術的なセンスがあるね」「本当によく食べるよね」「あなたが勝ったなんて、信じられない」「どうしてこんな簡単なことも理解できないのか」 これらの発言は、私たちの本当の姿や可能性を映し出すものではない。これらは、発言した人のパラダイムや人格レベルを投映しているだけである。 これはちょっとわかりにく話かもしれません。 われわれはありのままの世界を見ているようで見ていなくて、自分の中(考え方や価値観)が反映されて見えているということです。 みんなそれぞれ自分の世界を認知して生きている。 自分の世界は自分が認知して創っている。 それならば自分で世界を変えることも可能だということです。 これはスピリチュアルとか不思議な話ではなく、認知科学でもそう言えます。 認知科学は科学の中では新しい方の科学です。 認知科学ではわれわれはリアルワールドをありのまま認知することはできないということが証明されています。 アドラー心理学で言えば、自分のライフスタイル(性格)が世界を創っているといえます。 具体的に今後書いていきます。 ある人の話で、その人の世界では嫌な人がいた。 でもそれはその人の世界では嫌な人なだけなんですね。 その人自身が創っている登場人物なんです。 これは妄想とかそういう話じゃないですよ。 たとえば、あなたの世界の友達。 私の友達はこういう人だって認識していると思いますが、それはその友達の本当の姿を映し出しているのではない。 あくまであなたが映し出している友達、あなたが創っている友達なんです。 ちょっと変な話に聞こえるかもしれませんが(笑)        

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  • 04 Dec
    • ご無沙汰しております

      ブログも仕様が変わりましたねー 色々ありましてしばらくブログ放置になってました。 パソコンが壊れてデータが全部無くなってしまいました。 ブログのネタの材料など書いてたものが全部無くなった。 本を読んで、これいいなって文章はメモして全部保存しておいて、ブログで引用するときにすぐ使えたりしてたんですが、それができなくなりました。 バックアップとってなかったという反省。 まあ、自分の頭があればブログはいくらでもかけるので、またぼちぼち書いていこうかなと思っています。 あと、スマホが壊れて交換したんですが、LINEが復帰できなくなったり、転職したりと色々重なってブログは放置になっていたというわけです。 LINEだけしか知らない人は連絡取れなくなったのでそこは申し訳ないなと思います。 あとゲームで遊んでました(笑) いやーゲーム楽しい。 ゲーム自体も面白いんですが、そこでもやはり人間心理、人の考え方価値観が面白いんです。 ネットで色んな人と協力してプレイできるゲーム。 そうすると、「対人関係」があるんです。 「対人関係」があるということは、そこに幸せな人と幸せじゃない人がでる。 これは心理学者アルフレッド・アドラーの考え方ですが、「すべての悩みは対人関係にある」。 幸せもまた対人関係にあるんです。  幸せは、自分のおかれた環境や条件によって決まる、と考えている人は多いです。 しかし、幸せというのは自分の考え方や価値観で決まるんですね。 これは心理学の世界での結論でもあります。  ゲームの世界でもそれははっきりわかります。 ゲームではまったく同じ環境や条件でスタートしますよね。 それなのに、不満だらけで幸せじゃなくてゲームしている人もいれば、楽しいなーって幸せにゲームしている人もいます。 その違いは何かって言えば、考え方や価値観です。 幸不幸は環境や条件が原因ではないですよってことです。  【7つの習慣 スティーブン・R・コヴィー著】「現代社会では、一般的に人は、条件づけや環境によって決定づけられると言われている。生活の中で条件づけが極めて大きな影響力を持つことは当然のこととして認めるが、それによって私たちが決定づけられている、あるいは、その条件づけからの影響を全くコントロールできないとなると、それは全く違う話になってしまう。」   普段の考え方や価値観がゲームでも反映されているなーって見えて面白いです。 次回は、具体的にゲーム内で起きた対人関係の話を書く予定です。 リアルでもゲームの世界でも同じです。 ゲームのことですが、「対人関係」の問題で、どう考えたらより幸せになっていけるか、という話。リアルでも、幸福度上げるためのヒントになる人もいるかもしれないということで、書いていきたいと思います。        

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  • 06 Sep
    • いくら自分が正しいと思えたときでも

      自分がこれは良いと思っても、他の人は悪いと思うこともあります。絶対的な正義も、絶対的な悪もない。これが良い悪い、これが正しい間違いというのは、自分の価値観だったり、何か基準が前提にあってはじめて言えることです。いくら自分が正しいと思えたときでも、それを理由に相手を非難しない。自分が正しいからといって、相手が間違っているとは言えないからです。相手は相手の価値観や、前提があって正しいこともあるのです。▼天気予報では「いい天気」「悪い天気」とは言わない?晴れをいい天気、雨を悪い天気と一般的には言うでしょう。天気予報では、「いい天気」というだけの表現は、基本的には使わないそうです。「洗濯物を干すにはいい天気でしょう」などの表現を使います。「洗濯物を干すには」という前提があります。この前提があれば、「いい」と言えるでしょう。この前提があってはじめて、晴れは「いい」と言えます。雨は「悪い天気」ではなく、「ぐずついた天気」と表現します。例えば、農家や他の職業によっては、雨が必要でありがたいものです。全ての人にとって悪い天気ではないから、「悪い天気」という表現は使わないそうです。天気予報は、色んな人に伝えるための配慮があるんですね。「ママおはよー!雨降ってるよー♪」「おはよー。雨降ってるのに嬉しそうだね」「うん!いい天気!」「雨のときは、いい天気じゃなくて悪い天気って言うのよ」「雨で嬉しいのに悪いの?」「え?雨でどうして嬉しいの?」「先週ママに買ってもらった、機関車トーマスの傘と長靴がやっと使えるからー!」「あら、そうだったわね。雨が降るの楽しみに待ってたものね」「うん!先に玄関に出てみていい?」「玄関先だけねー、一人で先行っちゃだめよ」「ママーママー!見て見てー!カエルさんがいるよー!」「雨で出てきたのかしら」「雨降ってカエルさんも喜んでる!いい天気だね!」「ふふ(笑)そうね、いい天気ね♪」There is nothing either good or bad, but thinking makes it so.- Shakespeare (シェイクスピア) -物事によいも悪いもない。考え方によって良くも悪くもなる。我々はこの世界をあるがままに見ることはできません。主観で見ています。良い悪いは自分の主観です。良い日悪い日

