(263)原発先端技術・日本人ここにあり | 江戸老人のブログ

江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。





(263)原発先端技術・日本人ここにあり


 

 ノンフィクション作家上坂冬子(1930~2009)氏は世界中の原子力発電所施設を訪れ、優れた比較をされ、現場からの発言をされている。アジア八カ国の原発を訪ねた記録を集めたのが本書だが、【終章・エピローグ】にわが国の優れた分析がある。ここだけでもご紹介させていただきます。少し長いですがご容赦のほど。
 
 

 アジアといえば日本をはずすわけには行かない。八カ国をまわったあと、青森県【六ヶ所村】に行きたいと思った。前に一度訪ねたことがあるが、あれからさぞ変わったことだろうと興味が湧いた。
 
 いうまでもなく、六ヶ所村にあるのは、まず天然ウランの中から燃えるウランを取り出す「濃縮工場」である。天然のウランからは原子力発電所で燃料として使えるウランがわずか0.7%しかとれないのだそうだ。これまでは取り出したウランを外国から買ったが、天然ウランから自力で取り出せば、原子力発電の燃料が自前で確保できる。
 

 もうひとつは、原子力発電所で使い終えた燃料を処理する「再処理工場」である。発電所で使用済の燃料は、これまでフランスやイギリスの再処理工場に送って処理を依頼していたから、これも日本で自力で始末できるようになれば、原子力発電に関して原料から最終始末まで一貫して他国をあてにせずに済むことになり、文字通り完全な原子力の独立国になれるわけである。

 

 使用済みの燃料を再処理すると新しい燃料として役立つプルトニウムと、その他のカスとにわかれるが、プルトニウムは例のもんじゅで燃やせば新型の発電の開発に役立つことになる。(注:アジアの原子力関係者がなぜ【ナトリウム漏れ】などという本筋とは無関係の理由で実験そのものを中止したのか理解に苦しむ、との声がほとんどだ)その他の燃えカスには大量の放射性物質が含まれているから、高レベル廃棄物として厳重に保管しなければならない。そのための場所も六ヶ所村に用意されていると聞いていた。

 

 さらに発電所の中で作業員たちが身につけた【白衣や手袋など】、少量の放射性物質が付いていると思われるものは、低レベル廃棄物としてドラム缶に詰めて地下に埋め込むことになっており、その埋蔵場所も計画されているとのこと、これらすべての事業を青森市に本社を置く日本原燃㈱(JNFL)と、六ヶ所村にあるその事業所が行っている。

 

 以前六ヶ所村を訪ねたのは七年前で、ちょうど濃縮工場の建物だけが完成したところだと記憶している。道中の景色はなんとも【うら寂しく】、途中で帰りたくなったほどだ。その六ヶ所村に、今度は三沢空港から直行して「おや?」とおもった。
 道がすっかり良くなっている。道端の熊笹や松林などは以前と変わりないが、気のせいかところどころに黄色い雑草の花などが咲いて、何となく活気が感じられるのだ。そういえば以前と大きく変わっているのはあの鉄塔のせいだ、と私は遅ればせながらきがついた。

 無人の原野を高圧線の鉄塔が縦横に走っているが、依然きたときにはその影すら見当たらなかった。ちょうど旧盆の頃で、下北半島のつけ根とはいえ真夏の太陽が照りつけて車の中にも熱気が伝わってくる。松林を過ぎるとトウモロコシ畑となり(中略)「つきましたよ」、といわれて驚いたが、三沢空港からわずか一時間ほどで六ヶ所村の役場前に到着した。

 

 辺鄙(へんぴ)な地というイメージは何時しか消えてしまっている。最も、あたりの活気くらべると役所の建物は意外なほど質素で、原子力発電の原料から燃えカスまでを一手に引き受ける近代的な事業を抱えた地域の役場とは思えない。人口一万二千人というから村落としては大きいはずだが、何処にでもある村役場の風情である。



満州開拓民農民の息子

 ともあれ、私が六ヶ所村を訪ねたいと思った目的のひとつは、村長にあうことであった。しばらく前に新聞の人物評で「六ヶ所村村長・土田浩」とあったのを読んで以来(1995・12・7「朝日新聞」)機会を得てこの人に会いたいと思っていた。マスコミの記事として、実に公平な人物評だったのに私は心ひかれていた。
 

 一般にマスコミは原子力関係者に厳しい目を向ける場合が多く、公平に書かれているようでもチラと意地悪な文言が一行加わっていたりする。だが、原子力発電に関する本拠地の村長を取り上げながら、目配りのきいた見事な記事がまとめられていた。私はこの達者な記事に注目しながらも、もしかしたら記者は村長に好感を持ったのかも知れぬと考え、ならば私も会ってみたいと思ったのである。村長が満州の開拓村生まれだという点も私の関心をそそった。
 
