(262)日本写真立国 | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(262)日本写真立国


 

 カメラというのは「部屋」という意味とはご存知と思います。カメラ・オブスクラの略語で、暗室という意味からだ。昔のヨーロッパでは暗い部屋に穴を開け、反対側の壁にできる映像を日食観測などイロイロに使った。いまでいう針穴写真機(ピンホールカメラ)の原理で、筆者の幼い頃は、雨戸の節穴から光が入り、部屋の中に外の景色が逆さに写ったりした。たしか葛飾北斎もこの現象を描いていた。雨戸がない家屋では無理かもしれない。

 レオナルド・ダ・ビンチも、メモとか自分の研究対象を正確に描くために使っている。欧米の常識が、なぜか日本ではカメラは少々低いものとされ、活躍を認めてもらえない。

 

 ピンホールカメラは暗いから見にくい。そこで17世紀にケプラーなどがこれにレンズを取りつけた。詳細は省くが、実用に耐える明るさとシャープな映像がピントグラスの上にできた。ただ、被写体までの距離によってピントを合わせる作業が必要となった。
 
 この頃は記録の方法がなく、半透過紙をピントグラスに貼り、映像をなぞってあたりをつけた。つまり職人が手作業で映像を記録した。なかには優れた画工も現れ、たとえば著名画家フェルメール(1632~1675)がいる。

この人の作品は小さいものが多い。カメラ・オブスクラを使ったから、このサイズで作品の大きさが決まった。もちろんカメラといっても今と比べればずっと大きい。フェルメールの絵画『赤い帽子の女』が検証され、レンズがつくる映像によるものと証明された。確かニューヨークのメトロポリタン美術館だったと思う。ググって頂きたい。データ元は『ライフ写真講座』です。


 

 蛇足だが英国美術学校では絵画にはレンズを使っているのが常識なのに、日本では認めようとしないから注意が必要。「絵画道(かいがどう)」に反するのかもしれない。日本でも司馬江漢などは使っていた。江ノ島のエッチングは写真映像との検証がある。また葛飾北斎もこれを試したことがあり、「あるように描きても面白からず」、そのまま描いても面白くないだろう? といったとされる。

 

 

 1839年フランスで銀の板に映像を記録する手法ができた。仏人ダゲールがニエプスらと作り、ダゲレオタイプと呼ばれる。その後、銀塩による湿板写真ができ、濡れたうちだけ写る感光材で、これが発達して、ドライ・つまり「乾板」となり、もっと発達してフィルムとなった。カメラはどんどん小型化していった。

 

 昨今はデジタルの出現でだいぶ変わったが、もっと凄い技術がすぐに出てくる。わが国には1857年に薩摩藩主島津斉彬のダゲレオタイプ写真が残るが世界と比べそうとう速い。

 長崎では1862年(文久2年)に上野彦馬(うえの・ひこま:1538~1904)が写真館「上野撮影局」を開き坂本竜馬など幕末の志士の映像を残した。横浜では下岡蓮杖(しもおか・れんじょう:1823~1914)が同じころ写真館を開設、日本の風俗をみやげ物カードとして発売し海外に広め事業として成功させている。一人で写真薬品のアンモニア、青酸カリを独自に作ったとされる。

 1889年コダック社が安価なカメラを量産し、写真は身近となった。1925年にはライカが発売され、映画フィルムの2コマ分を使って現在のカメラ原型ができた。
 写真が登場した頃のヨーロッパでは、旅行記などの出版が多かった。旅行記には映像も欲しく、職人画工が描いていた。だが写真のほうが速くて安い。画工は職を失った。


 絵描きも写真のように描いていたのでは商売にならないと不安になった。「写真を禁止しろ」、などとフランス政府を脅した大御所のアングルは、ちゃっかり写真家ナダールに自分のモデル、クリスティーヌを撮影させ、1856年に有名な絵画『泉』を完成した。

 ナダールの写真館にはパリの著名人が集まり、デュマ、ユーゴ、ボードレール、アングル、ドラクロア、ミュッシャ、女優サラ・ベルナールなどのサロンとなった。写真を悪魔のごとくいったボードレールも2枚の肖像写真を残した。

 

1874年、パリ・キャプシーヌ通りナダールの写真館で第一回印象派展が開かれた。ひどく評判が悪かったモネの作品『印象』から印象派といわれた。写真のように描くことを卒業し、光、物質、色彩など科学を取り入れ「印象の正確さ」を描こうとした。このとき日本の浮世絵に強い影響を受けている。つまり以後の西洋絵画のお手本となった。