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  • 23 Aug
    • 幸せになる考え方でも無理してたら幸せじゃない

      どんないい考え方でも、自分が「やりたいなぁ~」「その方がいいな~」と思わなければ、やらない方がいいと思います。例えば、このブログで書いてある考え方を一つ、「自分以外のせいにしない」自分にとって嫌なこと、失敗、自分の不幸など、何があっても自分以外のせいにしない。この考え方を知って、こう考える人は無理してやらない方がいい人。・自分以外のせいにしてはいけないんだ・あの人のせいだと思うけど、そう考えてはいけない・人のせいにしては不幸になるんだ・自分のせいにしなければならないこれは心理療法では、イラショナル・ビリーフ(非合理的な信念)と言われます。「~ねばならない、~すべきである」こう考えなければいけない、こう考えるべきである。これは、ネガティブな選択ですね。どんないい考え方でも、ネガティブな選択なら、しない方がいい。いい考え方だからといっても、無理してでもやるべきだと考えてしまう人はいるんですが、やらない方がいいんですよ!下記の記事でもそのような話を書いてます。ポジティブを選択できているかよりも、ポジティブな選択ができているかどうか?「自分以外のせいにしない」この考え方を健全に実践していく考え方としては、・自分以外のせいにしない方が幸せだね・自分が原因だと考えた方が、とても効率よく問題解決もしていけるし合理的だ・自分以外のせいにしない方がメリットが大きいからやりたいシンプルに書くと、「そうしなきゃいけない」ってのがネガティブな選択「そうしたい、やりたいからやる」ってのがポジティブな選択そうしなきゃいけないってのは、義務感でやることになったり、無理してやることになるんですね。義務感でやってたり無理してやるのは、楽しいことではないですよね。幸せになるためなのに、幸せじゃないことやっていることになります。「感謝は大事ですよ」という話でも、・感謝しなければいけない・感謝すべきだ・感謝しなきゃダメなんだ「感謝しなきゃダメなんだ」って考え方がダメなんですね。義務とかルールでやらない。「感謝は大事ですよ」という話を聞いたら、たしかに、感謝した方がいいよねー、感謝は大事ですよね~、「感謝して生きたい」と思えたらやるのが健全です。最近ブログに書いてた考え方では、「怒らない、叱らない」もそうですね。怒ってはいけない、叱ってはいけない、そうしなきゃいけないんだって考えるのは、義務感が出てきてよくないですね。義務感とかルール的に考えてそれに無理して従おうとしない。怒らない、叱らない方がいいなぁ、そうしたいなぁと思えたらやっていくのが健全。無理してやる <<<< 何もしない <<<< やりたくてやるみんなが「こういう考え方した方が幸せですよ」と言ってても、自分は無理しなきゃできないなら、しない方が幸せですからね。「でもこう考えないと幸せになれないから」と言う人もいます。こう考えると幸せ、こう考えないと不幸せって単純なものではないです。幸福度という考え方がいいと思います。ある考え方をしていれば幸せになる、というのは、ある考え方をしていれば幸福度が上げれると考える。仮に数値化したとして、それは幸福度10上がるとします。それができない人は、ただ10上げれないだけの話です。他の考え方で幸福度10上げれば同じことです。心理学の研究で、宗教に入ると幸福度が上がることがわかっています。だからといって、宗教に入らない人は幸せになれないとか、不幸なのか?っていうとそうじゃない。宗教に入った方が幸せだからといって、その宗教は信じてないんだけど、無理して入信するとか、無理してその宗教の活動してても、全然幸せじゃないですからね。感謝が少ない人より、感謝が多い人は幸福度が高くなる。だからといって、感謝しなきゃ幸せになれないんだってことではない。無理してでも感謝しなきゃってのは、全然幸せじゃない。科学的に幸福度上がることだとわかっていることでも、無理してやると幸福度は下がります。無理してやる <<<< 何もしない <<<< やりたくてやるこれが本当に大事。これは幸せになるいい考え方なんだと思っていても、無理してがんばっている人、義務感でやっている人は、ルール的に守らないといけないと考えている人は、いますぐ止めた方がいいでしょう。そうすれば、いまより確実に幸せになれます。だらだらゆるゆる書きました。

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  • 20 Aug
    • 怒りとは人と人を引き離す感情である