 さて、土屋村長は、贅肉の無い体格と、細面の皮膚の張りと、黒々とした髪の持ち主だった。満州生まれにしては若すぎると思ったが、私とほぼ同年輩とのことで決して若くはない。簡単な挨拶を交わしたあと、話題は当然満州に移った。(中略)
「昭和六年、満州事変の年に私は満州開拓農家のお坊ちゃまとしてうまれたんですよ」
という村長の言葉をユーモアとして受け取ったが、実際に父親は開拓者として大成功をおさめたという。学校でも地域でもたくさんの満人(現・中国人)の友達ができた。今でも中国語が自由に話せるばかりか、近所には白系ロシアの友達もいたから簡単な会話ならロシア語にも事欠かないという。



孤独な戦い

 お坊ちゃま生活も昭和二十年四月までだった。父親に召集令状が来たのだ。長男を含む五人の子供は母親にすがって山形県酒田の母親の実家に引き上げ、旧制酒田中学校を卒業した彼は、北海道大学に合格したにもかかわらず、満州時代の仲間たちとともに六ヶ所村に入植して開拓を始めた。
「開拓は楽な道ではないとは承知していましたが、予想以上の険しさでした。昭和二十八年に霜がおりてジャガイモが全部やられたし、昭和三十年九月の早霜では陸稲(おかぼ)が立ち枯れてしまいました。こりゃ駄目だと思った私は冷害対策補助金を貰って北海道に行って牛を買ってきたんですよ」

 日時まで正確に記憶しているということは、相当なショックだったらしいが、彼はショックで方向転換を試みたのだ。通信教育で北海道野幌(のっぽろ)酪農短期大学を卒業し、現在は二百八十頭の肉牛を飼い、酪農農家として大成功している。
 

 いずれにせよ人生を一歩ずつ自力で踏み固めてきた人であることは間違いない。新聞記者が好意的な記事を書くはずだった。山形から入植した仲間ばかりで、六ヶ所村に庄内地区をかため、酪農を軌道にのせたころ、彼が村会議員に選ばれたのは当然のコースといえるだろう。

 六ヶ所村にウラン濃縮工場などの原子燃料サイクル施設の設備を推進した前村長の時代に、彼は選挙参謀役を務めたというから、彼の頭の中には当初から村の将来展望が描かれていたと思われる。


「貧乏はきらいだからね」

 と、村長は当時を振り返って言葉少なにこういったが、彼が口にする限りこの言葉はしみじみとした実感を伴って胸にひびく
 私が長々と村長のこれまでの人生を紹介したのは、ほかでもない。
 各方面からの批判や反論を浴びながら進路を決めねばならない問題を抱えた地域で、順調にことを成功させるための第一条件は、ひとえに村長の人柄と見識と意思にあるというのが私の持論なのだ。土田村長の進んできた道を聞いて、六ヶ所村にとって、この人材を得たのは何という幸福であろうかと私は思った。
 

 当初は、六ヶ所村に原子力関係の施設を設置することに対して、当然のことながら村には不安や批判や反対の声があったはずだ。ばらばらに乱れた住民の声を、住民投票の多数決にたよったりせず、こんにちのまとまりにこぎ着けたのは、ひとえに土田村長の身についたノウハウによるものだと私は思っている。開拓の仲間から頼られる立場で一歩一歩踏み固めてきた彼の人生の一部始終を見定めてきた村の人々は、その無言の説得力になびいたに違いない。


第一次産業優先

 いったん村長に別れを告げ、いよいよ日本原燃㈱の案内で六ヶ所村の施設を見学することになった。最初に私が声をひそめて「役場の建物の貧相なのが意外だった」とつぶやくと、原燃の職員は苦笑しながら「そのあたりが他の地域と違うところでしょうなぁ」
 という。原子力発電に関係ある地域に行くと、電源三法(施設地に金が入る)の交付金による新築の庁舎や各種施設が目立つため、私としては心ひそかに六ヶ所村にそれを期待してもいたのだが、
「この村ではまず、野菜保存のために保冷庫、魚の養殖施設、牛乳の処理加工施設、農道、村民共用の農機具、密漁発見レーダーなど、生産業務に関する最新の設備が完備しています。関係ない施設といえば、特別養護老人ホームと身障者施設くらいかなぁ」
 

 つまり原子力施設がこようと電源三法の交付金が入ろうと、村長個人も村全体もこれまでどおり片時も気をゆるめることなく第一次産業優先の姿勢をまもり、マイペースを乱さないのを鉄則としている様子が察せられる。その成果として村民一人当たりの所得は二百九十七万円(1993)で、青森県で一位の座を占めている。新聞には「核燃料サイクル施設関連で建設業が伸びたため」とあった。

 漁業や酪農はさておき、村は農産物としてナガイモ、ニンジン、ゴボウなどの根菜類が特産である。つまり葉野菜やコメなどが豊富にとれるような肥沃な地ではないのだ。にもかかわらず六ヶ所村は、来年から地方交付金の打ち切りが決定した。かって私がぞっとしたほどの辺鄙な村が、いまや国家の援助を必要としない長期健全財政となったことを示している。



