事故寸前で回避・ファスト風土でも風土の内ではないか? | モデラー推理・SF作家米田淳一の公式サイト・なければ作ればいいじゃん

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 うっかり今日シフト勤だったの忘れて前日夜更かし。

 ヤバス。

 カフェイン2錠入れてコーヒー2杯飲んで勤めへ。

 でも、いつものデスクにつくと頭が再起動。

 部門会議をさくさくやって、まとめる。

 明日も会議なので、寝ないと。



 でも、かかわっている交通プロジェクト、とくに循環バスが惨敗ではなかったのがよかった。

 もっときつい状態かと思っていたら、案外健闘している。

 これから新病院という需要の援軍も来る。事業としてはこれで満足だろう。

 現在勤務先のとなりで新病院建設中。もうほとんど仕上がったかな。

 これで町の分散したリソースが集約される。

 この勤務先のところは町の中央部なので、市街計画的には適地。

 しかし、いろいろ考えると、バス同士の乗り換えというコストを払うほどの需要は現実にはあるのかどうか疑問という形を考えた。

 街づくりにも万能理論というのはないと思うけれど、でも現在のうちの町のロードサイド店の並ぶ近郊風景を見ていると、これはこれでまた文化に止揚していくほうが現実的な気がする。

 特に、私の町は日本の田舎、といっても色彩的統一もないし、量販店が幅を利かせている典型的な「ファスト風土」と言えるかもしれない町である。

 だが、問題はその町並みを規制して、色彩を統一し、交通網を改良すると言っても、それはハードウェア、要するにがっちりした箱を作るか、今ある箱の色を変えるかであって、街づくりとはコミュニティの形成が基礎であり、その理解を元に、必要であれば色彩を統一し、コンパクトな市街に転換しなければならないのだが、その基礎が泣ければ単に住みにくい町にしかならない。

 それと、市街はどんどん変化していく。そのなかで、私の町では規模的にいうと、市街地というには密度の低い全体に、いくつもの市街の小さな核が衛星状に存在しながら、中心はいまだに地権者問題も抱えている以上、大規模な都市計画を作っても頭でっかちではないか。

 現実に高齢者でも後期高齢者といういやな言葉で語られる人々も、けっして寝たきりばかりではない。ボランティアでイベントをすると、まだ他市との境の川に丸木橋しかなかったような時代の話をしてくれる人もいる。

 それ以下の高齢者は、わが町では軽自動車、特に軽トラックで自由自在に移動している。街自身も歩車分離というわけではないが、普通車より小さな軽トラックが一番好適な規模になっている。

 特に旧街道沿いの古民家や社寺神社などへは、軽トラックに乗って出かける老人が多い。

 子供の送り迎えにも軽自動車は大活躍である。

 彼らに軽自動車や軽トラを手放して、運転密度を上げるのが難しい循環バスに乗り、さらに遠方には吹きさらしのバス停で幹線バスに乗り換え、さらにその先の鉄道を利用せよというのは酷な気がする。

 バス施設の改良と言っても、投資額の大きさと利用頻度を考えると、どう考えてもわが町での利用スタイルを変化させるのは、まだ現実的ではないと思う。現状ではその軽自動車の安全な運転の講習会を開いたり、本当の移動困難者には福祉タクシーを使うようにするのが現実的だと思う。

 循環バスはそれでも効果を挙げている。だが、事業としてこれ以上拡大するには若干リスクがあるし、しかしきる事業というほどの惨敗でもない。

 そのなかで、まず今、市民地域公益活動の盛り上がりを作っていくことで、この町にある昔からの地縁血縁意識から町民の意識を役所対住民ではなく、役所でも要求する住民でも、官設民営でもなく、住民の公益活動による町民意識の向上のほうが効いて来ると思う。

 バスを走らせたり、LRTを走らせたりという目立つプロジェクトは確かにロマン的である。そして、さまざまな目立つ地域活性化のプロジェクトもあちこちで行われている。

 だが、地域の活性化は、住民の活性化であり、外から考えを持ち込んで「啓蒙」するようなやりかたでは住民にとっては考え、思想というハコモノと同じである。

 逆に、住民が活性化すれば、たとえば恩師内海信彦先生の大磯町で行われたネイティブアメリカンのコンサートは夜間は使われていない幼稚園を開放してもらって大人と子供が徴収となって実施された。

 こういう活動を少しずつ進めていくほうが着実であり、むしろ豪華なハコモノを作るよりも、時間的に施設をシェアすることで施設に住民が関心を持ってくれるし、それが施設の有効利用・活用であると思う。

 そして、外見が色彩の混在するロードサイド店ばかりとしても、その店をうまく使う心の若い高齢者が軽トラで自由に生活し、その生活の中に文化的な活動、地域教育、地域での歴史の共有があるのなら、それはファスト風土でありながら、それはそれで風土ではないだろうか。

 もちろんこれはわが町での考えであって、それも循環バスプロジェクトで感じたことであり、一般化は出来ないが、むしろこの街づくりの理論の一般化こそが国土の近郊ある開発という田中角栄と堤財閥・コクドに象徴される乱開発とその結果の自立できない地方への傾斜になっているのではないか。