      カニv(^▽^)vさんのブログ『「世界平和」を少しでも願う人がいるなら、このお話が広まると良いなぁーと思い、リブログさせていただきました☆(*´ω`*)』最近リブログたくさんありがとうございます。広めて頂いてとっても嬉しいです。平和な幸せな考え方が広まるといいなーと思っています。カニv(^▽^)vさん自身は叱られないで育ったという話がありましたね。『田舎っ子なので(笑)、田んぼで遊んで、洋服をどろだらけのびしょぬれにしても(笑)、カニ「(うわーーー!さすがに今日は叱られるかなー?!(汗)(*_*;)」実母「おおーーー!♪よく遊んできたねぇーーー!!(笑)(*^^*)外で体だけはちゃんと洗ってから家に入るんだよ~!☆ヽ(・∀・)ノ」』こういう場合は、怒るお母さんもいるでしょうね。アドラー心理学の育児では怒ったり叱ったりはしない考え方です。よく遊んできたねぇーって笑ってくれるのは嬉しいですね。そして、体を洗ってから家に入ることもちゃんと伝えていて、素敵なお母さんだなぁと思いました。一方、旦那さんは、暴力の躾で育っているため、「躾のための暴力」は肯定している価値観なんですね。『「暴力」なのに、躾として「正当化」されてるのが、ホント怖いところです。。(汗)f』自分が暴力を受けて育ってきて、「それでいまの自分があるんだ」と、考えている人にとっては、暴力は正しいという価値観になるのもわかります。「昔の学校では体罰が当たり前だったけど、いまの時代は体罰したら大問題になるから大変なんだ」と言う人はいます。昔の方がよかったと、体罰を肯定する人もいます。アドラー心理学の視点で言えば、昔は未熟なやり方だったと言えます。いまの時代では「体罰」や「愛のムチ」だろうが否定されています。そういう意味では、我々はいい方向に進化していっていると言えるんじゃないでしょうか。「力」を行使して押さえつける方が楽なんですよね。暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。「力」を行使しない方法は、時にはすごく忍耐がいることもあるかもしれない。だから、安直なコミュニケーション手段を取りたくなってしまうのはあるでしょう。▼果てしない忍耐が本当の愛情「薔薇のない花屋」というドラマで、主人公の父親が、子どもを叱ってしまって後悔している場面があります。 しつけとか、愛のムチとか、そんなの勝手な言い草なんです それで子どもがいい子になる、親の気持ちをわかって・・・・ ありえないですよ そういう風に仮に見えたとしたら それは子どもが怖いから、言うことを聞いたに過ぎないんです 子どもはバカじゃない 親のことが怖いから、聞いたフリをしてるだけなんです 別に納得したわけじゃない 本当に愛情があるんなら話せばいいんです 話して、それでもわからないなら、また話せばいいんです そうやって何度も何度も、わかってくれるまで話せばいいんです そういう果てしない忍耐が、本当の愛情なんです 実際、俺はイラ立ったんです 雫(子ども)に無理やり言うこと聞かせようと思って イラ立って、愛情よりもイラ立ちが勝って、それで… 俺は雫が生まれた時に誓ったんです 絶対に暴力は振るわない 大きな声で叱ったりしない そういうことはしちゃいけないって、俺は誓ったんです それなのに、俺は…俺は…子どもに言うこと聞かせるために、暴力を使ってしまった。安直なコミュニケーションの手段に出てしまった。しつけとか、愛のムチとか、そんなの勝手な言い草なんです▼怒ることと叱ることは同義である【幸せになる勇気 ダイヤモンド社 岸見一郎、古賀史健著】哲人あなたは、生徒たちと言葉でコミュニケーションすることをわずらわしく感じ、手っ取り早く屈服させようとして、叱っている。青年違う!わたしは怒っているのではない、叱っているのです!哲人そう弁明する大人は大勢います。しかし、暴力的な「力」の行使によって相手を押さえつけようとしている事実には、なんら変わりがありません。むしろ「わたしは善いことをしているのだ」との意識があるぶん、悪質だとさえ言えます。青年そうじゃない!いいですか、怒りとは感情を爆発させることであり、冷静な判断ができなくなることです。その意味で叱るときのわたしは、ひとつも感情的になっていません!哲人あるいはそうなのかもしれません。いわば実弾の装填されていない、空包の銃だとおっしゃるのでしょう。しかし、生徒たちにしてみれば、銃口を向けられている事実は同じなのです。そこに装填されたものが実弾であろうとなかろうと、あなたは銃を片手にコミュニケーションをとっているのです。怒りの感情が入ってるかどうかとか、愛情があるかないかとかよりも、暴力的な「力」の行使によって相手を押さえつけようとしている事実ここの問題なんですよね。愛情があれば、子どもの頭に銃を突き付けていいと言えるのでしょうか?これは極端な例えですけどね。子どもに正しいことと悪いことをしっかり教えるために、叱ることは必要なんだという親もいます。正しいことなら「力」を行使して相手を押さえつけても許される。これって戦争する人の考え方なんですよね。例えば、平和を目指す宗教でも、自分たちは正しいことのために戦う。聖なる戦いであるって言って、平和のために戦争するところもある。戦争や暴力など「力」の行使を反対していても、正しいことなら「力」を行使して相手を押さえつけても許されると思っている。親が子どもを叱るのは、親の価値観での正しさを子どもに押し付ける行為とも言えます。叱る親はよく「子どものために」と言いますよね。戦争やる人も「世界のために」と言います。同じ自己中心的な考え方ですが、本人はそうは思っていない。誰かのためにと考えているから、自己中心的とは真逆とさえ思っている人もいるでしょう。哲人が言うように、むしろ「わたしは善いことをしているのだ」との意識があるぶん、悪質だとさえ言えます。カニさんが言うように、「暴力」なのに、躾として「正当化」されてるのが、ホント怖いところです。。(汗)fしつけとか、愛のムチとか、そんなの勝手な言い草なんです。愛情があるからとか、子どものためだからというのも、大人の勝手な言い草。暴力的な「力」の行使によって相手を押さえつけようとしているここが問題なわけです。アドラーは叱る教育の弊害を指摘しています。叱って子どもをいい子にさせたとします。それは、叱られなければ、誰も見てなければ、いい子ではない行動をする価値観を育ててしまう可能がある。「薔薇のない花屋」でわかりやすい話があります。しつけとか、愛のムチとか、そんなの勝手な言い草なんですそれで子どもがいい子になる、親の気持ちをわかって・・・・ありえないですよそういう風に仮に見えたとしたらそれは子どもが怖いから、言うことを聞いたに過ぎないんです子どもはバカじゃない親のことが怖いから、聞いたフリをしてるだけなんです別に納得したわけじゃないここですね。