 

 アルフォンス・ミュッシャの撮影した写真は現代と比較しても高度である。ドガも写真を利用、カメラを構えたロートレックの嬉しそうな写真がある。ここで写真と絵画は融合したようだ。


 ところで㈱富士フィルムによると、フィルムのうち、われわれが写真に使うフィルムは全体の2%以下、写真の95%以上は、医療、精密工業ほか諸産業、その他の実業に使われる。最近は医療現場でもデジタルが増え、銀塩フィルムはもっと減少した。

 ニコンの半導体回路制作、潜望鏡部品、オリンパス光学の医療用内視カメラ(昭和24年から東大医学部とオリンパスの共同開発:この劇的逸話は小説家吉村昭氏の『光る壁』に詳しい)・工業用内視カメラ(運転中のエンジンの中を見る)・非常災害救助用など、日本は常に世界一の高度技術を維持する。症例によっては内視鏡手術で苦痛が少なくなった。全部ではないが飲むだけのカプセル胃カメラも実用化されている。 

 

 戦後何もないとき、日本では優秀なレンズができた。優秀なレンズの制作には膨大な量の計算が必要となる。計算に秀でたな若い女工さんたちが日夜努力してニコン、キャノンなどライカに匹敵するレンズをつくり出し、ついには追い越した。筆者はニコンSPは、有形重要文化財あるいは工業文化財指定すべきと考えている。その後は日本で開発された一眼レフカメラが主流となり、1977年(昭和52年)にはコニカからオートフォーカス・カメラが発売され、ついには日本のカメラなどの写真用品は世界を独占するに至る。ドイツ・スウェーデンでもカメラを生産しているが、コストで追いつけない。世界のマスメディアで使うカメラ類(TV用を含む)はほとんどが日本製だ。


 

 話がそれるが、ほんものの名画を直接ご覧になった方は少なく、ほとんどが画集などで見る。画集は、絵画の写真を集めたもので、ホントは写真集だ。仮に浮世絵を印刷したいとして、東京都江戸博物館に頼み、許可されると浮世絵の写真か写真データのCDを貸してくれる。本物を貸してくれるわけがない。

 

 「見る」という行為は、実は大脳というデータベースにある記憶と照合し、対象を認識している。1950年代にアメリカで52歳で目が見えるようになった患者がいた。ところが何も見えない。視覚系の機能は完全でも、データベースがカラだから、結果としては何も見えなかった。ヒトは直径が1メートルのリンゴがあれば、直ちに偽物と判断する。首が2メートルの女性がいたらお化けと判断するのは、大脳にあるデータと比較照合する結果だ。

 最近、日本で大脳微電流をつかい、初歩的な大脳内映像を取り出すことに成功した。今後信じがたい技術が日本に登場すると予測する。色についてはまだ分かっていない。だが暗いところでも自分の車色は判断できる。これを「記憶色」という。黄色い衣服の少女の写真スライドを、青いスクリーンに投影するとグレーに見えるが、いったん白いスクリーンに投影してからだと、青色に見える。「色覚恒常現象」という。

 

 現代では写真の世界は、驚くほど専門化している。プロカメラマンとは、厳しい訓練と修業を積んだ技術者で、決して芸術家ではない。「芸術」では飯が食えないし社会へ役には立てない。感性とか芸術とは無縁な高度技術と知識の世界だ。医師とおなじく極度にその分野の該博な知識が要求される。医学写真家が存在し、手術に立ち会い写真とビデオを撮影する。外科医と同等な知識を必要とする。たとえば腕時計の商品撮影は世界一、二の腕でも、人物や風景写真はアマチュア同然といったことが起きる。

 

 アマチュア写真家の仕事は写真を楽しむことだ。カメラは鉛筆・筆と同じ、なにをどう書こうが大きなお世話である。カメラとは鉛筆と同じで何を書いてもいい。また書くことができる。一人で孤独にやるのもいいし、集まって撮影旅行も楽しい。展覧会のあとの飲み会なども実に楽しい。眉間にしわを寄せ、芸術するのは若者の特権だ。夜を徹しての議論もいい想い出となる。

 

最後にひとつだけ、チャントした写真館で、よそ行きの肖像写真や家族の集合写真を撮影しておくことをお勧めする。キチンとした所は、ネガを長く保存するはずだ。その料金も含めてと考えれば安い。葬儀の写真が運転免許証からというのも寂しい。退屈で平凡な日常が、あとから人生で最も幸せな日々だったりする。

                                      以上

参考資料:『ライフ写真講座』など。