 たまにくるコンサルタントの一般化されたご高説に啓蒙されてしまうような住民には地域の活性化の主体はつとまらない。日々の生活のなかで、何が文化になっていくかを考えられる創造的な住民をつなげ、コミュニティ化していくことこそが地域活性化の基礎であると思う。

 ファスト風土にもファスト風土の言い分がある。逆に言えばそのファスト風土とくくってしまうのは、三丁目の夕日的なノスタルジーを批判しながら、結局はちょっと違ったノスタルジーを称揚しているだけで、本当に必要なことは、懐古的でもなく、焼畑的でもない、日常のひとつひとつを文化化していくことではないのか。

 それはいわゆるエコロジーやロハス的な我慢を美徳としたり、経済性に対しての対立的態度ではない。そういうものを無理して実行しても、結局長続きせず、あとには廃墟しか残らない。

 経済的合理性を考えながら、文化を考える。そこには人々の自然に文化化された生活があると思うし、その上に街づくりが立脚しなければ、どんな立派な計画があっても、人々を対立させ、自然も文化遺産も「立派にする」という本質的な文化、本質的な価値を見失った、見栄えだけのむなしく殺伐とした空間しかない。

 そう考えると、政治家は目立つ成果としてハードウェア、LRTやバス路線や施設拡充をしないといけないベクトルがあるところで言いにくいだろうが、それはそれでわが町には町の隅々を点検するような公益活動の人々もいる。

 いくつか作られたハコモノも、それはそれで満たせるような活動をしている住民団体もある。

 となると、確かにまだ経営という面で安心は出来ないにせよ、「高邁な」理想を導入して「街づくり」を急ぐことは、設備施設的な投資という目立つ活動にどうしても傾斜してしまうし、そのなかで明らかに利権的な問題によって作られ遊休している施設もあっても何とかなっている自治体を、確実に悪化させてしまう。

 それなら、大いなる決意を持って、現状維持をはかるべきではないか。現状維持というのは実は一番難しいことである。常に新たな理想や技術が誘惑するなかで現状を維持するには、それらをよく検討し、一部を試験導入して検討し、それで採否を決めるとしても、それらが有効な策になるまで息長く検討を続けなければならない。

 その検討だってさらに難しい。一度つけた予算を切ることができない役所の掟によるものか、それとも技術の動向を見極めるものか、それは政治的決断、とくに自治体政治における批判のための批判と、なし崩しをする無言の肯定の図式には任せられない。

 街づくりは自治の本質であり、そのさらに本質は住民の活性化である。住民の意識が低いというひとがいるが、意識は低くて当然である。しかし、その低い意識には理由があるのだ。地縁血縁社会と単なる経済の理由に寄って転居してきた新住民の間にもまた対立があるし、それぞれ独善的であることが意識を低くしている要因である。

 そこで住民の活性化には、文化をつくっていくこと、というよりも、文化を見出す観察活動であり、それは住民にしか出来ない。

 街づくりにも自治活性化・地域活性化にも万能の処方箋はない。息長く観察し、息長く動いていくしかない。

 日本初の地下鉄を作るプロジェクトを始めた創業者は、自身で通行量調査をしながら、その質も見極めようと努力した。

 数値化すると消えてしまう質にも目を向けるべきだし、それは現地調査では不足で、現地で生活せねば見えてこない。生活の文化化こそ地域風土を向上し、現実的な街づくりにつながる唯一の、そして一番困難な事業だと思う。

 だから多くの都市計画が未成に終わっている。いや、成功したとされる計画でさえ、土地政策、地価政策の失敗から切り売りされ、崩壊しつつある例もある。

 生活の文化化という概念を考えたが、それは住民意識の向上が先か、向上する環境作りが先かという循環になりそうだが、なんのことはない。

 一番は、自分がまず生活の文化化をはじめてしまうことである。生活の観察をすることである。そして、その観察とともに、他市街の状況もみながら、まず自分がどこからきて、どこにいて、というところからどこへいくのかを考えるところ、それこそが生活の文化化なのだ。

 そう考えて、この町に住んで、気づいたのは、今は大いなる決意で、敢然と現状を維持することであると気づいた。アイディアを考えるのは大事だが、しかしそれを担保するリソースを考えると、まだまだ変化要素の検討が足りていない。

 しかし、それでも事業として破棄するほどの惨敗でもないところから、じっくり取り組む、という一番目立たず評価もされない結論しか、現状では出せないと思う。

 でも、評価されることよりも、この町が私は好きだ。その町を守り、維持し、成長させていくには、この考えしかないと思う。

 こう考えるまでに大いに刺激になったのがこの本である。


中心市街地の創造力/宗田 好史
¥3,360
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 大変勉強になった。刺激にもなったが、しかし息の長い取り組みも大事だと学ぶこともできた。いい本だと思う。

 生活に文化を取り入れるのではない。生活の中に文化を見出し、生活を文化化させること、それが地域文化、地域風土をつくり、まちをつくるのだと思う。