例えば、子どもが悪さして親が叱ったとします。親に叱られるのが怖いから、親の前ではいい子を演じるだけ。親の目の届かないところで、悪さする可能性ありますよね。だって、子ども本人は納得してないんだもん。つまり、「力」の行使によって相手を押さえつけるやり方は効果がない。目の前でいい子になるから、効果があるように見えるだけ。「幸せになる勇気」でいつも叱っている先生の話があります。生徒を叱ることが効果あるのなら、いまでも叱っているのはおかしい、という哲人の指摘があります。一時的に、力で生徒たちを押さえつけているだけの効果しかない。生徒たちは納得はしてないから、しばらく叱られないとまた問題行動を起こす。そしてまた叱ると押さえつけられる。一時的には。それを維持するには、ずっと叱ってなければいけない。全然問題解決になっていないし、子どもたちのためにもなっていない。【幸せになる勇気 ダイヤモンド社 岸見一郎、古賀史健著】哲人叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションである。このことは、子どもたちも十分に理解しています。叱責を受けたとき、暴力的行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が、無意識のうちに働きます。これは、大人たちが思っている以上に大きな問題です。あなたは未熟な人間を「尊敬」することができますか?あるいは暴力的に威嚇してくる相手から、「尊敬」されていることを実感できますか?怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。それどころか軽蔑を招く。叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。ここからアドラーは、「怒りとは、人と人を引き離す感情である」と語っています。上記の「薔薇のない花屋」のあの場面では、自分を責め続ける主人公に対して、喫茶店のマスターが声をかけます。 もうよせよ お前だって人間だよ 親だって人間だよ 完璧な人間なんているわけねえんだよ やらかしちまうことだってあんだよ 後で謝りゃいいんだよ ちとカッコ悪くてもよ、雫(子ども)に謝ればいい 時にはダメなとこも見せていいんじゃないの それが教育ってもんかもしれねえよ怒ってしまっても、叱ってしまっても、反省すればいいんです。またやってしまっても、また反省すればいいんです。自分を責めてもいいことないので、責めないで反省することが大切です。「怒ったり叱ったりしないことを目指す人前提」の話ですけどね。▼何という習慣にお父さんは取りつかれていたのだろう!「叱ってばかりいる習慣」最後は、叱ってばかりいる習慣のある親にお勧めのお話です。世界の名著といわれる 【「人を動かす」デール・カーネギー著】より。この「父は忘れる」は、ある瞬間の誠実な感情に動かされて書かれてあるものだが、読むものの心を深く動かす佳編として、今では不朽の文章となり、いろいろな場合に引用されて、社会に大きな反響を呼んでいる。父は忘れる リヴィングストン・ラーネッド 坊や、きいておくれ。お前は小さな手に頬をのせ、汗ばんだ額に金髪の巻き毛をくっつけて、安らかに眠っているね。 お父さんは、ひとりで、こっそりお前の部屋にやってきた。 今しがたまで、お父さんは書斎で新聞を読んでいたが、急に、息苦しい悔恨の念にせまられた。罪の意識にさいなまれてお前のそばへやってきたのだ。 お父さんは考えた。これまでわたしはお前にずいぶんつらく当たっていたのだ。 お前が学校へ行く支度をしている最中に、タオルで顔をちょっとなでただけだといって、叱った。靴を磨かないからといって、叱りつけた。また、持ち物を床の上に放り投げたといっては、どなりつけた。 今朝も食事中に小言を言った。食物をこぼすとか、丸呑みにするとか、テーブルに肘をつくとか、パンにバターをつけすぎるとかいって、叱りつけた。 それから、お前は遊びに出かけるし、お父さんは停車場へ行くので、一緒に家を出たが、別れるとき、おまえは振り返って手を振りながら、「お父さん、行っていらっしゃい!」といった。すると、お父さんは、顔をしかめて、「胸を張りなさい!」といった。 同じようなことがまた夕方に繰り返された。 わたしは帰ってくると、お前は地面に膝をついて、ビー玉で遊んでいた。 長靴下は膝のところが穴だらけになっていた。お父さんはお前を家へ追いかえし、友達の前で恥をかかせた。 「靴下は高いのだ。お前が自分で金をもうけて買うんだったら、もっと大切にするはずだ!」 これが、お父さんの口から出た言葉だから、われながら情けない! それから夜になってお父さんが書斎で新聞を読んでいる時、お前は、悲しげな目つきをして、おずおずと部屋に入ってきたね。 うるさそうにわたしが目をあげると、お前は、入口のところで、ためらった。 「何の用だ」とわたしがどなると、お前は何もいわずに、さっとわたしのそばに駆け寄ってきた。 両の手をわたしの首に巻きつけて、わたしに接吻した。 お前の小さな両腕には、神さまがうえつけてくださった愛情がこもっていた。 どんなにないがしろにされても、決して枯れることのない愛情だ。 やがて、お前は、ばたばたと足音をたてて、二階の部屋へ行ってしまった。 ところが、坊や、そのすぐ後で、お父さんは突然なんともいえない不安におそわれ、手にしていた新聞を思わず取り落としたのだ。 何という習慣に、お父さんは、取りつかれていたのだろう! 叱ってばかりいる習慣-まだほんの子供にすぎないお前に、お父さんは何ということをしてきたのだろう! 決してお前を愛していないわけではない。お父さんは、まだ年端もゆかないお前に、無理なことを期待しすぎていたのだ。お前を大人と同列に考えていたのだ。 お前の中には、善良な、立派な、真実なものがいっぱいある。 お前の優しい心根は、ちょうど、山の向こうからひろがってくるあけぼのを見るようだ。 お前がこのお父さんにとびつき、お休みの接吻をした時、そのことが、お父さんにははっきりわかった。ほかのことは問題ではない。 お父さんは、お前に詫びたくて、こうしてひざまずいているのだ。 お父さんとしては、これが、せめてものつぐないだ。 昼間にこういうことを話しても、お前にはわかるまい。だが、明日からは、きっと、よいお父さんになってみせる。 お前と仲よしになって、一緒に遊んだり悲しんだりしよう。小言を言いたくなったら舌をかもう。そして、お前が子供だということを常に忘れないようにしよう。 お父さんはお前を一人前の人間とみなしていたようだ。こうして、あどけない寝顔を見ていると、やはりお前はまだ赤ちゃんだ。 昨日も、お母さんに抱っこされて、肩にもたれかかっていたではないか。お父さんの注文が多すぎたのだ。