ウラン濃縮工場

 延々と続く用地の一角に、七年前に見たウラン濃縮工場がそびえていた。以前訪ねたとき【工場長が広島の被爆者だった】のを私は思い出した。何事もすぐに顔に表す私は、工場長からこれを聞いたとたんに、エッといって怪訝な表情をしたにちがいない。工場長はおだやかに、
 「たしかに原爆のおそるべき破壊力を、私はこの目で見定めました。だからこそ、あんな凄い破壊力を平和産業に生かせたら別な意味ですごいのではないかと、私はいわば被爆をキッカケとして原子力発電に関心を持つようになったんですよ」と語っていたのが印象的だったが、彼はすでに役割を終え、本社に戻ったという。


 原子力関係で働く七百名の職員のうち、半数は地元出身者とのこと、日本原燃には秋田大学工学部出身の女性技術者も採用されている。(中略)使用済みの燃料受け入れ施設の屋根は、一メートル二十センチのコンクリートでおおって、戦闘機が墜落しても大丈夫なように処置してあるとのことだ。
「やりすぎだわ」

 私は思わず口走った。
 なぜなら、施設の上は飛行禁止地域としてシグナルをつけ、厳重に飛来を防いであったからだ。これでもか、これでもかと危険を予想するのはいいけれど、【あり得ないこと】まで予測することはないではないかと、私としては呆れる思いを隠せない。

 

 アジアの国々を見るがいい。確かに各国とも慎重に手を打ってはいたが、これほど【微に入り細にわたって、いささかノイローゼ気味といえるほどの対策】を施してある国は日本以外にないといっていいだろう。念入りなのはいいけれど、ものには程度があろうと憎まれ口すら利きたいほどである。


人工太陽の夢

 いま、ウランの濃縮から再処理にいたるサイクル施設の完成を目前にした土田村長は、さらにもうひとつの遠大な夢を描き始めている。夢というよりどうやらこれは実現の可能性もある話なのだ。そもそも、原子力発電のあとのエネルギーとして国際熱核融合実験というものが手がけられている。

 これはややこしくいうと、重水素や三重水素など、海水の中に無尽蔵にある軽い元素の原子核を融合させて、その際に放出される膨大なエネルギーを利用するのだそうだ。
 

 簡単に言うと、核融合を利用したこの方式は、無公害で半永久的なエネルギーを生み出すところから「人工太陽」と呼ばれて期待されている。もちろん世界の科学者の全知と、膨大な投資および時間を要するため、アメリカ、ロシア、EU,日本の四極で開発を進めており、すでに話は実験炉を何処におくかというところまで具体化してきている。

 そこで実験炉の着手が再来年と決定された段階で、土田村長は各国にいち早く名乗りをあげ、【六ヶ所村核融合研究施設誘致推進会議】を発足させたのである。経団連もバックアップする姿勢をみせているという。兵器と無関係の分野で、日本は研究の開始が早く、また相当な進歩が見られこの分野では三歩も四歩も世界レベルを凌駕(りょうが)している。また実験炉はフランスで、と一応決まったが、現実問題として一兆円を超える予算がフランスでは不可能と推理され、総合判断するといずれは六ヶ所村に、と考えられている。



屈折した底力

 そそっかしい私は、何時しか早合点して、声を上ずらせ、
「誘致できるといいですねぇ。できますよ、きっと。そうなれば六ヶ所村は原子力のメッカとして日本だけでなく、世界の注目を集めることになりますね」
 と口にした。だが、ここで村長はむしろ冷ややかに答えたのである。
そういうことじゃないんだ、石油もウランもいずれ底をつくでしょう。そのときに日本だけでなく世界があわてないような道をつくっておきたいんですよ。おこがましいかもしれんが、私は六ヶ所村の発展もさることながら、人類の未来のために村が役立つならと・・・」
 

 最後は消え入るような声になったのは、自信喪失のゆえではなく、謙虚ゆえであることはまちがいない。この人が少し照れた笑顔を見せながら声の調子を落とすときには、絶大な自信を秘めながら、それを恥ずかしがっているときのしぐさなのだと、いつしか私は、彼の癖までみぬくほど接近していたのであった。

 

 それにしても、日本とは何と屈折した底力を持つ国であろうか。
 一部の人々の反対や、マスコミの情け容赦ない批判に対して真正面から四つに組んだりせず、むしろ腰をかがめるようにして低姿勢で耐えながら、その実、いつのまにか総電力量の三分の一を越える原子力発電を確保し、ウランの濃縮からプルトニウムの確保、それに廃棄物の処理場に到るまでのサイクル施設を、ほぼ計画通りに実現したのである。

 アジアの国々でも、原子力関係者なら「ロッカショ」の名前を知らぬ人はいなかった。
 しかもいま、世界の先端を行く、次の時代の人工太陽にまで手を伸ばしているのを知った私は、いささか陰湿にして、確固たる日本の実力に脱帽するのみだ。
 

 先にヨーロッパ諸国を回り、今回アジア八カ国を巡回して、最後に六ヶ所村の現状を見定めた私としては、少なくとも原子力発電の周辺に原爆論争とは無関係の進路が整っており、日本は未来に向かってその道をふみかため、ひっそりとゆるぎない地位を築き上げているのを知ったのである。


引用本:『原発を見に行こう』上坂冬子著 講談社 1996年