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  • 19 Aug
    • 戦争とか平和とか

      「怒り」というのは、コミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能である。つまり、どんなときでも「怒り」は使う必要がないと考えることができます。コミュニケーションは時として非常に時間かかったり面倒なこともあります。そこで彼らが最後に選択するコミュニケーション手段が暴力です。【幸せになる勇気 ダイヤモンド社 岸見一郎、古賀史健著】から、わかりやすい話がたくさんあるので、引用していきます。引用は青字表記します。暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりにも未熟な行為だと言わざるをえません。われわれ人間は、未熟な状態から成長していかなければならない、という原点に立ち返るのです。怒ることと叱ることは同義である。どちらも安直なコミュニケーション手段の暴力と考えます。戦争も暴力、子どもを叱るのも暴力です。言語によるコミュニケーションを放棄して安直な手段に出た結果です。暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。もっと直接的に言えば、相手を屈服させることできる。ここから子どもを叱る話を書いてたんですが、今回は戦争の話だけにして、教育の話はまた別に書きます。怒らずに、暴力を使わずに平和な世界、平和な解決を目指した方がいいと思うんですね。暴力が必要な人にとっては、ただのきれいごとや理想論にしか聞こえないかもしれません。以前「仁」というドラマがありました。現代の医者が幕末の江戸時代にタイムスリップする話です。現代からタイムスリップした医者が、日本人同士が戦をしているのをみて、「おかしいですよ」って言うんです。戦のない現代の日本人からみると、日本人同士が殺し合いをしているのを、それが当たり前の世界は、おかしい、という感覚なんです。主人公は、江戸時代であの坂本龍馬と出会います。こんなやりとりがありました。 龍馬さん、やっぱり変わりましたよ。 前の龍馬さんなら、敵、味方なく助けたと思います。 でも今は薩摩と長州のことしか考えてない。 先生、それは違っ、、、 やってることは武器商人じゃないですか! あの人達だって、龍馬さんが売った銃で撃たれたのかもしれないんですよ! わしゃあこの国を思うからこそやってるがじゃ 何べんも言うけんど、これはどういても必要な戦ながじゃ。 戦だけが国をまとめる手段なんですか? そんな方法で まとめるしか能がないなら 政権をとったってうまくいくはずがない! うまくいかなくなったら、また戦を繰り返すだけなんです。 暴力は暴力を生むだけなんです! 先に殺されたら!それでしまいながじゃ・・・ わしゃあ、殺されかけ、思たがじゃ どんなええ考えを持っとちゃちい、ばっさり殺られてしもうたら、それでしまいながじゃ まず相手を力で従わせんと、考えを述べることもできん! 世を動かすことはできんがじゃ! 戦争する人は、みんなそういうこと言うんです。 先生は 特別なお人じゃき、きれいごとばっかり言えるがじゃ!「戦争する人は、みんなそういうこと言うんです。」暴力を使う人はみんなそうかもしれない。「怒り」を使うのもそう。それは必要なことだとか、仕方ないことだとか。でもそれは、他のやり方を知らないだけなんですよね。戦が当たり前の時代の人たちには、暴力を使わないで国をまとめるなんてのは、ただのきれいごとにしか聞こえないんですよね。でも現代の日本は、戦なんてしてないですよね。とっても平和ですよね。世界だってできるはずだと思います。まだまだ未熟だから、安直な暴力を行使しているだけで、人類はずっと進化はしていくから、いつか戦争は必要ないというレベルまでいけるはずです。戦争のない世界の未来人が現代にきたら、仁と同じような感じになるんじゃないかな。未来人に「戦争するのはおかしいですよ。」って言われるかも。「いやいや、戦争なんてなくなるわけないじゃん」と現代人の多くは言うでしょう。戦争があるのが当たり前のレベルの我々だから、戦争がなくなるのは不可能に思えるだけじゃないのかな?未来人からみた我々は、日本で戦があるのが当たり前の時代の人たちと同じなのかもよ。その時代の人だから、戦のない日本なんて信じられないだけ。心理学者アルフレッド・アドラーは、戦争はいつかなくなると人間を信じていた人でした。アドラーが自らの心理学を「個人心理学」と名付けた翌年に、第一次世界大戦が勃発しました。元同じグループのフロイトなどは、〝人間には生命に対する破壊衝動がある”など、人間心理の闇の部分を見ました。そういった人間の心理に注目すると、目の前の戦争をみて、人間にはそういう衝動があるから仕方ないと考えるしかないのかもしれません。人間が、破壊、殺人、暴力を希求する存在ならば、戦争は仕方のないことなのだと。しかし、アドラーは、いかにすれば戦争を食い止められるかを前向きに考えました。人間は戦争を、殺人や暴力を希求する存在なのか?そんなはずはない。青年でも、いまもなお、世界中で戦争が起きています。哲人たしかに、アドラーの理想はいまだ実現されていません。実現可能なものかどうかもわからない。ただし、その理想に向かって前進することはできます。個人としての人間がいつまでも成長を続けられるように、人類もまた成長を続けられるはずの存在なのです。現状の不幸を理由に、理想を捨ててはいけません。青年理想を捨てなければ、いつか戦争もなくなると?哲人マザー・テレサは「世界平和のために、われわれはなにをすべきですか?」と問われ、こう答えました。「家に帰って、家族を大切にしてあげてください。」アドラーの共同体感覚も同じです。世界平和のためになにかをするのではなく、まずは目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。そうした日々の、ちいさな信頼の積み重ねが、いつか国家間の争いさえもなくしていくのです。青年目の前のことだけを考えていればいいのですか!?哲人いいも悪いも、そこからはじめるしかないのです。世界から争いをなくしたければ、まずは自分自身が争いから解放されなければならない。自分を棚に上げて全体の話をするのではなく、全体の一部である自分が、最初の一歩を踏み出すのです。マザー・テレサのこういう言葉もあります。反戦運動などには参加しません。ですが、平和活動には喜んで参加します。戦争反対と怒るのは、暴力反対といいながら暴力を振るうようなものです。戦争のない平和な世界を目指すなら、まずは自分が暴力を振るわない。「怒り」も暴力です。「怒り」というのは、コミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能である。まずは自分が暴力を使う必要はないと理解し、暴力(怒り)を使わないことが大切だと思います。世界平和のためにできることは、まず自分から、そして身近な人から大切にしていくことが最善ではないでしょうか。自分を棚に上げて全体の話をするのではなく、全体の一部である自分が、最初の一歩を踏み出すのです。斉藤一人さんのこの話を初めて聞いたとき、はっとしました。戦争起こす人、人殺しする人、機嫌のいい人は一人もいないんだよ犯罪起こす人でも、みんなイライラしてんの言われてみるとたしかにそうだと。ということは、戦争を起こさないようにするには、みんなが機嫌がよければいいんだ。世界平和のためには、みんなが機嫌よくいれればいい。それで自分ができることはなにか?まずは自分が機嫌よくしている。イライラしたり怒ったりしないこと。そして周りの人にもそれを感染していけたらいいと考えました。イライラしない、怒らない話をよくブログで書いてますが、大きく言えば、世界平和につながる一歩だと言えるかもしれません。まあ、そんな大袈裟には考えていませんが、イライラしたり怒る人が減っていけばいいなと思って、一生懸命ブログも書いています。いつもありがとうございます。ブログの他にも相談やカウンセリングをすることもあります。大きなことはできませんが、自分ができることをやる。誰かが始めなければならない。他の人が協力的ではないとしても、それはあなたには関係がない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。アルフレッド・アドラー今後書きたい話メモ。①アドラー心理学の子どもを叱らない育て方の話。②幸せな大富豪の「怒りの感情を起こらないようにするには?」。幸せな大富豪も、プログラムを変えている話。③大富豪や成功者でも、幸せな人と幸せじゃない人がいます。だから、大富豪や成功者から学ぶのではなく、幸せな人から学びましょうという話。④心理学の研究でわかった、お金と幸福度の関係。お金で幸せになれるの?という話。⑤科学的な幸福度の高め方。科学的に証明されているんだからそれをやればいいんじゃない?という話。みんなで幸福度を高めていこう。

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  • 18 Aug
    • ”良心を信じる”

      ホンマこれ。アドラー心理学のアルフレッド・アドラーの考え方やマザー・テレサの考え方にも同じようなものがあると思います。

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    • 心を健全に保つための習慣

      心を健全に保つための習慣好きなことや癒しに触れる時間を作る。例えば、猫好きなら、猫に触れる。猫飼ってないなら、猫画像、猫動画を見るのもいいですね。アロマやお風呂などもいいですね。ちょっとした時間でもいいので、意識してそういう時間を作る。忙しい人ほど意識して癒しの時間を作る。それによって全体のパフォーマンスも影響しますから、その方が効率がいいと言えるでしょう。個人的に好きなことは、猫を見ることと、いい言葉がたくさん載っている本を読む。言葉の影響は強力なので、いい言葉に触れるのは、すごく大切だと思います。心を健全に保つ。心を穏やかにやさしい気持ちで。それができていれば、人にも自然とやさしくできます。そうすれば、当然いいものが返ってきやすいですよね。1日の中に好きな時間、癒しの時間を意識して作る。心を健全に保つための習慣を作る。

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  • 17 Aug
    • 否定的な感情の原因は出来事から生じているのではなく

      カニv(^▽^)vさん、いつもありがとうございます。カニv(^▽^)vログ~のほほんカニの成長日記♪~さっそく取り入れて頂いて、迷惑メールの苦手感がなくなったそうです。素晴らしいですね。考え方や捉え方をちょっと変えるだけで、すぐ効果が感じられることもありますね。刺激と反応の間にあるものは、「固定観念」のように、なかなか簡単には変えられないものもあります。しかし、変えられないものではないです。ライフスタイルは変えられます。刺激⇒プログラム⇒反応刺激と反応の間に変えられるものがあります。これが現代心理学の考え方です。刺激⇒反応こう考えている人は多いですよね。刺激に対して反応が起きているだけだから、これは仕方のないことなんだと。例えば、嫌な上司がいて嫌な気分になっているとします。嫌な上司(刺激)⇒嫌な気分(反応)刺激と反応という単純な考え方でいくと、嫌な気分を我慢したり、無理にコントロールしようとすることもあるでしょう。そういうやり方は心に無理がかかってよくないですね。そしたら今度は、嫌な気分になる原因の上司の方をなんとかすればいいんだと、考える場合もあるでしょう。しかし、他人は思い通りコントロールできません。それならいっそ会社を辞めてしまえばいい。あの嫌な上司が原因だから、転職しちゃおう。さて、これで解決するでしょうか?同様のストレッサー(ストレスの源)であっても、それをいかに受け止めるかによって、こうむるストレスの強さはまるで違ってきます。たとえば、Yさんという男性がA社に勤めているとします。しかし、Yさんには気の合わない上司がいて、どうしても人間関係がうまくいきません。毎日嫌な気分で過ごしていることから生じる、大きなストレスがあったとしましょう。そのことが原因で、やがてYさんはA社を辞め、B社へ転職しました。では、B社ではYさんと気の合う人ばかりで、嫌な人はいないのでしょうか。もちろんそんなことはありません。たぶんそこも気の合う人ばかりではないはずです。嫌な同僚もいるかもしれない。意地悪な上司がいるかもしれません。それでYさんは再び転職し、今度はC社に移りました。C社にはYさんの嫌いな人間はおらず、ストレスのない環境かといえば、これも答えは「NO」でしょう。つまり、ストレスはどこにいってもあるのです。だとしたらYさんは、嫌な上司でも平気にならなくては、いつまでも会社を移り続けなくてはなりません。心理学博士 西尾繁登三上記の話のように、転職しても解決にならない場合もあるんです。そういった上司の受け止め方、考え方や捉え方など、自分自身に原因が考えられるわけです。上司はコントロールできませんが、自分自身はコントロール可能です。刺激と反応の間には、自分がコントロールできる部分がある。そこを変えることができれば、嫌な気分は起こらなくなるようにできます。これは心理療法では、論理療法の考え方です。否定的な感情(反応)の原因は、出来事(刺激)から生じているのではなく、自身の認知・思考(プログラム)から生じているんですよ、という考え方で伝えていく心理療法です。否定的な感情の原因を、自分の認知・思考と考えて、そこを変えていく。

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      テーマ:
    • 自分を喜ばせるか、他人を喜ばせるか

      遊びでも人を喜ばせることをやっている人は幸福度が高い。自分だけを喜ばせる遊びはいつか飽きる。人を喜ばせる遊びは飽きない。自分を喜ばせる遊びもいいが、何か人を喜ばせる遊びや趣味を見つけると、より幸せになれる。人を喜ばせるってことは自分も喜ばせることになるんだ。

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      テーマ:
  • 15 Aug
    • 怒らない人の方が危ないの?

      「あまり怒らない人の方が実は怖いんだ」と言う人はいます。そう言う人の理由は、・怒るのを我慢しているから、いつか爆発する可能性があって危ない・他人に興味がないから、怒らないんだ・あまり怒らない人は、自分の感情を隠している人で、何を考えているかわからないから危ないなど。たしかにそういう人もいますよね。でもそうじゃない人もいます。上記の話の前提は、怒らない=怒るのを我慢しているこうなっていますよね。この前提で考えると、我慢している人はいつ爆発するかもしれないし、表向きはニコニコしていても、心の中では怒っていてすごく恨んでいる、なんてこともあるかもしれない。それはたしかに怖いです。でも、あまり怒らない人で我慢してない人だっていますよ。▼怒らない人は、怒るのを我慢しているとは限らないこちらの記事で聞いたように、Stimulus Response(刺激反応) 怒りの感情が出るという反応は、刺激と反応の間にあるもので決まります。今回は、刺激と反応の間にあるものを、プログラムという言い方を使います。よく怒る人(表に出さない人でも)は、刺激に対して怒るプログラムをたくさん持っている人。という言い方もできます。怒る出来事があって、怒る人と怒らない人がいるわけではない。本当の意味であまり怒らない人というのは、怒る出来事があまり起こってないんです。よく怒る人は、怒る出来事がたくさん起きている。まったく同じ環境で同じ出来事を体験しても、自分の中のプログラムの違いで、怒る出来事が多い人と少ない人の差が出ます。ここはわかりにくかもしれません。はじめから説明します。▼怒る出来事とは何か?この世界で起こる出来事は、いいも悪いもないし、嬉しい出来事、怒る出来事でもないです。その出来事が発生した時点では中立です。認知によってはじめて意味が出てくる。その出来事を認知した瞬間に、自分の中にあるプログラムが働いて反応が出る。その反応が怒りの感情だったら、その出来事は、怒る出来事だとはじめて言えることになる。その出来事は、はじめから怒る出来事として生じているものではない。怒る出来事があったら、怒りの感情が生まれたわけじゃなくて、元々は中立の出来事だけど、怒りの反応が起きたから、目の前で起きた出来事は「怒る出来事」だと認識されているということです。時系列で説明するとこうなります。一瞬のことです。・怒る出来事を体験したとき(Aさんの場合)中立の出来事(刺激)が起きる⇒プログラムが作動する⇒反応が起きる(怒りの感情生まれる)⇒怒る出来事を体験したと認識する・嬉しい出来事を体験したとき(Bさんの場合)中立の出来事(刺激)が起きる⇒プログラムが作動する⇒反応が起きる(嬉しい感情生まれる)⇒嬉しい出来事を体験したと認識するはじめの中立の出来事はまったく同じ出来事です。はじめから怒る出来事なんてものは存在せず、自分のブログラムによって怒る出来事として認識されるかどうか決まるということです。怒る出来事が起きる⇒プログラムが作動する⇒反応が起きる(プログラムによって怒りの感情が出るか出ないか決まる)こういうことではないんですね。具体的な例をあげます。アメブロのコメントで以前は、スパムコメントがよくありました。そういうコメントも怒る人と怒らない人がいます。こんな感じのコメントです。「素敵なブログですね。私はこういうブログをしていますので、よかったら来て下さい♪」プログラムを使い自動で色んな人のブログにコメントを付けて回る。この話で説明します。・怒る出来事を体験したとき(Aさんの場合)コメントを読む(刺激)⇒プログラムが作動する⇒反応が起きる(怒りの感情生まれる)⇒怒る出来事を体験したと認識するAさんのプログラムの中身はこういうものが入力されている。・コメントでこういうものはスパムコメントであるという知識・スパムコメントは迷惑・わざわざ削除するのが面倒・読んでないのに読んだようなコメントでだまそうとしてる感じが嫌などコメント読んだ瞬間に、こういうプログラムが作動して、反応(怒りの感情がでる等)が起こる。別の人のプログラムで、「コメントでこういうものはスパムコメントであるという知識」これがない人だったら、怒りの感情は起きないですよね。その人の認識では、普通のコメントです。怒りの感情はでません。怒りの感情を我慢しているわけでもありません。コメントを読む(刺激)⇒プログラムが作動する⇒反応が起きる(嬉しい感情生まれる)⇒嬉しい出来事を体験したと認識するこの人の場合は、普通にコメントに返事することもある。「素敵なブログと言ってくれてありがとう( ´ ▽ ` )私もブログ訪問させて頂きました。また行かせて頂きますね。」素敵なブログと言われて嬉しい出来事があったということになります。同じ出来事を体験しても、プログラムによって、今日はいい出来事あったなぁとなる人と、今日は嫌な出来事があったなぁとなる人がいる。スパムコメントで怒る人が、プログラムに「金儲けは汚いこと」という価値観が入っている人だとします。それで、スパムコメント先が金儲けやっているところだとしたら、さらに怒りゲージは上がりますよね。怒りの度合いも、プログラムによって違ってきます。ということは、プログラムを変えることによって、怒りの度合いを下げることも可能です。「金儲けは汚いこと」という価値観が変われば、その分の怒りの度合いは下がります。これは、出てしまった怒りの感情を抑えたりコントロールすることとは違います。あくまで考え方や価値観を変えただけですから、自然と出る感情はコントロールしようとはしていない。プログラムを変えて、自然とでる感情が変わっただけです。あまり怒らない人(我慢もしてない人)は、その人の世界では、怒る出来事はあまり起きてない。平和な世界です。よく怒る人は、その人の世界では、怒る出来事がよく起きている。あまり平和じゃない世界です。よく怒る人(表に出さない人でも)は、刺激に対して怒るプログラムをたくさん持っている人。その世界を作っているのは自分自身です。自分自身で作っているのだから、変えていくこともできます。おまけ的な話。▼スパムの語源語源は「SPAM」ランチョンミート(ソーセージの材料を腸ではなく型に詰めたもの)。アメリカではとりあえずの贈り物と言えばスパムが定番だそうです。それで、「またスパムが届いたよ。そんなにいらねーよ」ということから、勝手にどんどん送り付けられるメールをスパムメールなどと言うようになったそうです。しかし、SPAMが超大好きな人にとってはどんどん送られてくるのは嬉しいですよね。スパムメールやスパムコメントも、はじめはただのメールやコメント。自分が迷惑だと思ったときにはじめてスパムと呼べる。ということが言えるかと思います。

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      テーマ:
  • 14 Aug
    • 怒る出来事があって怒らないのはおかしい?

      怒らないようにしていこう。怒ることがあったら反省して、怒らないようにしていきましょう。こういう話をしていると、質問や反論が来ることがあります。それに対する答えの記事として書きます。「怒る出来事があって怒らなくなるのはおかしい。怒らないようにするなんて不自然です。感情を我慢するのはよくないです。」この話は、食べ物で例えるとこうなります。「こんなまずい食べ物を食べてまずいと思わないのはおかしい。感情は我慢しない方がいいんです。」例えば、ピーマンが苦くてまずくて嫌いだったとします。自分にとってピーマンはまずい食べ物です。では、ピーマンをおいしいと食べる人は、苦くてまずく感じる感情を我慢したり抑えているのでしょうか?違いますよね。ピーマンがおいしい人は、嫌な感情を我慢しているわけでもなく、自然とおいしく感じています。口の好みが変わることもあります。子どもの頃はピーマンが大嫌いでしたが、大人になったらピーマンが好きになったという人もいます。本当に好きになった場合は、我慢強くなったわけでもなく、好みが変わったんです。無理しているわけでもありません。最近の話を使って言えば、自分の中のプログラムが変わったから、自然と出てくる感情も変わったということです。「怒る出来事」というのは主観です。まったく同じ出来事でも、人によっては「怒らない出来事」のことだってあります。そして、「怒る出来事」は主観だから変えることができるものです。「出来事」の見方や物事の捉え方(プログラム)を変えることができれば、「怒る出来事」を「怒らない出来事」に変えることもできます。そして、「怒らない出来事」ならば、当然怒りの感情は出ません。

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プロフィール

猫事

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幸せ、健康、心理学などに興味あります。 尊敬する心理学者は、心理学の三大巨頭のひとりアルフレッ...

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マスターの教え


自分はすべてを知っていると思っている人は何も学びません。

問題に抵抗を持ってのぞむ者も、ほとんど何も学びません。

そういう人にあまり希望はありません。

しかし、何ごとにも心を開いて取り組み、自分の成長と安らぎと幸せになることを喜んで学ぼうとする人は、賢い人です。


私の言うことを、全面的に信じなさい、とは言いません。

それではあなたの思想の自由を侵害することになるからです。

しかし、私の言うことを疑ったり、抵抗したりしないようにしてほしいと思います。と言いますのは、そうすることによって、あなたが求めている助けが得られなくなるからです。あなたにとって、最高にためになる態度は次のようなものです。


「私はこれらの教えに対し、心を開き、中立的な姿勢で、自分が得られるものは全部吸収しよう。
そして、今現在、私に理解できない事実や、信じられない考え方や、主張があっても、そうだからといって、それが正しくないとは言えない」
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